第31話凍える夜

 だんだんと、角灯の火が小さく、弱くなっていく。

 あれからどれだけの時間が経ったのか、わからなかった。

 外はすでに暗くなっている。

 陽が沈み、気温も急激に下がる。

 窓の隙間から聞こえるヒュウヒュウという音が、寒気を加速させていた。

 身を縮め、寒さに耐える。

 寝返りの打てない体は辛く、縛られた手足は痺れて感覚がない。

 額の傷も、ズキズキからズンズンという痛みに変わっていった。

 ぬるりと、血のようなものが傷口から滴っている。


 エリザベスは目を閉じて、歯を食いしばる。

 今は、そういう風に耐えるしかできない。


 陽の光をこれほど望んだことはあっただろうかと、自身の人生を振り返る。


 父親の言っていたとおり、太陽の光は素晴らしいものなのだ。

 陽の光の下では、本が読めないと今まで嫌っていたけれど、今はひたすら照らして欲しいと願った。


 ズキンと激しい痛みを額に感じ、はあと息を吐く。

 白い息がふわりと宙を漂い、すぐに消えていった。


 だんだんと、息苦しくなってくる。

 奥歯を噛みしめ、なんとか耐えようとしたが、我慢できる痛みではなかった。


 生理的な涙が眦に浮かび、頬を伝っていく。

 それが悔しくて、ボロボロと涙がこぼれていった。


 時間が経てば、額の傷以外も痛みだす。

 馬車が転倒した時に、体をあちらこちら打っていたのだ。


 空気が薄くなっていくように感じて、息遣いが荒くなる。

 一生懸命息を吸い込むが、どんなに頑張っても、苦しかった。


 エリザベス・オブライエン、恐ろしい女だと思った。

 普通、愛のためだけに、ここまでできない。


 考えごとをして、気を紛らわせていたが、限界であった。

 痛みに耐えきれず、可能な限り体を折り曲げる。

 依然として、空気も薄い。


 視界も霞んできた。

 角灯の火も消えかけていた。蝋燭の先端に、僅かな火が残るばかりである。

 もう、楽になりたい。

 エリザベスは、あまりにも辛い状況に悲観していた。

 昼まで耐えきれるわけがないと。


 ぐっと身じろげば、シャラリと首にかけてあったチェーンが服の上を滑る。

 シルヴェスターからもらった首飾りであった。

 今日から三日間、宮殿に泊まり込みで話し合いをすると言っていた。

 助けになんてくるはずがない。そう思っていたが――


 遠くから激しい物音が聞こえる。

 家具のような重い物が倒れる振動が床に響き、男の怒声も聞こえた。

 女性の悲鳴も聞こえる。

 カツカツと誰かが走ってくる音が聞こえ、エリザベスのいた部屋の扉が開かれた。


「――エリザベス!!」


 今まで聞いたこともない、焦ったような声で名前を呼ばれる。

 いつも余裕たっぷりで、エリザベスの反抗的な態度も軽くあしらう飄々とした人だと思っていた。


 微かに瞼を開いたが、視界がぼやけていて、金色の髪しか判別できなかった。

 けれど、シルヴェスターであることはわかる。

 どれだけ情けない顔をしているか確認をしたかったのに、まったく見えない。エリザベスは残念に思う。


「良かった……いや、全然よくないけれど、でも、生きていてくれて、本当に嬉しい」

「……ええ、平気なの、ぜんぜん、痛くないし、寒くもない」

「君は、こんな時まで意地を張って……」


 シルヴェスターは上着を脱ぎ、エリザベスの肩にかける。


「ね、ねえ……」

「なんだい?」

「会議、大丈夫?」

「ああ、そんなの、死ぬほどどうでもいい。それよりも、早く帰ろう」


 シルヴェスターは一言断り、両手足の拘束を解くと、エリザベスの体を横抱きにして持ち上げる。動かされたことにより、傷口が疼いた。


「――んっ!」

「すまない。すぐに、医者の元へ」


 シルヴェスターが踵を返した刹那、走ってやってきた誰かが部屋に飛び込んでくる。


「――お兄様!!」

「リズ……」


 エリザベス・オブライエンは、抱き上げたエリザベス・マギニスを指差して叫んだ。


「その子は、わたしじゃないの!!」

「何を言っているんだい?」

「その子は偽物よ!!」

「エリザベスが偽物? 馬鹿なことを」

「お兄様は騙されているの!」

「リズ、いい加減にするんだ」


 シルヴェスターの声は冷たい。

 まるで、他人への物言いをしているようだった。


「リズ、好きなほうを選ばせてあげよう。一つは、一緒に帰って父上に怒られるか、二つ目は、軍の事情聴取を終えてから、父上に怒られるか」

「お兄様、何をおっしゃっているの?」

「私も、同じことを聞きたい」


 シルヴェスターは埒が明かないと、部屋からでようとする。だが、エリザベスが出入り口を遮って、邪魔をしだした。


「リズ、退くんだ」

「嫌!」

「私は、これ以上リズを嫌いになりたくない」

「お兄様……!」


 冷たい物言いに耐えきれず、エリザベスは妨害を止めた。

 シルヴェスターは負傷したエリザベスを助けるため、建物内からの脱出を図った。


 ◇◇◇


 瞼を開けば、贅が尽くされた天蓋が視界に飛び込んできた。

 最初見たとき、物語のお姫様のようだと思ったのだ。

 公爵家にある家具家財はどれも洗練されていて――そこまで考えて、エリザベスは我に返る。


 起き上がろうとしたが、体に力が入らない。

 額や体の痛みは引いていたが、ひどい倦怠感を覚えていた。


 自由にならない状態であったが、頭ははっきりしていて、疑問がどんどん浮かんでくる。


 今日はいつ?

 どうして公爵家に?

 エリザベス・オブライエンはどうなったの?


 わからないことだらけであった。


 ふいに、トントンと戸が叩かれる。

 返事をする前に、扉は開かれた。


「――それで、エリザベスは大丈夫なの!?」

「はい、エリザベスお嬢様は昏睡状態にありますが、命に別状はないと」


 侍女の声と、もう片方は叔母、セリーヌの声だった。

 びっくりして、一瞬寝たふりをしてしまおうかと思ってしまう。


 けれど、早足で枕元へとやってきた叔母は明らかに取り乱しており、声をかけて安心をさせることにした。


「セリーヌ叔母様」

「ああ、エリザベス!」


 美しい叔母の顔は、涙に濡れていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 謝罪の理由を述べることはなかったが、察することはできた。

 いまだ、双子の姉妹がいたことや、本当の母親がセリーヌであることは信じられない。


 思い返せば、エリザベスに対するセリーヌの態度は特別厳しかった。

 他の侍女より、明らかに指導に力が入っていたのだ。

 けれど、その教えも、身代わりをするにおいて、大変助けてもらった。今は感謝しかしていない。


 まだ、気持ちの整理がついておらず、許すことはできなかったが、差し出された手をそっと握る。


 そして一言、「わたくしは大丈夫」と声をかけたのだった。


 ◇◇◇


 エリザベス・オブライエンの起こした事件は秘密裏に処理された。

 エリザベス・マギニスがそれを望んだからだった。


 公爵令嬢エリザベスはあのあと、重要参考人として三日間に及ぶ事情聴取を受け、現在も投獄されたままでいる。

 来週より裁判が始まる予定だった。


「恐らく、禁固三年以上くらいになるかと」

「そう」


 エリザベスは一週間ぶりにシルヴェスターに会った。

 エリザベス・オブライエンの近況を知り、なんとも言えない気持ちになる。

 怪我はすっかりよくなっていたが、寝台から出ることのできない生活が続いていた。


「それよりも、わたくし、実家に帰りたいのですけれど」

「その体では無理だよ」

「もう元気です。周囲が過保護なだけで」

「そんなことはない。まだ、ゆっくり休んでいてほしい」


 至極真面目に懇願され、エリザベスは何も言えなくなる。


「今回の件は、本当にすまなかったと」

「本当に。責任を取っていただきたいものですわ」

「それはもう、そのつもりで」


 シルヴェスターはエリザベスの手の甲をそっと握る。

 嫌な予感がして、問いかけた。


「あの、責任とは……?」

「安心してほしい。君のことはかならず幸せにする!」

「……」


 金銭的な責任の取り方を希望していたが、別の方面に考えていると知り、眉間に皺が寄るエリザベス。


「もちろん、婿入りするから安心してほしい」

「いえ、そうではなく……」

「牧場の仕事も、体力には自信があるから」

「あの、どうか、早まらないで……」


 どうやら、勘違いは簡単に収まりそうになかった。

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