第111段 又見ぬ人を恋ふる

昔、ある男が、高貴な女のもとへ、亡くなった者を弔うふりをして、言いやった。


 昔ならばあり得たことかもしれないが、私は今初めて体験した。もう見ることもない人を好きになるということを。


【定家本】

昔、男、やむごとなき女のもとに、なくなりにけるをとぶらふやうにて、いひやりける。

 いにしへは ありもやしけむ 今ぞ知る まだ見ぬ人を 恋ふるものとは  

返し、

 下紐の しるしとするも 解けなくに 語るがごとは 恋ひずぞあるべき  

また、返し、

 恋しとは さらにもいはじ 下紐の 解けむを人は それと知らなむ


【朱雀院塗籠本】

むかし男。やんごとなき女に。なくなれりける人をとぶらふやうにていひやれる。

 古に ありもやしけむ 今そしる またみぬ人を こふる物とは

をんな。返し。

 下紐の しるしとするも とけなくに 語るかことは 戀すそ有へき


【真名本】

昔、男、貴人やむごとなきひとの許に、無く成りにける女をとぶらふ様にて、云ひ遣る。

 いにしへは ありもやすらむ 今ぞ知る 又見ぬ人を 恋ふる物とは


【解説】

『真名本』では、この段は二つの段に分かれている。二段目は歌の順序が異なる。

『定家本』「まだ見ぬ人」はおかしい。「又見ぬ人」でなくてはならない。また、『定家本』では、宣長が指摘しているように、「やむごとなき人」が亡くなったと仮定して、その故人に歌を詠んだと解釈するしかない。これはどうであろうか。


『玉勝間』

「なくなりにけるを」、『真名本』に、「なくなりたる女を」とあり、よろし。かへし「下ひもの云々」、又かへし「恋しとは云々」、かへし「下ひもの云々」とあり。よろし。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る