第7話

「お待たせ!」


 いくらレース展に出品する作品を作っているからといって、ハードなバスケ部とは違い基本定時で終了となる手芸部。私が待つことになるのは当たり前のことで、通り過ぎる人から向けられる視線の、痛いこと痛いこと。だから藤倉君のその一言は、まるで天の助けにも感じたほどだった。


「待った?」

「ううん」


 でも彼のこの笑顔を見てしまえば、そんな理不尽な視線に耐えたことだって誇らしくなってしまうから不思議。


「行こうか」

「うん」


 門から伸びる下り坂を、二人並んで歩く。彼は私の歩調に合わせるように、ゆっくりと。でも私も、ごめんね、ゆっくり。一秒でも長く傍にいたくて。


 ビルが建ち並ぶこの街では、地平線を拝むことは叶わないけれど、綺麗に剪定された街路樹から覗く眩い橙の光、反射材を含んでキラキラ光る、宝石を散りばめたようなアスファルト、いつも見慣れているはずなのに、全てが今日はやけに美しかった。

 恋をすれば世界が変わる、誰かがそう言った。モノトーンだった世界が、鮮やかに色付くと。それは確かに、本当だったのだ。

 想い合っている相手と、ただ並んで歩く、それがこんなに幸せだったなんて……


「大丈夫? 足痛い?」


 気付けば、藤倉君が驚いたように私を覗き込んでいた。


「え?」

「泣いてる」


 彼の手が頬に触れて、涙を救い上げる。指先に付いた雫に私も驚いた。


「――幸せすぎて、泣いちゃったみたい」


 戻る前からしたら、有り得ないほどの幸福。彼の恋人になれたことが、途轍もなく大きな奇跡の上に成り立っていることを知っているから、無意識のうちに涙が出てしまったのかもしれなかった。


 それを聞いた彼は目を瞠った。でもそのすぐ後に、この上なく優しく細める。


「俺の方が幸せ」


 それを聞いてまた私は泣いてしまいそうになったけど、微笑む彼を目に焼き付けたくて、必死で堪えた。私の気持ちも彼に届けばいい、そうやって精一杯微笑んだ。


 でも次の瞬間。


 反射的にギクリと強張ってしまった、私の笑顔。

 視界の端を、琴平さんが横切ったのだ。

 不自然に歪んだ自分の顔を、取り繕うことはできなかった。

 彼女も藤倉君と同じバスケ部だ。帰りに出くわす可能性も十分考えられたはずなのに、彼と過ごすこのひと時に、相当有頂天になっていたようだ。

 彼女は、友人とゆっくり坂を下って行く。もうこちらは向いていないけど、一瞬目が合ったことは間違いなかった。切ない、苦しい、複雑な感情がない交ぜになった泣き出しそうな瞳。

 その表情を見て、私は彼女のことを、少しも、とか、これっぽっちも、とかじゃない。何も。何も分かっていなかったのだと、このとき初めて気付いたんだ。

 私が勝手に作り上げた彼女像。その中に、私の都合の良いように解釈した彼女の感情を当て嵌めて、分かったような気になっていただけだったのだ、と。


 大人で自信溢れる琴平さん。確かにそれも、彼女を構成する一側面ではあるだろう。

 でも以前思ったじゃないか。プライドも高くて、努力を惜しまない人だと。

 きっとあの日の私以上に、彼女は悔しかったに違いないのだ。私のように何もしなかった後悔じゃない、手を尽くしてもどうにもできなかった無念さ。だから尚更、心は深く傷を負っているのだ。

 精一杯生きてるから悔いなんてない? そんなわけ、あるはずない。


「……きしま? ……月島ってば」

「え? あ、ご、ごめん」

「どうしたの?」

「な、何でもないよ」


 言ってから、しまったと思った。呼ばれていたことにも気付かなかったくせに、どう見たって何でもないって感じじゃない。

 でも、これに関しては一言たりとて漏らすわけにはいかないのだ。お墓まで持って行かなければならない、私の最も重くて罪深い秘密。


 彼は何か言いたそうに、口を開きかけたけど、結局は何も言わずにまた歩き出した。

 その背中が、さっきとは違う。戸惑うように影を濃くして、私は彼の腕を思わず掴んだ。


「き、嫌いにならないで」


 咄嗟に出たか細い声。彼の耳がそれを捉えたかどうかは分からなかったけど、驚いたように振り向いた。

 手を振り払われなかったことに、少なからず安堵する。


「え?」


 どうしても言えないことはある。だけど、この気持ちだけは神に誓って、嘘はないから。


「好きなの。自分でも、どうしていいか分からないくらい」


 重い女だと思われただろうか? 思わず口から出てしまった言葉が、すぐに不安を運んでくる。

 逆光になった彼の顔はよく見えなくて、私は必死に目を凝らした。

 すると、腕を掴む私の手に、彼の手が重ねられる。


「置いて行こうなんて思ってないよ。怒ってもいない。ましてや嫌いになるなんて、有り得ないんだ。俺がどれほど月島のこと好きか……きっと俺の方が、離してやれない」


 前方へと振り返る際ちらりと見えた彼の顔は、驚くほど優しくて、私は思わず息を呑む。


 彼はそのまま私の手を掴んで歩き出した。

 バスケ部の友人だろうか。路肩からはヤジが飛んできて、藤倉君はそれを軽くいなす。

 あの日以来、フェルメールの絵画を見に行ったあの日以来だった。こうして彼と手を繋いで歩くのは。

 あのときも今もとても自然で、私は彼のなすがまま。掌の温かさに、泣きそうになる。

 視線を上げれば、前を歩く背中からは、もう戸惑いは伝わってこない。

 ほっと息を吐き出した。


 けれども反ってそれが、私をふと冷静に導いた。

 申し訳ない、そんな気持ちが急速に頭をもたげてきたのだ。


 純粋で無邪気な彼を、私は騙しているんじゃないだろうか? 

 魔法を使って、私を好きになるように仕向けたんじゃないだろうか? と。


 いいえ、違う。努力しただけよ。


 私は懸命に、湧き上がる疑念を振り払った。

 それは水に落とされたインクのように、ぽつりと私の心を侵食する。でも一滴ならば、それはやがて目に見えなくなるだろう。

 大丈夫よ、幸せならば、全ては丸く収まるもの。


 じゃあ琴平さんの気持ちは? 


 それにも私は懸命に首を振った。だってそれは、考えても仕方のないことだ。いつだって勝者が一人しか存在し得ない事柄において、誰かの喜びは、誰かの悲しみの上に成り立っている。

 戻る前の私と琴平さん。戻ってからの私と琴平さん。

 ほら、どちらの世界も、どちらかの喜びは、どちらかの悲しみの上に成り立っているじゃない。

 みんながみんな幸せになれるなんて、そんなの物語の中だけ。


 私はこのとき、どうにかしてでも自分自身を納得させる、体のいい言い訳を並べ立てなければならなかった。そうでもしないと、大きな声で全ての罪を洗いざらい喚き散らして、みっともなくすがりつき、どうか、どうか、と許しを乞うてしまいそうだったのだ。


 私はただただ彼の懐の広さに心から感謝し、自分が傷付けた一人の女の子のことを頭の隅に追いやることしかできなかった。

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