第7話

「それが何か、いけない?」


 私が籠る個室の扉一枚隔てた向こうに、彼女はちょうど立っているようだった。想像していたよりも、高くて可愛らしい声が響く。


「は?」


 荒々しい登場にしては些か優しい物言いに、彼女たちは面食らっているようだった。


「頑張るのが、そんなに可笑しい? そういうの、僻んでるって言うのよ」


 声音はそこまで厳しくない。でも言っていることは辛辣だった。イライラしているであろう彼女たちに、もう一度火をつけるには十分だと思った。


「うるさい! ブスが調子乗ってるから、分からせてやろうとしただけよ!」


 案の定、いきり立ったような大声が飛び出す。


「自分が努力できなかった、それだけじゃない。頑張って自分の力で藤倉君と仲良くなった月島さんを妬んでるんでしょ? ダサいってその言葉、そのままあなたに返すわ。ピッタリだもの」

「な、何よ! あんたは、あんなブスが藤倉君と仲良くしてて許せるわけ? 藤倉君の株、大暴落だっての」

「ブスブスってさっきから言ってるけど、あなたの方がよっぽどブス。顔も、心もね。それに、誰と友達になるかを指図されるなんて、それこそ藤倉君に言わせたら大きなお世話だと思うけど?」

「なっ」


 ビックリした。美濃部さんが、私を庇っていたことに。

 同じクラスだけど、話したことは一度もない。戻る前と同じで、いつも一人、綺麗で凛としていて、孤高の人。

 だから、そんな風に思ってくれているなんて、気付きもしなかった。


「おい、どこだ! 誰か煙草吸ってるのかっ!」


 彼女の行動に驚いていると、突如廊下に大声が反響した。


「は? ヤバッ。この声、生活指導の沼田じゃない?」

「うそっ。何でこんなとこいんの? てか見付かったら退学じゃない? ミホ、行こう」


 そんなやりとりの間にも、足音はどんどん近付いてくる。


「チッ。ほんとあんたムカつく。退学になって後悔すれば?」


 ――ミホ……そうか、思い出した。西本美穂にしもとみほだ。頭が良くて確かに有名な子だった。でも性格は悪くて、女子からは特に評判が悪い、そんな女の子だったはずだ。


「ちょっと」

「これ、あげるわ」


 美濃部さんが何か言いかけたけど、西本さんはそれを遮って扉を開いたようだった。


「先生! こっちで誰か煙草吸ってます!」


 大声で叫ぶと、彼女たちは走り出す。


「待て! おい!」


 制止を呼びかける沼田の野太い声が響いたが、彼女たちはそのまま走り去ったようだった。


 ど、どうしよう? 私はどうするべき? 


 沼田は西本さんたちを追うだろうか、それともこの女子トイレへ入って来るだろうか。

 もしこちらに来た場合、今から出て行ったら、私が煙草を吸っていたと疑われるかもしれない。

 でも……美濃部さんは? そう考えて凍りついた。

 そうだ、やはりこれが、彼女が停学になった事件の現場だったのだ。ならば沼田はこちらへ来る可能性が高い。

 そしてこの状況からいけば、美濃部さんは冤罪だったということになる。やっぱり私が抱いた彼女の印象は、間違っていなかった。

 

 シンと静まり返るトイレ。

 何をしてるんだろう? まさかその場に固まっちゃってる?

 出て行かなければやり過ごせる――一瞬そんな保身が頭をよぎった。

 沼田の足音はますます大きくなるばかり。もうそれほど時間はない。決断を急がなければ。

 戻る前の私なら、確実に閉じ籠ったままだった。でも、変わるって決めたんじゃないか。

 それに、美濃部さんは庇ってくれた。話したことすらない私のことを。


 何を迷っているのよ、しっかりしろ、私! 

 心のままに、勢いよく扉を開けた。


 そこにはまだ、紫煙が上る煙草が床に二本、そしてその前に呆然と佇む美濃部さんの姿。 

 彼女は私を振り向き、驚いたようだった。私よりも前にこのトイレにいたのだから、恐らく人がいたことには気付いていたと思う。でもそれが、よもや噂の張本人だったとは思ってもみなかったのだろう。


「何してるの、早く!」


 私は美濃部さんの腕を勢いよく引っ張った。


「え?」

「え、じゃない! 疑われちゃう! やってもいない喫煙、疑われちゃう!」


 それであなたは、学校へ来なくなっちゃうの。私を庇ったせいで……そんなの、絶対にダメ!


 視線を走らせる。扉から廊下へは出られない。今にも沼田がぬっと顔を出しそうなほど、もう既に足音は近い。

 私は扉と反対側の窓を急いで開けた。一階。外へ出られないことはないが、今から出て走っても、隠れられるような場所は近くには見当たらなかった。足の速い美濃部さんだけなら行けるかもしれないけど、どんくさい私は無理だ。すぐに捕まってしまう。


 どうしよう? どうしたら――……

 振り向いて、そして閃いた。


 一か八か、急いで彼女を押し込む。故障中の扉の、その中へ。

 細身だけど私よりも背が高い彼女。二人で入れば、酷く窮屈だった。


「上に乗って!」

「え?」


 さっきの威勢の良さはどこへ行ったのか、彼女は私と対面してから、え? しか言ってない。


「蓋の上乗って! 下から覗かれたら、足が見えて中にいるのがばれちゃう!」


 彼女は私の意図に漸く気付いたのか、急いで乗っかりしゃがんだ。次いで私も乗っかる。蓋の上に人が乗ることなんて想定されているはずもなく、二人分の体重を受けて、バキ、そんな嫌な音がした。少し焦ったけど、元より故障中、完全に割れなきゃいい。

 私は急いで、だけど出来る限り静かにドアを閉めた。鍵もかけて、せめてもと扉に体重を預ける。


 ――キィ。


 同時に、女子トイレの扉が開かれる音がした。

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