あきの小京都

たれねこ

あきの小京都

 通勤の際、薄手のコートだけでは肌寒さを感じ、着る服で悩み始める十月の終わり。

 私は大学から付き合っている恋人の航平に、今度の週末に帰省するから旅行がてら一緒に行かないかと誘われた。

 金曜日。二泊三日の旅行用の荷物を入れたバッグを手に出社し、定時少し前に退社。十八時に東京駅で航平と待ち合わせ、スーツのまま新幹線に乗り込んだ。

 そのまま新幹線と電車に揺られること約五時間。目的地である広島県の竹原という町に着いた。安芸の小京都と呼ばれるその町は、古い町並みを残すのんびりとした所だと航平は言っていた。

 小さな駅舎を出てすぐの路面には、『おかえりなさい』と書かれていて、航平は懐かしんでいたが私には正直どうでもよかった。

 夜遅い時間に彼の実家をいきなり訪ねると私が気を遣ってしまうだろうからと、その日は駅近くのホテルに泊まることになった。

 翌朝、航平は地元の友人といつの間にか連絡を取ったらしく、

「これからツレの所に行きたいんだけどさ、亜季も来る?」

と、尋ねてきた。私が仮に行きたくないと言っても、彼は一人でも行くつもりなのだろう。私はそれが無性に腹立たしく、

「昨日の長旅で疲れてるの。もう少し休みたいわ」

と、拗ねた子供のように我儘を言ってしまった。

「大丈夫? 俺もここにいようか?」

「少し休んだら大丈夫だから、友達の所に行きなさいよ。早く会いに行きたいんでしょう?」

 私は言葉を投げた後に後悔した。彼は今までも私のことを一番に考えてくれ、困ったときはいつも助けてくれていたのに、なんてひどいことを――。

 しかし、彼にも非はある。大久野島に兎を見に行こうと言ってたのに、急に予定を変えるから――。大久野島には以前から行ってみたくて、今回の旅行を決意させた一つの要因だった。

 航平は「分かった」っと、少し不機嫌そうな顔で部屋を出て行った。その後姿を見送ると布団を被り、不貞寝する。しかし、すぐに飽きてしまい、私は一人、見知らぬ町に足を踏み出すことにした。

 外に出て最初に思ったのは空が広く、近いことだった。私の生まれ育った東京と違い、高い建物がなく開放的だったからそう感じたのかもしれない。

「目指すは大久野島――。一人でも行ってやるんだから」

 竹原駅で大久野島までの行き方を尋ね、忠海という駅までの切符を買う。そして、ホームで電車を待つが一向に来る気配がない。長い時間電車を待つという感覚が私には新鮮で時刻表のスカスカ具合にゆったりとした時間の流れを感じた。

 やっと来た電車に乗りこみ、忠海駅までの十五分間。電車は紅葉に色づきだした山間を抜け、海を臨む。私は初めての電車にはしゃぐ子供の気持ちが分かる気がした。

 忠海駅で降車し、大きく息を吸い込むと、風に混じりほのかに甘い匂いがした。

「ねえ、航平。この匂い……」

 私はいつもの癖で笑顔で隣にいる彼に話しかけるが、今はいない。駅を出てすぐ脇のコンビニには、兎の餌が売っていると宣伝されていて、また思わず隣にいるはずの彼に話しかけそうになる。大久野島に向かうフェリーの出ている忠海港に向かう人達は一様に楽しそうに歩いているのに、私には楽しさを分かち合いたい人が今、隣にはいない。

 私は無性に航平に会いたくなった。気が付いたら彼に電話を掛けていた。

「ねえ、航平。今、どこ?」

「今? 町並み保存地区にいるよ。今日のイベントの手伝いをしてるんだ」

「そう。ねえ、今からそっち行ってもいい?」

「もちろん。道の駅まで来たらまた連絡して。迎えに行くから」

 私は忠海駅から竹原駅に戻る切符を買う。そして、またしても待ちぼうけ――。私はこの時間も航平と一緒なら楽しいのにと、寂しさを感じる。

 竹原駅に戻り、カラータイルで舗装された小さな商店街を抜け、川沿いに歩き、道の駅を目指す。道の駅近くの川沿いのベンチに、この町で唯一見覚えのある姿を見かけ、私は子供のように駆け寄った。

 航平は笑顔で私を迎えてくれた。彼はいつから待ってくれていたのだろうか――。

 そして、二人並んで江戸後期の風情を残すという町並み保存地区に足を踏み入れる。古い屋敷や家屋が連なるように立ち並び、一階部分や中二階にある格子は同じように見えて、建物ごとに様々な意匠が凝らされている。私は航平のガイドを聞きながら、その僅かな差を見つけて楽しんだ。

 ただ、イベントのためか道の両脇には竹筒などが置かれていて、どこか違和感を感じてしまう。

 その後、航平の友人と合流し、私は恋人として紹介された。そこで彼の幼い時の話など楽しい話を沢山聞かされ、ここには彼の時間も詰まっているのだと感じ、竹原という町が好きになっていく。

 そして、次第に陽が傾いていき、暗さが増す程に人が増え始める。

「じゃあ、そろそろ行こうか」

 私が彼に引かれて見たものは、竹筒から溢れる優しい灯りでライトアップされた幻想的な町並みだった。

 竹筒以外にも紙で作られた灯篭もあり、そこには思い思いの気持ちが書かれていた。私は自然と頬が綻んでいくのを感じる。

 その紙灯篭の一つに見覚えのある文字と名前が書かれたものがあった。

『亜季の笑顔をこの先もずっと隣で見ていられますように  航平』

 私は彼の方に顔を向ける。

「航平。これ……」

「あのな、それ書く代わりに今日半日、準備の手伝いをしてたんだ。本来ならそんなことをしなくても書けるんだけどな」

 彼は恥ずかしそうに頬を掻きながら目線を逸らしていた。

「なあ、亜季。俺と結婚してくれないか?」


 これが私が彼にプロポーズされた顛末だ。今では、毎年秋の終わりに憧憬の路を見に竹原に行くことが私達夫婦の恒例となっている。駅のあの『おかえりなさい』という言葉の温もりも、柔らかな光に包まれた町並みも、今は大事な宝物だ。

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