第9話 壊れてしまった大切なもの

*8月26日(土)晴れ*


「あ~疲れた~! あ、綾乃さ~ん、お疲れさまでぇす。わー、残業ですか?」


 夜九時になり、まりえちゃんが事務所に戻ってきた。他の社員は売り場に出ているので、事務所には私だけだった。


「お疲れさま。うん、ほら、一昨日万引きがあったでしょ? その報告書に不備があったみたいで、今やり直ししてるの」

「うわ。あの中学生が集団でやってたやつですよね。たいへ~ん! 親が謝ってるのにしら~っとしてる子や、『金さえ払えば問題ないでしょ』って開き直る親が居たって聞きましたよ~」

「そう、それそれ。まあ、あとは警察と学校に任せるってことになったよ」


 未来ある若者の経歴に傷が~とか何とか担任教師や親御さんたちに言われたけれど、出来心で済ませるには額が大きすぎた。未来ある若者だからこそ、ここらでお灸をすえなければ、というのがこちらの総意だ。

 私は報告書のバックアップを取り、店長のPCにデータを添付して送る。


「これで、よしっと」

「終わりました? じゃあ、綾乃さん、相談に乗ってもらっていいですか~?」


タイムカードを押したまりえちゃんが、甘えた声を出す。


「え、なになに? 私で役に立つかな?」

「綾乃さんがいーんですっ」


 私は自分のPCをシャットダウンすると、まりえちゃんの向かいの席に座りなおした。


「それで、どうかしたの?」

「あのぉ、実は……私、今微妙な関係の人がいて……」

「微妙?」

「だから、そういう関係になってる人ってことです」

「そういう関係……」


 そういう関係……ってどういう関係? 言葉の意味が分からずにしばらく考える。あれ? それってもしかして……! やっとどういうことか理解した私は思わず赤面してしまう。


「ああ、な、なるほどね。……そ、それで?」


「だから、出来ればその人と付き合いたいんですけど、どうすれば付き合えるんですかねぇ? どう思います?」


 そんなこと知るかあ! 自慢じゃないが、恋愛経験は全く無いぞ!


「ど、どうして私に……?」

「だって、綾乃さん大人だし、経験豊富そうだしぃ」

「ええっ!」

「?」


 うわ~全くの誤解! 何がどうなってそう思ったの!? いや、でも、せっかく相談して来てくれたんだし、何とかその信頼に応えたい……!


「そ、そうね……。しばらくそういう事はしないでみたらどうかな? そしたら相手から何か言ってくると思うんだけど……」

「あ~でもぉ、一緒の部屋に居たら、やっぱりしたくなるじゃないですかぁ」


 知るか知るか! そんなもん!!

 良く言えばボーイッシュ、悪く言えば色気がないまりえちゃんの口からそういう話を聞くのはとてつもなく変な気分だ。もう、この話、終わりにしてくれないかなっ?


「そ、そうだね……。でも、そこを我慢しないとダメなんじゃないかな。相手はまりえちゃんと付き合ってなくても、そ、そういう事が出来るって思ってたら付き合おうとは思わないと思うの。だから、付き合わないとしないっていう意思表示をするのがいいんじゃないかと……」


 一生懸命考えたことを恐る恐る口にする。

ダメか? これじゃダメなのかっ? 私は恐る恐るまりえちゃんの反応を伺う。


「そっかー! 確かにそうかもしれませんねぇ! さっすが、綾乃さん、深いですね! やっぱ綾乃さんに相談して良かった~!」

「そ、そう? 良かった。あはは……」


 ほっ。どうやらあながちハズれでは無かったみたいで、胸をなで下ろす。


「やっぱり大人の男と付き合ってる人は違いますね~」

「はっ!?」


 大人の男? どういうこと、それ??


「隠さなくってもいいですよ~。本部の竹島さんと、付き合ってるんでしょ? この前2人で仲良さそうにしてるの見て、ピンと来ちゃいました~!」


 いやいやいや、その勘、全然当たってないから……!


「つ、付き合ってないから、ほんとに!」

「大丈夫です、誰にも言いませんからぁ。最近綾乃さんきれいになったって評判でしたけど、恋をしてたからなんですねぇ~」

「……」


 うわ、何を言っても照れかくしだと思われてるっ!

 変な汗をかき始めた私に、まりえちゃんはさらにとんでもないことを言い始めた。


「それにしても、最近カップルが増えましたよね。徹くんと森口さんも最近付き合い始めたみたいだしぃ」


 心臓が一瞬止まる。そして止まったかと思うと、突然早鐘を打ち始める。


「……え……?」

「あれ、知らなかったですか? 言っちゃダメだったのかな? でも、森口さんが嬉しそうに言いふらしてましたよ~」

「……そうなんだ……」

「あれ? 綾乃さん、どうかしました?」

「……ごめん、急に気分が悪くなったから、先に帰るね……」

「え、綾乃さ~ん!?」


 まりえちゃんに返事をする余裕もなく、私は鞄を掴むと逃げるように店を出た。


 私は、店が視界から消えてもしばらく走っていた。するとヒールが溝に引っ掛かり、歩道に転んでしまった。膝の痛みを堪え、泣きたい気持ちを必死で抑えながらとぼとぼと歩き続けた。


 徹くんは、森口さんと、付き合っていた。

……いつから? 私への告白は嘘だったの?

それとも、返事が待ち切れずに森口さんに心変わり……?


 ……そうか。

私、一人で悩んでて、馬鹿みたい。

徹くんは、とっくに次に行ってたんだ。

 ほんと、私、馬鹿だ。

いつまでも私の事を好きだなんて考える方がおこがましい。


……忘れよう。

傷はまだ、浅い。今ならまだ、引き返せる……。

私にはやっぱり恋愛なんて無理なんだ。


 そう、思っていた、その時。


「綾乃さん!」


 突然、後ろから手を掴まれ、振り返ると、そこには必死な顔をした徹くんがいた。

 よく見ると店の制服を着ている。店から走って追いかけてきたらしく、彼は息を切らしていた。


「徹……くん……」


 今一番会いたくない人、今一番見たくない顔が目の前に立っている。怒ってさえいるかのような、真剣な目をして。


「さっき……山下さんに話聞いて……」

「まりえちゃんに……?」

「綾乃さん、竹島さんと付き合ってるって本当ですか?」

「な、何で……」


 どうしてそんなことを、と問いかけて、まりえちゃんに聞いたのだろうと考えて口を閉ざす。そんな私を見て、徹くんは眉をぎゅっと寄せた。


「……それが、俺の告白に対する返事ですか?」


 ナニソレ。何でそんなこと言うの? 自分だって、森口さんと付き合ってるくせに。

 次第に腹が立ってきた私は、それを徹くんにぶつけた。


「徹くんだって森口さんと付き合ってるんでしょ。知ってるんだから」

「……え?」

「まりえちゃんに聞いた。森口さんがそう言ってたって」

「誤解です。付き合ってません」

「いいんだよ、誤魔化さなくて。私も竹島さんと付き合おうと思ってるし」


 嘘だ。そんなことは思っていない。だけど、私は傷ついてませんという風にアピールしないではいられなかった。


「……竹島さんのことが好きなんですか?」

「……」

「俺じゃ、ダメなんですか?」


 絞り出したような声を出す徹くんから、私は目を逸らした。


「……徹くんには、私よりも他にいい人がいると思う。歳が近くて、かわいい人が」

「俺は綾乃さんがいいんです」

「……」

「綾乃さんの気持ちはどうなんですか? 答えてください」

「……徹くんは、まだ若いから……」


 徹くんの問いには答えなかった。答えられなかった。


「……俺が年下で、未成年だからダメなんですか? だったら、二十歳はたちになればいいんですか? それとも社会人じゃないから? じゃあ、高卒でも働いてたらいいんですか? 綾乃さんの判断基準は何なんですか?」

「……」


 そんなこと聞かれても困る。自分が一番、自分の事が分からないのだから。

 徹くんは私の沈黙を拒絶と取ったようだ。


「それじゃ、納得できない。年齢は俺にはどうする事も出来ないから。年下とか学生とか、そんなことじゃなく、断る理由は俺に、俺自身に見つけてください。それ以外は認められません」


 徹くんに静かに責め立てられ、私の両目から堪えられなくなった涙があふれ出す。どうしてそんなこと言うの。何でそんなに苦しめるの。


「どうして何も言ってくれないんですか? 綾乃さんは自分が傷つきたくないから、人を傷つけたくないから逃げてるだけですよね。そう言えば俺が諦めて次に行くとでも思ってるんですか? ……人を馬鹿にするのもいい加減にしてください!」


 そう叫ぶと徹くんは掴んでいた私の腕を乱暴に離し、踵を返して去って行った。


「ご、ごめ……なさい。そんな、つもりじゃ……」


 私は震える声で咄嗟に謝ったけど徹くんは振り返らない。

 徹くんを傷つけたのは、私だ。傷つけたくないと思いながら、自分かわいさに最悪の形で深く傷つけてしまった。私が、彼を。


 その時、車のライトが去っていく徹くんの背中を明るく照らす。

彼の背中にはやり場の無い怒りと悲しみに満ちていた。

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