004 月やあらぬ 【古高】
昔、東五条の邸に、仁明天皇の皇后・藤原順子が住んでいたが、その邸の西の対に、順子の姪・藤原高子が住んでいた。その高子のところへ、本懐を遂げられないまま、深く思い続けている人が通っていた。一月十日ばかりのころ、高子は他の場所に隠れてしまった。居場所は聞いていたが、常人が行って通えるようなところではないので、辛いと思いながらそのままになっていた。
翌年の一月、梅の盛りに、去年のことを慕って東五条邸の西の対へ訪れ、立って見、座って見て、あちこちを見渡しても、去年のようではなく、もぬけの殻である。ふと涙をこぼして、障子や屏風、畳も取り払われた板敷きに、月が傾くまで臥せって、去年を思い出して歌を詠んだ。
月も春も昔通りではないのか。私一人がもとのままなのだろうか。
と詠んで、夜がほのぼのと明けるころに、泣く泣く家に帰った。
【定家本】
むかし、ひんがしの五条に、大后宮のおはしましける、にしのたいにすむ人有けり。それをほいにはあらで、心ざしふかゝりける人、ゆきとぶらひけるを、む月の十日ばかりのほどに、(ほかに)かくれにけり。ありどころはきけど、人のいきかよふべき所にもあらざりければ、なをうしとおもひつゝなんありける。
またのとしのむ月にむめのはなざかりに、こぞをこひていきて、たちてみ、ゐてみれど、こぞににるべくもあらず。うちなきて、あばらなるいたじきに、月のかたぶくまでふせてりて、こぞをおもひいでゝてよめる。
月やあらぬ 春やむかしの はるならぬ わが身ひとつは もとの身にして
とよみて、夜のほのぼのとあくるに、なく〳〵かへりにけり。
【朱雀院塗籠本】
昔東五條に。おほきさいの宮のおはしましける西の對にすむ人ありけり。それをほいにはあらでゆきとぶらふ人。こゝろざしふかゝりけるを。む月の十日あまり。ほかにかくれにけり。ありどころはきけど。人のいきよるべきところにもあらざりければ。なをうしとおもひつゝなんありける。
又のとしのむ月に。梅花さかりなるに。こぞを思ひて。かのにしのたいにいきて見れど。こぞににるベうもあらず。あばらなるいたじきに。月のかたむくまでふせりて。こぞをこひて讀る。
月やあらぬ春や昔の春ならぬわか身一つはもとのみにして
とよみて。ほの〴〵とあくるに。なく〳〵かへりにけり。
【真名本】
昔、
月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
と読みて、夜のほのぼのと明くるに、泣く哭く還りにけり
【解説】
「大蔟」は睦月の別称。中国の十二律の三番目にあたる。
東の五条に住む大后とは仁明天皇の皇后、文徳天皇の母、冬嗣の娘の藤原順子で間違いない。明記はされていないが、西の対に住んでいた女が高子であることも、わざわざ疑うこともなかろう。
「ほかに隠れにけり。ありどころは聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりければ」高子が移ったところはどこか。清和天皇に入内したのだという説もあり、また、順子の兄良房の邸である染殿(正親町京極)か、東山の白河にある白河殿に移ったという説もある。
高子は25歳で入内したわけで、当時その年まで男と何の関係もなかったとは考えにくい。その男とは何もなかったことにして、もしかしたら子供くらいいたかもしれないがそれもなかったことにして、清和天皇に入内したのである。『伊勢物語』に出てくる高子に関するさまざまなエピソードはそのことを反映しているのに違いない。となると、「本意にはあらで、心ざし深かりける人」とは、「親が娘を入内させるために仲を裂かれたが、それでもなお深く思い続けている男」とでも理解できようか。「本意にはあらで」とは、「本当はこうあるべきであるのにそうではない、筋が通らない、」というような意味である。「正当な理由もなく女を口説き続け本懐を遂げられずにいる男、」とは解釈したくない。
『古今集』巻15恋5、747番に「五条のきさいの宮の西の対にすみける人に、ほいにはあらでものいひわたりけるを、むつきの十日あまりになむ、ほかへかくれにける、あり所は聞きけれどえ物もいはで、またの年の春、梅の花さかりに月のおもしろかりける夜、こぞをこひてかの西の対にいきて、月のかたぶくまであばらなる板敷にふせりてよめる」という詞書きで、在原業平の歌として載る。
「去年に似るべくもあらず」「あばらなる板敷」とあるが、あばらとは壁のない家のことなので、もともと室内の調度品があったがそれらがすべて取り払われて空き家となった状態であったろうと考えられる。
『玉勝間』
「月やあらぬ」てふ歌の
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