伊勢物語の構成要素

紀貫之は「男もすなる日記というものを女もしてみむとてすなり」と前置きして、『土佐日記』を書いた。

この「男もすなる」の「男」とは誰か。

古来、公卿は漢文で日記を書いた。藤原定家も『明月記』を書いた。親王や僧侶など、多くの人が日記を残している。『吾妻鏡』は武家の日記が元になっていると考えられている。


「男というものはだれも日記を書くものなのだ、その日記というものを女の私も書いてみよう」貫之はそう言って、自分を女と仮定して『土佐日記』を書いたと解釈されてきた。

はたしてそうなのか。たくさんの「男」が日記を書いてきたが、一般論として、男はみな日記を書くものなのだろうか。


私はずばりこの「男」とは『伊勢物語』で「昔、男ありけり」と書かれた「男」だと思っている。


つまり、貫之が「男もすなる日記」といった「男」とは『伊勢物語』の元となった日記を書いた特定の男なのだ。

本作はその日記が時を経て『伊勢物語』となったのだ、という仮定で書かれている。


『伊勢物語』を『在五中将の日記』などとも言うが、在原業平は歌は詠むが自分で日記を書くような性格ではなかったはずだ。

業平の妻の父、つまり業平の義父に、紀有常という人がいる。紀貫之の遠い親戚だ。業平が仕えた文徳天皇第一皇子惟喬親王は有常の妹の孫に当たる。有常には、業平を日記に書き記す十分な動機がある。


『紀有常日記』には、下野守となって東下りしたときの紀行文や、伊勢守となって斎宮頭を兼ねたときの記録などが書かれていただろう。業平とともに惟喬親王に仕えた話、また、摂家のスキャンダルなども書かれていたはずだ。

有常は日本全国いろんなところへ行った。塩竃しほがま、つまり今でいう、宮城県の松島までも行ったらしい。

『紀有常日記』は漢文で書かれていたはずだ。しかし中には和歌や、万葉仮名で書かれた和文も含まれていたはずだ。それはちょうど大伴家持が編纂した『万葉集』のような体裁であったはずだ(もしかすると『竹取物語』も最初は漢文で書かれていたかもしれない。しかしこの話題にはいまここでは触れない)。その日記は時代を経るにつれてだんだん読みづらくなっていったので、和文に訳し、ふりがなを振ったりした。

それを見た貫之は、じゃあ俺が、最初から仮名で日記を書いてやろうと思って書いた紀行文が『土佐日記』なのだと思う。『土佐日記』と『伊勢物語』の東下りは雰囲気が良く似ているではないか。


紀貫之はまだ、『紀有常日記』をじかに読んでいたのではないかと思う。すなわち『男もすなる日記』とは、ずばり『紀有常日記』のことなのだ。しかし、紀貫之が死んだ後、つまり、梨壺の五人が『後撰集』を編み始めた頃には、『伊勢物語』を真似た二次創作みたいなのがわんさと出てきた。

もう、藤原高子が不倫して皇太后位を剥奪されてどうしたこうしたという時代からだいぶたって、それで昔ほどタブー視されなくなり、禁断の書だった『有常日記』がいろんな人の目に触れるようになって、収拾付かない状態になっていたと思われる。

それらを、梨壺の五人などの、六条宮具平親王を中心とする『後撰集』歌壇の連中が蒐集校正して、一個の『伊勢物語』としてまとめた。おそらく『拾遺集』が編纂された頃だ。原作も改編も二次創作も全部ごっちゃにしたから、似たような話がいくつも収録されることになった。この頃にはいつの間にか在原業平が主人公だと見なされるようになり、『在五が物語』とか『在五中将の日記』などと呼ばれるようになった。


『真名伊勢物語』は『紀有常日記』で用いられていた真名、つまり漢字をできるだけ残す形で作られたものだろう。六条宮具平親王が選んだことになっていて、彼の晩年は紫式部が活躍した時代と重なっている。


朱雀院は陽成院とも言い、二条邸とも呼ばれた。『朱雀院塗籠本』はその朱雀院の壁の中に塗り籠められていたというのが由来でそう言うのだろうが、この朱雀院というのは、『伊勢物語』の舞台の一つ、つまり二条の后こと藤原高子が住んだ所なので、そういう伝説が生まれたのだろう。


『定家本』はおそらく定家が手に入れたいろんな写本を校合して編んだものだろう。今『伊勢物語』と呼ばれているのはほとんどがこの『定家本』である。


『真名本』は、荷田春満や賀茂真淵が高く評価している一方で、本居宣長は、一定の評価はしつつも、かなり批判的である。

およそ今日に残っている古写本の多くは、定家の校正を経ている。さもなくば、源俊頼あたりの手によって仮名遣いが修正されている、と私には思われる。

具平親王の時代にはもう、「へfe」「えe」「ゑwe」「江ye」の違いは失われており、「はfa」「わwa」も混同され、「ゐwi」「いi」「ひfi」や「をwo」「おo」も曖昧になっていたと思う。だが、徐々に万葉仮名の研究が進み、「正しい仮名遣い」というものが意識されるようになって、『古今集』最古の写本(元永本)が出る源俊頼の時代には、意識して「へ」「え」「ゑ」「へ」、あるいは「ゐ」「い」「ひ」が書き分けられるようになった。これを完成させたのが定家で、それゆえこの時代の仮名遣いを「定家仮名遣い」とも言うのだが、江戸時代後期になると、記紀万葉の仮名遣いの研究成果に基づいて宣長などによって「定家仮名遣い」に含まれる間違いも指摘されて、明治の「歴史的仮名遣い」となるのだ。

たとえば宣長は若い頃は「用ひる」と書いていたが、晩年は「用ゐる」と書くようになった。


それで私たちは、紫式部が正しい仮名遣いで、というより、当時の話し言葉のままで『源氏物語』を書いたと考えているのだが、そんな証拠は全くない。というのも、『源氏物語』最古の写本は定家が写したものだからだ。定家はいろんな写本を見比べ、『万葉集』まで遡って正しい「てにをは」、正しい仮名遣いを推定して、『源氏物語』を書き直した。に違いない。『古今集』にしろ『後撰集』にしろ手当たり次第に書き直したに違いない。定家なら絶対そうする。

『真名伊勢物語』に仮名遣いの間違いが多く含まれているのは、当時すでに仮名遣いが乱れていて、しかも何が正しいかってことがまだわからない時代だったからだ、とすれば説明が付く。逆に、定家は、『真名伊勢物語』をいじってないし、読んでもいなかったはずだ。

紫式部の時代にはすでに仮名遣いは乱れまくってたはずだ(いや、有常の時代にすでに仮名遣いは乱れていたんだ、いやそもそも大伴家持もまた、試行錯誤ですでに乱れ始めていた仮名遣いを直そうとした結果が『万葉集』なのだ、と考えられなくもないが、話がそれるのでやめておいたほうがよさそうだ)。


というわけで私は、『真名伊勢物語』は六条宮具平親王御撰の、最古の写本である可能性が捨てきれないと思う。

あれは、仮名に無理矢理漢字を当てたのではなく、逆にもともと漢文だったものを無理矢理訓読している感じのものだ。

少なくとも仮名本にしたときに欠落した漢文本来のニュアンスを、つまりは有常の肉声を、『真名本』から再現することは可能だろうと思う。


『定家本』の不完全なところを後世の人が補完して『真名本』を作ったとはちと考えにくい。『真名本』を写し損ねて、『定家本』ができたと考えるほうが、ずっと自然に思える。


私は『古今和歌集の真相』というものを書いていて『伊勢物語』も調べる必要を感じ書き始めたのだが、こんな大作になるとは考えてもいなかった。

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