第6話

 やっとのことで記入し終えたクリップボードを返そうとしたとき、ふと目の端に白い紙がはためいたのに気付く。気になって視線を向けると、『保健室』と書かれたプレートの下に、A4サイズの紙がセロハンテープで貼り付けられていた。それが風にひらひらしていて、それで視界に入ったようだった。


 ――お悩み相談室?


 何度見ても確かにそこにはそう書かれていて、思わず影森先生をじっと見てしまった。

 訝しげな視線に気付いただろうに、先生はにこにこしたまま保健室へと私を促す。


「結構辛そうだね。とりあえずそこ座って、はい、これね」


 保健室によくある回転する丸い椅子。それを勧められて腰を掛ける。間接も痛くなり始めていたので、座れたことが素直にありがたかった。

 体温計を手渡され、脇の下に挟む。


「あんな物ぶら下げてるから、俺は多分沼田先生に目の敵にされてるんだろうなぁ。生徒の人気取り、そんな邪な考えで看板を掲げてると思ってるみたいなんだ」


 あ、でもその前からチャラいとか何とか、難癖付けられてたか、と頭を掻く。

 答えてくれないのかと思ったけど、違ったみたいだ。私が辛そうだから、椅子に座るまで待っていてくれた、多分そう。


 言動を見ていれば確かに、さり気なく気配りのできる、見た目も今どきのお兄さん。でもチャラいかどうかと問われれば、それには首を傾げたくなる。髪だって黒くて短くてとても清潔そうだし、白衣だって着崩してるわけじゃない。強いて言うなら、掛けている眼鏡だろうか。レンズの形があまり見ないようなお洒落な加工だった。でもそれだけ。

 大方得意の思い込みで、見た瞬間にチャラいと勝手に決めつけたのだろう。

 そう推察する間、先生はクリップボードに私の入室時間を記入していた。

 と、その手が少しだけ止まり、ちらりとこちらに目を向ける。何か間違いがあっただろうかと首を傾げたけど、先生はにこりとしただけで特に何も言わなかった。

 奥からブランケットを持ち出してきて、それを肩に掛けてくれる。

 愚痴ったのは内緒ね、と告げた顔は苦笑していて、念を押したくて私を見たのかとも思ったけど、何だか少し違う気がした。でもそれを訊く雰囲気では何となくなくて。

「ありがとうございます」だから私はぺこりとお辞儀をして、「お悩み相談室、されているんですか?」無難にそう続けた。


「うん。スクールカウンセラー一応いるけどさ、あの部屋に入ること自体、少し敷居が高いと感じる子もいるんじゃないかと思ってね。ここなら、体調不良や怪我を訴えればいつでも来られるでしょ? たとえそれが仮病でもさ」


 確かにカウンセラーは常駐しているが、私は一度も利用したことがない。悩みがあったって、行こうとすら考えたこともなかった。


「だから月島さんも、何か悩みがあったら相談に来てね」


 そう言って笑った顔は、とても優しいお兄さんだった。この笑顔を見て邪な考えを抱いているなんて、よくもそんな邪推ができたものだと、ある意味沼田を感心してしまったくらい。


 ――ピピッ。


 電子音が、忘れた頃漸く鳴り響く。取り出してみれば、表示された数字は三十九度を超えていて、見た途端、こなきじじいにでも乗っかられたのかと思うほど急激に体が重くなっていった。


「おお、高いな。迎え呼ぶ?」


 体温計を覗き込んだ先生が提案する。だけど高校生にもなって、たかが熱で親を呼ぶのは何だか恥ずかしい気がして、私は咄嗟に首を振った。


「きっと少し寝れば楽になると思います。ダメそうだったら、そのとき親に連絡してみます」


 私がそう告げると軽く頷き、「インフルエンザかもしれないから、帰ったら病院行くこと」と言って、ドラッグストアで売っているごく一般的な風邪薬と水の入ったコップを差し出してくれた。

 ありがたくそれを飲み、真っ白なベッドに横になる。一時間もすれば、家に帰る体力くらいは回復するだろう。

 枕が変わると眠れない、そんな神経質な体質だったから眠ることは半ば諦めていたけど、薬が効いてきたせいか、睡魔はすぐに訪れた。それならそれでありがたい。私は抗うことなくそのまま意識を手放した。

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