ちょっとほんと抱きしめさせて
「こいつさ、カレンダー見るたびに溜息ついてるんだよね」
「勘弁してよもお」
「なになに、恋人?」
「一緒にカイロに行った女」
油の上品な香り。ぱちぱちとはぜる音。落ち着いた和室の中、昼下がりから贅沢に天ぷらで酒を飲む三人。僕はビールを、母さんとアコちゃんは日本酒を冷やで飲み、思い出したように箸を動かす。僕はたった二杯のビールで顔が赤くなっているのを自覚していたが、母さんとその年の離れた妹のアコちゃんはさっきから手酌でもう何杯飲んでいるのか分からない。
「カイロってエジプトの? そんなとこに女連れてくってなんでまた。若い女はグアムとか香港とか、近場で喜ぶものなんだからそこらへんで手を打っとけばいのに」
「なんかね、その女、この春から教師になったみたいで、しかも社会の教師。ピラミッドやら遺跡やらを見たがってたんだって」
「それはまた変わった女に引っかかったものね、
「僕の話しはいいよ。それよりアコちゃんはどうなのさ」
「残念ながら相変わらずおじさんにしかモテないわ。今のうちに若い男でも作っておこうかしら」
「そうしなさい。女も四十過ぎると妥協を覚えちゃって困るわ。旦那が死んでから十余年、引っかかるのはどこにでもいそうなマザコン体質の男ばかり」
僕のように裕子を想う事で、別れた恋人を思い出すだけで、胸が苦しくて心がかき乱されるなんて気持ちはこの二人にはないんだろう。それを口に出して言うとアコちゃんはお猪口に酒を注いで僕の手に握らせた。
「いい、周。年をとった女は我儘で擦れて現実的なの。そりゃあ若い頃は身を焦がす恋もしたわ、これ本当よ。周には想像できないだろうけどね。でもね、恋は永遠じゃないの。ときめきはいつか消えて、振り返るだけの想いは、それがどれだけ強い力でも、いつか忘れてしまう。だからどうせ消える想いならそれを引きずるよりも少しでも多くの出会いに結び付けた方がいいでしょ」
「そんな割り切り方、僕にはできない」
「あんたねえ、まわりを良く見てみなさい。別に年のいった女じゃなくても今の若い子だって合コン行ったりころころ好きな相手が変わったりするでしょ。恋愛を重く考えすぎなのよ、あんたは。ほんとに私の息子なの?」
僕は返事をする気にもなれずお猪口の酒を飲み干した。歯に触れると唾液が出るような甘みと香りが広がって、それはゆっくりと胃に染み込んできた。
「初めての恋人と別れてからが本当の恋愛よ」
「あー、それ分かる。というか初めての彼女だったのね」
「いい加減にしないと僕でも怒るからね」
「酒飲んで忘れるのも一つの手よ。酔った勢いで女口説いて抱いてみなさい。それはそれでいい経験よ」
「周には無理そうだけどね」
それからも散々からかわれて、シメの天茶を食べ終えると母さんとアコちゃんはこの時間でも開いているバーへ向かった。
僕はもうふらふらに酔っぱらっていてよろめきながら地下鉄に向かう。ホームの椅子でペットボトルの水を飲んでいると携帯が着信を告げた。見ると相手は大学の同期で僕の友達と付き合っている紅葉だった。
「周くん、今いい?」
「どうしたの」
「いつものようにちょっと相談」
「なに、あいつまた浮気でもしたの」
「今回のはほんと、絶対に許せなくて。前にもう二度と浮気しないって誓ってくれたのに。とにかくまず会ってよ。それで一緒に説得して欲しいの」
「ごめん、今酒入っててさ。それにほら、僕も裕子と別れたばかりだし、正直人の相談にのれる気分じゃないんだ」
そう言うと紅葉は少しの間黙って、それから躊躇いがちにこう続けた。
「ねえ」
「なに」
「私とエッチしてよ」
「ちょっと。突然すぎ」
「周くん優しいし、裕子センパイとは別れてるし、私ももうあいつとは続けていけそうにないし、一人でいたくないし、それから…」
これが母さんの言うチャンスなのかな? 紅葉の事はお互いによく知っている。いい子だと思う。付き合えばきっと、上手くやれる。僕は唾を飲み込む音が聞こえないように一度口元から携帯を離して、覚悟を決めた。
「うち今、親出かけてるから」
「うん」
顔が見えないのがもどかしかった。紅葉は今どんな顔してんだろう。三十分後に、と言って電話を切り、僕は地下鉄を降りるとその足でドラックストアで酒とコンドームを買った。
これから来る未来への逡巡と裕子への未練がましさが無性に紅葉の身体を思い起こさせてなんだか理由もなく紅葉を抱きしめたくて仕方なかった。
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