第一話

お気に入りの音楽が遠くで聞こえる。

(確か僕は…)

気づくと無意識に携帯電話のアラームを止めていた。

天候はジメジメとした雨に見舞われていた。あの陽射しの眩しさは忘れていない。僕は確かに存在していた。彼処に居たのだ。

変な感覚と感触に嫌悪感を覚える。しかし、僕は余韻に浸っていた。

(あの場所は記憶にある)

いつ。天候は。服装は。体の調子は。そんなこと覚えてもいない。

身支度を整え、朝食を済ます。今日は嘸かし雨が強くなるらしい。テレビに映るアナウンサーが注意を呼びかけている。僕は革靴を履き家を出た。気圧のせいか頭が重い。傘は雨に打たれて鳴いてる。そんなことを想像していると。

武井歳一たけいとしかず!」

可愛らしい声とともに現れたのは、付き合いが長い、本田優輝ほんだゆうきだった。

「何でフルネームで呼ぶんだよ…」

「気分?」

優輝は唯一の同期女性ゴルファーだ。

「今日は練習するの?」

優輝は言った。

「少しだけ」

僕は素っ気なく答えた。優輝に対する好意が顔に出そうだったからだ。一方の優輝は、僕には好意よりも、信頼を寄せている。そして、僕たちはお互い競い合うプレイヤーでもある。

「何ジロジロ見てるのよ」

「いや何も」

そう言って、彼女はプイとそっぽを向いた。優輝の象徴と言える綺麗な黒色のショートヘアーがふわりと揺れる。

「疲れてるの?」

優輝は直ぐにこちらに顔を向けて言った。

「頭痛が少しかな。気圧のせいかもしれないね」

「そういえば私も体が怠いような」

「いつもの通りだから大丈夫だって」

「何それちょっと酷くなーい!?そう言えば、雨強いよねー。久々だなー。歳は雨好き?」

「うーん、時と場合によるな。例えば今みたいに少しでも体調が悪かったら鬱陶うっとうしいけどなー」

「相変わらずわがままなんだからー!」

そう言って彼女は僕の背中を叩く。痛いと言いながらも笑い合う。

しかし何故雨は、心の内奥や体全体を重くしてしまうのか。重くするのは土だけでいい、増えるのは水嵩みずかさだけでいい。そんな論理的なことまで考えてしまう。やはり疲れているのかもしれない。

そうこうしているうちに学校に着いた。

校舎内にも雨の湿気や匂いが満ちていた。傘立てには沢山の傘が刺してある。

「相変わらずお似合いですな!」

おはようの一言もなく、声をかけてきたのは同じクラスの伊東だ。今日もやっぱり隈が酷い。

「昨日は何時に寝たんだ?」

そう尋ねると。

「今日の三時だな。ゲームしてたから」

やっぱりそうかと僕は思う。よくもまあそのような時間まで集中力が頓挫しないものだ。悪い意味で感心する。優輝も隣で苦笑いを浮かべている。

「ところでお二人の結婚式はいつですか?」

「からかうのは止せ。優輝にも迷惑だ」

「私は迷惑じゃないけど?」

優輝の言葉に思わず目を見開いてしまう。

いつかそのようなことも考えられるような関係になりたいと思うが、まだまだ先の話だろう。

伊東と話の押し合いをしているうちに授業の始まりのチャイムがなる。

授業は非常に憂鬱ゆううつだった。来年の一月にはセンター試験があるにも関わらず、窓の外を何回も眺める。雨の形、車が巻き上げる水飛沫みずしぶき、小さい水溜りの波紋。全てが不規則で、決して同じ現象は起こらない。

「次、武井」

そう問題の解答を指名してきたのは、担任の中島先生だ。数学科を担当している。いかに体育の先生を専攻していそうな容姿で、先生間でも人気がある。

「問五の解答は正の無限大に発散」

「正解。でも武井、外を見ている時が多いな。何かあるのか?」

「雨って同じってこと無いじゃないですか。うまく言えないけど、個性があるというか。強い雨粒と弱い雨粒。見分けはフィーリングなんですが、僕にはそれがわかるんです」

「それはフィーリングで直感し、インプレッションしているということだな。先生にもそういう経験がある。特に夢を見た後に陥っていた」

夢を見た後に?先生は僕の心中をわかっているのか。少し鳥肌が立つ。周囲はざわついていた。僕の意見を肯んずる人もいれば、意味がわからないと否認する人もいる。

このトピックに正解は存在しない。本当に些細な個人のフィーリングで判断しているのだ。

少し教室内の湿気が増した気がした。湿気は放課後まで僕の身体を舐めていた。

家に着くと、軽く間食を摂りながら支度を始める。僕のパフォーマンスを支えてくれる十四個の顔が物騒にキラリと輝く。それらが入ったバッグを背負うと、ガチャンと鉄と鉄の当たる音をたてる。僕は玄関の扉を開けた。雨はにわかに弱くなっていた。

練習場に着くと殆ど人は居なかった。ボール貸出機から球を出し、階段を降りて、一階の中心の打席に入る。もう周囲の音は聞こえない。僕だけの時であり空間だ。目は瞬きをせずに乾いていた。しっかりと体を伸ばす。そして、クラブを引き抜く。家を出る前に見せた輝きが、更に増している。僕は球を飛ばす。芯で球を捉える感触が、ヘッドからグリップまで徐々に伝わってくる。これだ。どんな状況でも球一つ打てば何も感じず、感じる感触が包み込む。気づくと三十分経過していた。球数はまだ半分以上残っている。

その時。

「歳!今日も調子いいね」

僕の隣の打席にガチャンとバッグを置いたのは、紛れもなく優輝だった。

「優輝、今日練習するって言ってた?」

「気分よ。気分」

ニヤっとして此方を振り向く姿に僕は先程の集中が一気に消沈してしまう。今日の優輝は白のポロシャツに赤色のミニスカートという性格とマッチしたラフな格好だ。優輝はこのパターンが好みらしい。

「何ボーとしてるのよ。聞いてる?」

「わ、悪い。考え事してた」

そういうと彼女は怒りもせず。

「何かあったら相談のるからね」

「それはこっちの台詞だ」

少しは格好良く返せただろうか。最近妙に敏感になっている気がする。わかったと優輝は頷き、即座に構えをとった。もう頭には完璧なイメージしかないだろう。眼には白い球しか写っていないだろう。球は美しいスイングと共に綺麗な放物線を描いて飛んで行く。この事を美しいというのだ。僕の中で最上級の表現である。距離は僕よりも少ない分コントロール性がある。僕も負けじと球を打つ。しかし、優輝には敵わない。左右のブレがない弾道はピンポイントで落下して行く。

「今日は少し腰が回ってないかも」

「そこは確かに俺も気になってた」

「じゃあ言ってくれればいいじゃん!」

「敢えて言わないってのもありじゃないかなと」

「酷い!ケチ!もう知らない!嫌い!」

そう言って、優輝は打席に戻る。やりすぎた。と言っても、彼女はチラチラこちらを見ているが、すぐに目線は緑以外何もない空中を指す。常に反省点を見つけ、即座に改善に当たる。自分の理想像への最大の近道だ。優輝はそれを最も身近に感じ味方につけている。その後は無駄話もあったが、殆ど改善点の話をしたり、ビデオを撮って、動きを確認したりした。今度はちゃんとお互いがお互いの眼を見て語る。これは助けであり、協力だ。対抗じゃない。今日の練習では二つの改善点が上がった。一つは、クラブを振り下ろす時に腰がついてきていないこと。すなわち腰の回転だ。もう一つは、球を打った後に左腕が曲がってしまう。スイングを綺麗に見せ、安定させるという重要な役割がある。不覚にもそれらは治すのに少々時間が必要となりそうだ。一方の優輝は、改善点が目立つ所で一つ。フェースの固定ができていなかった。フェースの角度が一度でもずれると、距離が離れて行くにつれ、目標としていたポイントから左右にばらつきが出始め、更には球にかけようともしていない回転がかかりポイントから遠ざかって行く。極めて重要な改善点だ。練習は黙々と続く、同じ動作に思えるが、ミリ単位の調節、コンマ一秒単位の時間間隔、同じ動作は決して起こらない。その時、その状況での一打は極めて貴重なものだ。練習球が残りわずかになった時、優輝が問うた。

「なんで、このスポーツしてるんだろうね」

簡易で難解な質問だ。思わず唸る。

「結果、快感、楽観、言葉でまとめるのは難しいな」

「でも確実に快感はあるよね。緑の自然と呼吸を合わせ、包まれている感覚。わかる?私にはここまで自然に囲まれて長く続けられるスポーツはないと思うの」気がつくと、僕たちの周りの人気は静寂に変わっていた。だからこそ優輝の言葉は強く響く。

「お前には敵わないよ」

「あー!お前って言った!昨日言ったばかりじゃん!優輝って呼ぶこと。わかった?」

「はいはい優輝ちゃん」

「ムカつくからジュース奢り」

「そんな理不尽な」

(でもまあ今日ぐらいはいいや)

自販機に五百円玉を投入する。二人でお疲れ様と言葉を交わし合い、ペットボトルのキャップを開ける。

「そう言えば最近どうなの?」

「なんのことだよ」

「テストとかの話ー」

「平均点は七十点くらい。優輝は?」

「私は平均八十五かなー。あまり勉強した覚えないけどね」

「嘘つけ」

「嘘つけって言ったから嘘つきましたー!」

「やっぱり敵わん」

僕たちはドッと笑った。

空から沢山の星が僕たちを見ているような気がした。

今日が終わる。また一日が終わる。

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