第2話

 家に辿り着くと、俺は体を拭くのもそこそこに、母親へ、花は生きているのか? というような質問をした。


「……は?」


 何というか、確かに俺の親だなと思うような、ぽかーんとした反応で、それにイライラしながら、もう一度語気を強めて尋ねた。


「花って生きてるの?」

「え、ああ、生きてるわよ。植物だもの」

「でも動かないじゃん」

「あら、動いてるじゃない。お隣さん家の椿の花、今年も綺麗に咲いてるでしょ?」


 そう言われて初めて、確かにそうだ、と思った。

 当たり前のことだけど、季節ごとに花は咲いたり枯れたりを繰り返している。夏になれば、庭の芝生はすぐに伸びてしまって、父親を芝刈りという強制労働に従事させるし、冬になれば、木々の枝は寒々しい姿に衣替えし、母親を枯葉掃除へといざなう。


 幼稚園の頃チューリップを育てたり、それこそ小学校一年生の頃は朝顔の観察日記を付けたりしたけど、それは俺を“生きている”という認識には至らしめなかった。ただ、植物とはそういうものだ、としか捉えていなかったのだ。

 だから意識したこともなかったそれは、ちょっとだけ目から鱗だった。


「生きてるから?」

「そうよ。野菜だって植物でしょ? 種を植えれば、花が咲いてやがて実がなる。羽宗が今朝食べた苦手なトマトだって、生きてたのよ」

「切られたり、噛まれたりすると、痛いの?」


『痛いって泣いてるかもしれないじゃない!』そう言った彼女の泣き顔が思い出されて、思わず訊いてしまった。すると母親は、微笑ましいって形容するのがぴったりの、優しい顔を向けてくる。

 それを見て俺は、胸の奥がムズムズするような変な気分になった。


「ううん、痛くないのよ。大丈夫。でもね、羽宗。ご飯を食べるときに言う言葉、あるでしょ?」

「いただきます?」

「ええ。それは、命をいただきます、ありがとうって意味が込められてるの。ジャガイモも人参も茄子も胡瓜も、みんな生きてるわ。私たちは命をもらって自分の命に変えているの。いつも残さず食べるように母さんが言ってるのは、そういう意味があるのよ」


 当時まだ捻くれていなかった俺は、この言葉にいたく感銘を受けた。

 俺はそれまで、商店街の花壇を友達とふざけて踏み荒らしたこともあったし、公園にある桜の枝だって、面白半分に折ったこともあった。

 野菜は苦手で残すなんてしょっちゅうだったし、こっそりおやつを食べすぎて、夕飯がほとんど入らなかったこともあった。

 でもそれは間違いだと、小さな一人の女の子が気付かせてくれたんだ。俺と変わらない年ほどの女の子が。


 全てのものが生きていると知った瞬間、俺は異様にワクワクしながら、気付けば図鑑をねだっていた。

 何故こんなことに突然興味を示したのか両親は不思議そうにしていたけど、教育上悪いことは一つもないと判断したのか、分厚くて大層読み応えのある本を、後日プレゼントしてくれた。

 でも俺の頭には少しだけ邪な考えが棲み付いていて、生き物博士になっていつかあの女の子の前で、植物とは何たるかを披露してやろう、なんて思っていたんだ。そして、植物は生きているけれども痛くはないんだ、だから大丈夫だと、泣き顔しか思い出せない彼女をそう言って安心させてやりたかった。


 だけどそれは、やがていつしか俺を純粋な生物の神秘の虜にし、十年近く経った今も尚、その思いは変わることなく、理系の道を突き進んでいる。

 俺が見向きもしたことなかった未来へと続く道を照らし出してくれたのは、あのときの君なんだ、そう話したら、彼女はどんな顔をするだろうか? 

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