第41話 夏の夜のしずく

*8月26日(日) 曇り後晴れ*


「行け、そこだ―――っっ!!」

「何しとっとや、もっと早く走らんかー!」


 少し離れたところから、大声の野次が飛ぶ。


「大丈夫? 綾乃さん」

「うん、大丈夫。すごいね~!」


 心配そうに気遣う徹くんに、私は笑顔を見せた。今日の福岡ドームには全部で何人いるんだろう、たくさんの人が試合を観戦している。私は野球にあまり興味は無かったんだけど(甲子園は見るよ?)こうやって足を運んで実際に見てみるとやっぱり違うなと感じる。


「ごめんね、あんまりいい席取れなくて」

「え、この席あんまり良くないの?」


 今私たちが座っているのは打席と一塁の間、どっちかというと一塁側寄りの所だ。ヒットを打った選手は全員一塁を踏む。そして、塁を回って来た選手がホームベースを踏むのもここからよく見える。……ちっとも悪い席とは思えなかった。

それにしても暑いなぁ。ただでさえ気温が高いのに、周りの熱気で汗が流れ、服が肌に貼りつく。喉渇いたなぁ。


「……飲んでもいいよ?」

「えっ? いいの?」

「だって、そんなに物欲しげな顔されたら、ね」


 私をからかいながら、徹くんは売り子さんを呼びとめた。すごい、背中にビールサーバーを背負ってる。大学生くらいの若い女の子なのに、大変そうだなぁ。売り子の女の子が徹くんを見てポッと頬を染めるのはもはやお約束だ。少々複雑だけど、もう慣れっこになりつつある。イケメン効果なのか、大きいカップになみなみとビールを注いでくれている。……ラッキー、と思う事にしよう、そうしよう。

 「ありがとう」と徹くんにお礼を言われた売り子さんは、名残惜しそうに去って行った。良い男だと隣に女が居ても関係無いんだな、ということが、徹くんと付き合うようになってから分かった事だ。


徹くんは、はい、とカップを私に手渡す。当然のように、自分の分も買っている。背が高いからか疑われた事は無いんだけど、こっちとしてはヒヤヒヤものだ。

 ……まぁ、自分も未成年ですでに飲酒を嗜んでいたから、強くは言えないんだけどね。


「ぷはー、うまい!」


 キリリと冷えたビールの喉越し、なんて素晴らしいんだろう。あまりの美味しさについオッサンみたいな声が漏れた。そんな私を見て一瞬止まった後で、徹くんはその整った顔を破顔させた。自分もごくりと喉を鳴らして飲んで、うん、うまい、と満足そうだ。


「徹くんって野球好きなんだね」

「ああ、うん。小さい頃リトルリーグで……あっ!」


その時、ちょうど選手がヒットを打って球が気持ちいいくらいにまっすぐ飛んでいく。徹くんは会話が途中な事も忘れてしまったかのようにキラキラした目で食い入るように球の行方を追いかけている。

 野球が好きかどうか、なんて聞く必要ないみたい。見た目、バスケやサッカーをしてそうな雰囲気だから、野球好きなのは結構意外かも。

試合は地元のチームの勝利で、徹くんは終始ほくほく顔だった。


「あ、ちょっと待って! 店の皆にお土産買っていかなきゃ!」


 試合後、売店の方へ引き返そうとする私を、徹くんは引きとめた。


「最終日でいいよ、たぶん駅にも空港にも似たようなの売ってるよ」

「ほんと? じゃあそっちで買う方がいいかな」


 そう言って私はひとまず引いた。確かにこの人混みの中を引き返すのは至難の業かもしれない。売店も野球グッズを買い求める客でごった返しているだろうし。


 この一カ月、私と徹くんはかなり頑張って働いていた。

 徹くんはバイトなので働く時間に多少制限があったけど、社員にはそれがない。お盆を挟んで約半月ほど、私は休みを取っていなかった。その代わりに勝ち取ったのがこの連休だ。8月も終わりに近づくと、小学生や中学生くらいの子供達の姿が一気に消える。きっと今頃は家で夏休みの宿題に追われているんだろうな。

 この忙しい夏の盛りに連休を快くくれた皆に、絶対にお土産は買って帰らなきゃ、そう宣言すると、出発前からお土産の事を考えるなんて綾乃さんらしいね、と徹くんは苦笑したっけ。


 今回は新幹線ではなく、飛行機で来た。羽田から博多まで、一時間半くらいで来れちゃうなんて、すごいよね。前日やはり楽しみで寝れなかった私は徹くんと飛行機に乗った途端に寝入ってしまって、気付いたらもう着陸間近だった。

「よだれ垂れてたよ」って言われてすごく恥ずかしかったな。イビキはかいてないよね? とは怖くて聞けなかった。


臨時のバスで博多まで戻ると、駅ビルで夕飯を食べて電車で徹くんの実家へと向かう。

今日はなんと……〝彼の家にお泊り〟なのです!

徹くんが私の家に泊まった事はあるけれど(付き合う前ね)私が徹くんの家に泊まった事は無い。っていうか、部屋に入った事さえない。

 私は行きたいと思うんだけど、何故かいつも掃除してないから、とか、また今度ね、と誤魔化されてしまう。

 佐藤くん曰く「めちゃくちゃ綺麗な部屋で、植物がいっぱいある」らしいんだけど。私より佐藤くんのほうが彼女っぽいのは何でなんだろう……。

 前回と同様、駅前のビジネスホテルを予約しようとしたら、徹くんが「うちに泊まりなよ」って言ってくれたんだ。


 ここ来るのは一年振りか。相変わらず古風で大きいお屋敷だった。私の実家が洋風だから、こういう家に憧れがある。掃除が大変そうだけど畳っていいよね。すぐに寝っ転がれるし。

家にお邪魔してまず向かったのは仏壇のある部屋だった。お線香をあげて手を合わせて黙祷する。写真の中のお祖母さまは優しそうな笑顔を浮かべていた。どのくらい経ったか、振り向くとお祖母さまそっくりな笑顔を浮かべた徹くんが立っていた。


 その後通された居間を見て、仏壇に手を合わせた直後で不謹慎だけど思わず頬が上気したのは仕方ないと思う。去年、この場所で私たちは想いを伝えあって、両想いになった。

その頃の私は彼の気持ちが信じられなくて、疑って、自分の気持ちを捨てかけた。

だって、恋なんて形の無い不安定な気持ちをどうやって信じたらいいの?

世の中にはすぐにくっついたり別れたりする人達が溢れているっていうのに。そして疑心暗鬼になった私は徹くんを傷つけてしまった。人を馬鹿にするなと言って去っていく徹くんの後ろ姿は今でも忘れられない。


 ……人の後ろ姿って、すごく嫌なものなんだね。私にとっては別れや拒絶のイメージ。実際にそのシーンを見た訳でもないのに、お母さんを思い出すときはいつも私に背中を向けて家を出て行く場面が浮かんでくる。あとは仕事に出掛けるお父さんの背中と、啓太をあやす美鈴さんの背中も。

知らなかった、私って結構寂しがり屋のかまってちゃん、なのかも。


「どうしたの? 変な顔して」

「ううん、何でも無い」

「そう? お湯溜まったから、先にお風呂どうぞ」


 先に入っていいよ、と言ったら、「こういう時はお客さんから入るものだよ」と徹くんは頑として譲らなかった。お風呂の用意させて先に入るなんて、申し訳ないなぁと思いつつ、先にお風呂をもらった。

 もしかして檜風呂だったらどうしようと思ってたけど、意外と近代的だ。システムキッチンっていうくらいだから、システムバスとも言うのかな、手すりが付いていて年配の方に優しい設計。お祖母さまのためにリフォームしたのかもしれない。


 お風呂から上がって、髪をタオルで拭きながら縁側へ座った。汗ばむ肌に夜風が気持ちいい。遠くからどこかの家の風鈴の音が聞こえてくる。


「この家を、手放そうと思っているんだ」

「え……?」


 見上げると、湯上がり姿の徹くんがお盆を横に置いて座った。お盆には丸いガラスのコップに冷茶が入っていて、その一つを私に渡しながら、もう一度「この家を手放すよ」と彼は言った。


「いいの?」


 だって、ここは徹くんの大事な場所なのに。ご両親やお祖母さまと死別した徹くんにとって、ここは唯一の居場所なんだと思う。だから、大学進学とともに上京してきても手放さなかったんじゃないの?


「……もういいんだ。いつかは処分しなきゃって思ってて。でも、もう少し、もう少しって、ずるずると引き延ばしてた。人ってね、形にこだわるものなんだ。写真だとか、子供だとか、何かを残してそれに縋ろうとする。だけどさ、それって違うんじゃないかって、思うんだ。そんなものに頼らなくても、大事なものはここにあるのに」


 徹くんは自分の胸に手の平を当てた。その目はどこか遠くの景色を見てるようだった。彼は今、心に刻まれた大事なものに想いを馳せているんだろう。


「そう思えるようになったのも、綾乃さんのおかげだよ」

「私は何もしてないよ?」

 

 徹くんは、「分かってないなぁ」と苦笑して、私の手を握った。


「ただ、居てくれるだけでいいんだ。俺のそばに、ずっと」


 胸がきゅっと切なくなる。

好きって言われるより、何倍も心に響く。


 涙が一つ、流れた。


 それを見て徹くんは、「もう、本当に泣き虫だなぁ、綾乃さんは」って、可笑しそうに笑って、私の涙を指でそっと拭った。

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