Second memory 100
= second memory 100 =
『随分、雰囲気が変わられたので、指示がなければわからなかったと思います。兄からのメールは今日のあなたを見てきたかのように書かれていました。
ショートカットにサングラス、細身で、真っ赤な口紅。』
歩きながら田中弟さんはそう言って笑った。
ゴリだ。未だにお見通し。それなら私の今の気持ちもわかってるよね?
SHINじゃない人と二人でこのエレベーターに乗るなんて考えたこともなかった。田中弟さんは私の前を歩いてドアにつくと、少しこちらを振り返ってから鍵を開けた。
『どうぞ。私は公園にいます。お好きなだけお過ごしください。念のために鍵をかけてください。帰られるときはここに電話してください。』
彼はそう言って名刺をくれた。
頭を下げて部屋に。
そこには何もなかった。
机もパソコンも、ベッドも、ピアノも。
中に入って鍵をかける。
足が微かに振るえている。
靴を脱いで床に一歩を置いた瞬間、何もないはずの部屋が私の大好きな幻で染まる。
広いワンルーム、奥の壁にベッド、ベランダと大きな窓のコーナーにピアノ、入ってすぐ右にキッチン、アンティークの大きなテーブル。
『cherry、おかえり』
テーブルで珈琲を飲んでいるSHINのリリックテノール。彼の好きなグァテマラアンティグアの香り。
甦る愛しい光景たち。
そのままピアノのあった場所に。
SHINの血痕があるかもしれない。
でも何もなかった。ただ窓からあの木が見える。SHINが買ってくれたカーテンもないから、窓にははっきりとあの優しい大きな木が。
そのまま座り込む。
白い壁を見つめている間に、realが何も見えなくなった。何も聞こえなくなった。
愛しい光景だけが廻る。
ないはずのピアノの音が聴こえる。
パソコンに向かうSHINの背中。
テーブルで珈琲を淹れてくれる姿、
『ミルク入れる?』って静かな優しい声、
ベッドで眠っている背中の傷、
スースーって寝息、
『おはよ、今日どうする?』って眠たそうな笑顔。・・何もない空間が彼で溢れる。思い出の欠片たちがどの場所にもキラキラと。
そのまま浸っていた。このままここに居させて。
強い風が吹いたのだろう。木の枝が窓を叩く音で我に帰った。
そうだ、ゴリの手紙。
指先に力が入らない。何度も失敗して封を開けた。ゴリの字。
『浦島太郎の気分でしょうね。連絡できなくて悪かったわ。私の力が及ばなかった。ごめんね。
田中弟から話は聞いたわよね。その部屋ひとつ守れなかった自分が不甲斐ない。だから修行してくるわ。
カバも元気よ。居場所は言えないけど。SHINは本当にわからない。猫みたいに姿隠したきり。またどっかに行ってるんだとは思うけどね。
cherry、元の世界に帰りなさい。
それが一番あなたのためよ。
SHINのことは忘れなさい。普通の幸せを見つけなさい。あなたは一人で2年も頑張れた。強くなれたわね。あとは時が癒してくれる。
5年間楽しかったわ。ありがとう。私たちはあなたを応援してる。大下朋をこれからもずっと応援してる。それぞれの場所から。
佐々田さんみたいにTVで取り上げられて。私もカバも画面の中のあなたと再会できるの楽しみにしてる。
元気でね。体に気をつけるのよ。がんばりやさん、頑張りすぎずに。あなたの世界でも、今のあなたならきっと輝ける。』
・・もう会えないってこと?私、理解できないよ。
なぜ?修行から帰ってきたら会えるんでしょ?
会ってくれるんでしょ?
SHINを忘れる?ゴリやカバを忘れる?
そんなことできるはずがない。
たとえwonderlandが無くなってしまったのだとしても、もうこの街にこれないんだとしても、忘れることなんてできるはずがない!!
SHINを忘れる?
何言ってるの?
私とSHINのことはwonderlandの夢物語じゃない。
はっきりとした現実!
SHINと私は婚約してるんだよ。結婚するんだ。
約束してるんだ。
ずっと待ってたんだ。
2年間、ううんもっと前から。
何言ってるの?
私たちの約束知らないでしょ?
今回のことが落ち着いて時が来たら、私たちはもう一度一緒に暮らすの!
結婚して、神村になって、雛ちゃんって女の子ができて、幸せに暮らすの!
SHINがどこの国のどんな世界に行っても、私たちは待って、SHINは帰ってきて、歌って、笑って、愛しあって、それで、それで、それで・・・
約束したんだ。
SHINの命がつきる時は私の腕の中で。
必ず私の手を握って逝くって。
勝手なこと言わないで!なんでそんなこと。
なんでそんな恐ろしいこと。
SHINは迎えに来てくれる!絶対!
悲しすぎると涙は出ない。どこに持っていけばいいのかわからない戸惑いは怒りに代えた。
何もない部屋の床に座り込んで、こぶしで何度もフローリングの床を叩いていた。
何度も何度も何度も。
涙も声も出ない。左手に便箋を握り締めて右手で何度も。
心が痛すぎてこぶしの痛みはわからない。
ゴリの手紙を投げつけて、両掌を床についたとき、やっと涙が落ちた。
床についた手の横に一粒。
そして堰を切ったように。
でも声は出ない。左手の方に涙が流れていく。
掌が涙で濡れた頃、何かが光った。
右手薬指、SHINの指輪・・。
窓から、大きな木の繁りすぎた枝葉の間をぬうように、光が差しこんでいる。
私の右手の甲に、右手の薬指に、SHINの小さな指輪に。
心が少し落ち着く。
元々、ゴリは反対だった。でも私は決めた。
自分で決めた。今回も同じ。
私は自分で決める。
私はSHINを待つ。
私たちは誰にも離されない、何者にも。
だってハーフムーンは隠れているだけなんだから。隠れている半身は元々ひとつのもの。
ただ隠れて見えなかったひとつの月が見えただけなんだから。
右手の甲が温かい気がする。
SHINの指輪が光っている。
少し冷静になれたのかもしれない。
木々の葉の擦れる音がする。
そして私はあなたを想う。
あなただけを想う。
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