045 雁につげこせ

昔、ある人に大事に育てられた娘がいたが、その娘はある男にどうにかして自分の思いをうちあけようと思っていた。ところが、なかなか言いだしかねていたせいだろうか、病気になってしまい、とうとう死んでしまうというときに、「実は思う人がありました」と言ったのを、娘の親が聞きつけて、泣く泣く男に告げた。男は驚きとまどって娘に会いに来たが、娘は死んでしまった。男は呆然と引き籠もっていた。六月の末、とても暑い頃合いに、宵には曲を奏でなどしていると、夜が更けてきて、やや涼しい風が吹いた。蛍が空高く飛び上がって去っていくのを、男は見届けてから詠んだ。


 蛍よ、雲の上まで行ってしまうのであれば、もう秋風が吹いたと、雁に告げてきてくれ

 日が長くていつまでも暮れがたい夏の景色を眺めていると、何ということはないが、もの悲しい


【定家本】

むかし、をとこありけり。人のむすめのかしづく、いかでこのおとこにものいはむとおもひけり。うちいでん事かたくやありけん、ものやみになりてしぬべきときに、「かくこそおもひしか」といひけるを、おやきゝつけて、なく〳〵つげたりければ、まどひきたりけれど、しにければ、つれ〴〵とこもりをりけり。ときはみなづきのつごもり、いとあつきころおひに、よゐはあそびおりて、よふけくやゝすゞしき風ふきけり。ほたるたかうとびありく。このをとこ、みふせりて、

 いくほたる くもの上まで いぬべくは 秋風ふくと かりにつげこせ

 くれがたき 夏のひぐらし ながむれば その事となく ものぞかなしき


【朱雀院塗籠本】

むかし宫づかへしける男。すゞろなるけがらひにあひて。家にこもりゐたりけり。時はみな月のつごもりなり。夕暮に風すゞしく吹。螢など飛ちがふを。まぼりふせりて。

 行螢 雲の上まて いぬへくは 秋風吹と かりにつけこせ


昔すき者の心ばえあり。あでやかなりける人のむすめのかしづくを。いかで物いはんと思ふ男有けり。こゝろよはくいひいでんことやかたかりけん。物やみになりてしぬべきとき。かくこそおもひしかといふに。おやきゝつけたりけり。まどひきたるほどに。しにゝければ。家にこもりて。つれ〴〵とながめて。

 暮かたき 夏の日くらし なかむれは その事となく 物そ悲しき


【真名本】

昔、男ありけり。人の娘のかしづく、如何で此の夫に物言はむと思ひけり。心弱り打ち出でむ言難くやありけむ、物病みになりて、死ぬべき時に、「是くこそ思ひしか」と云ひけるを、おや、聞き付けて、泣く哭く告げたりければ、夫まどひ来たり、死にければ、徒然つれづれと籠もりりけり。時は皆尽みなづきの晦、いと日赤あつ近比ころほひに、宵は遊びりて、五更よふけて、やや涼しき風吹きけり。蛍高う飛びがる。此の壮士、見臥みふせりて、


 飛ぶ蛍 雲の上まで ぬべくは 飽き風吹くと 雁にげ越せ

 れ難き 夏の日没ひぐらし ながむれば 其の事となく もの怨敷かなし


【解説】

雁は手紙を運ぶ使いとされる。「雁の使ひ」「雁のたまづさ」「雁のたより」など。

『万葉集』1708番、舎人親王が詠んだと思われる歌が和歌では初出

泉河のほとりで作った歌一首

 春草の 馬咋山うまくひやまゆ 越え来なる 雁の使ひは 宿り過ぐなり


実は元ネタは『史記』の蘇武であると考えられる。舎人親王は『日本書紀』を編んだ人だから、蘇武の故事は当然知っていて、それでこの歌を詠んだのであって、雁が消息を届けてくれるというのは日本古来の考え方ではあるまい。


当然ここでは、雁は秋になると帰ってくるので、男は雁に死んだ娘から返事をもらいたいと考えているわけである。


「つげこせ」は「告げ来せ」だろうか。「告げ越せ」だろうか。よくわからない。


旧暦の六月は、今の七月終わりから八月初めくらいで、一年で一番暑い月である。


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