第4話

「行ってきます」


 家を出た途端に空っ風が体を貫き、私は堪らずコートの前を掻き合わせた。

 ふと庭先に目をやると、今年も咲いた三輪のクリスマスローズが風に煽られ、揃って同じ方向に首を傾げている。可愛らしい所作だけど……


「相変わらず地味だね」


 私は薄く笑って、そのまま学校への道を歩き始めた。


 見上げた空は鈍色。いつもより雲が低い気がして、そのまま落ちてきて押し潰されたりしたらいったいどうなるんだろう、なんて水蒸気の塊相手に変な心配をしたりした。

 するとそれが良くなかったのだろうか、ぽつりと頬に一粒の雫。お、と思ったのも束の間、学校までの中間地点に差し掛かる頃には、視界がけぶるほどの大雨へと変化していた。

 折り畳み傘を取り出そうにも、普段使わないそれは財布やらポーチやらの下敷きになり、なかなか顔を出してくれない。雨に打たれながら探すよりはと、私は近くのバス停まで猛然とダッシュすることにした。

 屋根のある場所まで来て漸く一息吐き、取りあえずタオルを取り出しコートの雫を払う。靴と靴下は、とっくに手遅れになっていたので諦めた。


「嫌だねぇ」


 すると突然、後ろで声がした。私が折り畳み傘に手を掛けた、まさにそのタイミング。驚き振り向くと、そこには一人のおばあさんが座っていた。

 いつから? 疑問が湧いたけど、濡れていないところを見ると、私がここへ辿り着いたときには既にいたことになる。気付かなかっただけのようだ。ここのバス停の蛍光灯は、もう随分前から切れている。加えて背後には大きな欅の木が立っていて、結構薄暗いのだ。

 話しかけられたのかと思ったけど、おばあさんの瞳は私を捉えてはいない。どうやら独り言だったらしい。でも振り向いてしまった手前何となく気まずくて、私は一応軽く会釈をして再び鞄に手をやった。


「あぁ嫌だよ」


 するとまた聞こえた。今度はさっきよりもはっきりと。

 バスでも遅れているのだろうか? もう一度振り向くと、今度はこちらを見ている気がした。

 年齢は、八十歳くらい? 顔には歳と共に増えたであろう年輪が刻まれ、髪もそのほとんどが白くなっていた。しかし対照的に瞳は黒く鋭く輝きを放ち、何でも見透かしてしまいそう、そんな感覚を抱かせる。腰は少し曲がっていたが、黒いタイツに包まれた足は意外と筋肉質で、百メートルを十三秒で走れる、そう言われても納得してしまいそうなほど矍鑠かくしゃくとしていた。


「どうかされたんですか?」


 もしかしたら話を聞いて欲しかったのかもしれない。何となくのお年寄りのイメージだけど、そう声をかけてみた。


「濡れるのは嫌だねぇ」


 でも聞いているのかいないのか、またもや独り言のような言葉を呟く。そしてそんなおばあさんの視線は、私の鞄から僅かに顔を覗かせた折り畳み傘へと注がれていた。

 思わず苦笑してしまう。なんだ、そういうことか。


「宜しければどうぞ」


 私は傘を引き抜くと、おばあさんへと差し出した。


「ほー、こりゃたまげた。親切な人もいたもんだ」


 漸く合った視線。そう思ったけど、途端に違和感を覚える。近くで見つめているというのに、本当にこちらを見ているのだろうか、それは不思議と噛み合わないのだ。斜視かと思えば、どうやらそうでもない。

 そしてその瞳は、どんなに経っても瞬き一つしなかった。


 ――バラバラバラバラ。


 激しくぶつかる雨音が、やけに煩い。

 見ればそれは、季節外れとも取れる雹へと変化したようだった。

 垂れ込める雲は、まるで癇癪を起こした子供でも内包しているかのように、手当たり次第氷の粒を投げつけてくる。古びたトタン屋根は、堪らず悲鳴を上げた。


 なに? なんなの?


 寒さのせいじゃない、肌が粟立った。

 白々しく紡がれる台詞も、まるで台本でも読んでいるかのようで。


「だけどね、これしきのことで感謝してもらおうなんて、そりゃあお前さん、虫が良いよ」


 この人は、いったい何が言いたいの?


「そんなこと思ってませんよ」

 

 でも差し出してしまったからには引き下げることも躊躇われて、貼り付けた笑顔のままにもう一度傘を差し出す。すると、何故かおばあさんは私の顔をまじまじと見つめたようだった。


「――なんだ、お前さんか、そうかい。それならまぁ昔の恩もあるしね、一つだけ、忠告をしてやろうじゃないか」


 叩きつける雹の音に掻き消され、しわがれた声は酷く聞き取りづらい。


「え?」


 だけどおばあさんは、やはりというか案の定というか、私の期待を裏切ることなく、そのまま話を続けた。


「今日の黄昏時、今じゃ確か夕暮れ時って言うのかね。音楽室へ行っちゃあいけないよ」

「今日の夕方?」


 思わず首を傾げた。

 今日は終業式。言わずもがな帰りは早い。

 県大や国大に出るような強豪の部活動ならいざ知らず、私が所属するのは帰宅部一歩手前の手芸部。勿論活動は無く、そんな時間まで学校に残っていようはずもない。

 意味が分からず、私はおばあさんに曖昧に笑いかけた。突然何言い出すんだろう、この人頭大丈夫かな? 申し訳ないけど、そういう思いもあった。

 だけどおばあさんは、そんな私に何故だかニヤリと笑いかけた。微笑むなんて可愛らしいもんじゃない。ひっひっ、そんな引き笑いが聞こえてきそうな、ちょっとだけ気味の悪い笑みだった。


「ほっときゃいいさね」


 そして最後に、そうぽつりと零した。


「ええと……はあ……」


 背中にうすら寒いものを感じていた私は、急がなければ遅刻する、そんな思いと相まって、曖昧に返事を返すと、おばあさんの隣に傘を置き早々に暇を告げた。

 ちらりと振り返れば、本当に必要としているのだろうか、私が立ち去るそのときまで、おばあさんがベンチを動く気配は全くなかった。

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