第2話

「まさか、こんなことで呼び出されるなんて、思ってもみなかったな」

「うん」


 教室へ向かう途中の渡り廊下、息を整え窓辺に寄りかかりながら、藤倉君は苦笑交じりの顔を私へと向けた。


 外からは、様々な部活動の掛け声が折り重なり、さざ波のように届いてくる。内からは吹奏楽部だろうか、ホルンの調子っぱずれなキークスが聞こえてきて、私は少しだけ笑ってしまった。


「どうかした?」

「ううん、変に思ったらごめん。幸せだなって思ったの」


 時刻は、とっくに皆が部活動に勤しむ放課後。私と藤倉君は呼び出されたからだけど、こうして公然と部活をサボっていて。まるでこっそりと逢引きでもしてるみたいって言ったら、彼は驚くかしら?


「怒られたのに?」

「うん、怒られたのに」


 面白いこと言うね、彼の口が弧を描く。

 戻る前は、偶然にでも頼らなければ決してなれなかった、二人きり。ただそれだけのことだけど、だからこそ私は、聞き慣れた喧騒に包まれる日常も、怒られるっていう非日常すら、驚くほど幸せで。不謹慎なことは、重々承知だけれども、それでも。


「ただ次の試験は本当に頑張らないとだけど」


 そう、舞い上がるのは良いけど、だからといってそれで足を掬われては元も子もない。庇ってくれた先生の顔だって、立てなくてはならない。


「そうだね」


 藤倉君も恐らくは同じことを思ったのか、少しだけ表情を引き締めると、頷いた。


「私、頑張るからね」


 体育祭は終わった。もう言い訳はできない。

 それに今はまだ、私は一度通った道を再度歩いているに過ぎない。どこにベンチがあってそこなら少し休憩できるとか、どこに水飲み場があってそこなら喉を潤せるとか、知っていて歩く道は、とても大きなアドバンテージだ。

 けれどもクリスマスが過ぎれば、未来で起こることも、そして学校の勉強も、全ては予測不可能な未知の領域へと突入する。まさにそこからが私の正念場となるだろう。

 だからそれまでに、でき得る限りの努力と、そして準備をしなくてはならない。


「知ってるよ」

「え?」


 だけど彼は、困ったように笑って、私を見つめていた。


「うららが頑張ってるの、知ってる。だから寧ろ俺からは、頑張りすぎないでって言いたい」


 藤倉君は、いつもそうやって私の心配をしてくれる。

 でもそれが、近頃後ろめたい。小さい針で、ちくりちくりと胸を突かれるように、僅かな痛みを伴うのだ。


「そんなことないんだ。私はさ、藤倉君みたいに頭良くないから、本当に頑張らないとなの。じゃないと、武本先生の顔に泥を塗ることになっちゃう」


 咄嗟に出た武本先生のため、という言葉。そうやって良い人ぶってしまう自分に、更に気持ちは憂鬱になった。

 彼に嫌われたくなくて、私はどんどんずるい人間になっていってしまう気がしたんだ。


「じゃあさ、一緒に勉強しよう」


 でも彼は、そんな私を無邪気に誘ってくれる。


「え?」

「俺んちの近くに図書館があるんだ。そこでさ、夏休み一緒に課題やろう」

「い、いいの?」

「勿論。うららに会えて、勉強も捗って一石二鳥」


 それは、どう考えたって間違いなく私の台詞だった。

 出来の悪い私とする勉強で、藤倉君が得る物はほとんどないと言っても良いだろう。足手まといになりこそすれ、彼の手助けとして私ができることなんて皆無に等しいのだ。

 だからこれはきっと、藤倉君の優しさ。


「ありがとう」


 こんな短い言葉では想いの半分も伝わらない気がして、もどかしくて仕方がなかった。


「いいえ。会う口実ができたんだ。下心ですよ、うららさん」


 でも彼はそうやって、息をするようにさらっと口にしてしまう。私が気にしないようにとわざと茶化して、でも気遣いのこもった台詞を。


「嬉しい」


 そんなに甘やかされると、ダメになっちゃうんじゃないかって思ってしまうくらい。


「下心が?」


 彼は思わずといったようにぷっと吹き出す。


「それもだけど、私、大切にされてるっていつも凄く思うから。でも、私も同じくらい、ううん、それ以上に、藤倉君のこと大切にしたい」


 唯一胸を張って言える、嘘偽りない気持ち。彼が幸せにならなければ、全てのことに意味はなくなるのだから。


 すると、少しだけ目を見開いた彼の頬が、瞬時に赤く染まった。


「参ったなぁ」


 頭を掻いて苦笑い。


「え?」

「これ以上好きにさせて、うららはどうしたいの?」


 今度は私が赤くなる。大胆なことを言ってしまったかもしれないと、今更ながら気付いたのだ。


「俺たち、こうやってずっとお互いを大切に思い合っていたら、たとえ何があっても上手くいくと思うよ」

「――おーい、こらこら」


 私が頷こうとしたそのとき、唐突な横槍が入った。


「説教された直後にこんな所で見つめ合って、お前ら本当に大丈夫か?」


 振り返ればそこには、苦笑を浮かべた武本先生。


「夏休みは一緒に勉強頑張ろうって言ってたんです」


 すかさず藤倉君が反論。


「そんな青春真っ只中みたいな顔で? ピンクのオーラ振り撒いて? ……説得力ゼロだぞ」

「でも本当です」


 私も応戦。だって、うん、嘘じゃない。


「……まあいい。藤倉、部活行け。月島も」


 ため息と共に吐き出された諦めの言葉に、私と藤倉君は苦笑を禁じ得ない。


「それじゃあ、帰りにな!」


 連行されるように引き摺られながら藤倉君は片手を上げると、廊下の曲がり角に消えていった。

 振っていた手を下ろす。

 目に焼き付く、真っ白なシャツに包まれた大きな背中。

 何故だか不意に不安が押し寄せた。黄昏色に染まる、この渡り廊下のせいだろうか? 

 彼が消えたその先には、入ったら二度と出られない異空間がぱっくりと大きな口を開けていて、彼はそれに呑み込まれてしまったんじゃないかなんて、私は有りもしない妄想に怯えた。

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