第8話侯爵令嬢アリス
エリザベスは客人と会うための身支度を行うと言った。
侍女を一列に並べ、一気にまくしたてるように指示する。
「――ドレスの色は紫、下着はそのまま、化粧はアイラインと口紅を濃くして、ネックレスは大粒のダイアモンドを、髪型はハーフアップに。靴はドレスに合った色合いで」
以上をたった十分で終わらせるようにと命じた。
今までしたことがない短い時間での身支度だったが、無理だと言える雰囲気ではない。
侍女達は小走りで準備を始める。
結果、エリザベスの言う通りの時間内で、着替えや化粧を完了させることができた。
何を準備すればいいか、どういう化粧をすればいいかの指示も的確だったので、できた芸当だとも言える。
完璧な貴婦人の装いとなったエリザベスは、「まあまあね」と辛口の評価をする。
そして、銀盆の上に並べられた扇を一本一本手に取って広げ、素材や中の絵を確認していく。
骨部分は象牙、扇面には鳥の羽根、布地や紙に田園風景や花模様、動物の絵が描かれた物など。
軽くてしなやかな扇は、今まで見た中で一番贅が尽くされた物であった。
選んだのは、ニジキジの羽根の扇。
それを手にしたことによって、エリザベスの身支度は完璧なものとなる。
世話役の侍女を下がらせ、
侯爵令嬢アリスが待つ部屋へ案内するよう、命令をした。
◇◇◇
侯爵令嬢アリス・センツベリーと、公爵令嬢エリザベス・オブライエンは親しい仲ではなかった。
付き添いをしていた侍女曰く、会ったのは一度切りで、挨拶を軽く交わした程度だとも。
ならば、対応もさほど難しいものではない。
エリザベスはそう思っていたが――
アリスの待つ部屋に行き、挨拶をしようとすれば、想定外の展開となる。
長椅子から立ち上がり、ずんずんとエリザベスに接近をするアリス。
年頃は十五、六くらい。
栗色の長い巻き毛に、ぱっちりとした青い目が印象的な小柄な少女である。
アリスはエリザベスを見るなり、目の前にきたと思えば、いきなり手を振り上げて頬に向かって振り下ろした。
パシン!
乾いた音が静かな部屋に響く。
アリスはエリザベスの頬を叩いたのだ。
そして、叫ぶ。
「――この、泥棒猫!!」
当然ながら、エリザベスは泥棒猫呼ばわりをされる心当たりはない。
ジロリとアリスを睨みつければ、びくりと肩を揺らし、僅かに後退していった。
「泥棒猫とは、どういうことですの?」
「し、しらばっくれないで!!」
「わたくしが、何か?」
「な、何かじゃないわ!!」
頬を叩かれてなお、冷静なエリザベスの様子に、叩いた方のアリスが狼狽している。
後退していくアリスを、エリザベスは一歩、一歩と追い詰めていった。
「ごめんなさいね。わたくし、最近忘れっぽくって」
「な、なんですって!?」
「あなたとわたくし、何かお約束でもしていたかしら?」
「わ、忘れるなんて、信じられない!!」
アリスはエリザベスを指差し、糾弾するように叫んだ。
「――ユーイン様との婚約は、破棄するって言ったでしょう!? なのに、どうして昨日、見せつけるかのように、仲良く婚約を報告していたの!?」
そういうことだったのかと、扇を広げて口元を隠し、そっと溜息を吐く。
詳しく聞けば、手紙でやりとりをされたことだったと発覚した。
アリスはユーインを慕っており、話を聞いた侯爵が結婚を申し込んだ。
だがしかし、ユーインはすでにエリザベスと婚約を結んだあとで、断られてしまったのだ。
諦めきらなかったアリスは、エリザベスに婚約破棄をしてくれないかという内容の手紙を書いた。
すべては身代わりであるエリザベスが知る筈もない情報である。
「嘘つき! 泥棒猫!」
目を潤ませながら、少ない語彙で罵倒するアリスを前に目を閉じ、どうしたものかと考えるエリザベス。
ふと、ある可能性が浮かんだ。
それに賭けて、話をしてみる。
「お待ちになって、アリス様」
「何よ!!」
「わたくし、パーティで婚約破棄をすると言っていたかしら」
「――あ」
自分の過ちに気付き、目を見開いて硬直するアリス。
本物のエリザベスが婚約破棄の時機を詳しく書いていなかったのだ。
エリザベスは予想が当たって良かったと、心の中で思う。
「公爵家にも、体面というものもありますのよ」
「あの、わ、私……」
アリスの青ざめた表情を見て、溜飲が下がる思いとなる。
それから、扇を胸に当て、安心させるような笑みを浮かべつつ、話した。
「アリス様、安心なさって。わたくし、ユーイン・エインスワースと結婚するつもりはまったくございませんの」
「ほ、本当に?」
「ええ、本当ですわ」
シルヴェスターは半年後、婚約をなかったものとすると言っていた。
それまで、この猪突猛進娘は待てるものかと、心配になる。
けれど、エリザベスはアリスの弱みを握った。問答無用でエリザベスの頬を叩いた愚行の事実はくっきりと、白い頬に朱を差す形で残っていたのだ。
「それで、頬を打ってくれた無礼の始末はどうつけるおつもりで?」
「え!?」
「先ほどから、アリス様に叩かれたところが、酷く痛んで」
ふらふらと、力尽きるような動きで長椅子に座り込み、背もたれに体を預ける。
額に手を当て、深い溜息を吐くエリザベス。
一連の動きを見ていたアリスは、顔色を青くしていく。
「ご、ごめんなさい、エリザベス様」
「謝って済む問題かしら?」
「だったら、どうすれば――」
婚約破棄まで最短で半年ほどかかる旨を伝える。
それまでの期間、耐えてほしいと願った。
「えっと、それだけ?」
散々怖い顔と今にも倒れそうな様子を見せておいて、落とし前は実にシンプルなものであった。
エリザベスはもう一つだけ、願いを口にする。
「あと、わたくしに二度と近づかないで。何があっても」
「わ、わかったわ」
「約束よ?」
「ええ、約束、するわ」
エリザベスは手をかざし、侍女を呼び寄せると何か耳打ちをしていた。
すぐに、客間の棚より何かが出され、テーブルの上に置かれた。
それは、白い紙とペン、インク壺であった。
「エリザベス様、こちらは?」
「契約書ですわ。先ほどの約束を守ることを、書いていただける?」
「え、ええ。いいけれど」
アリスは用意された紙に今後、エリザベスとユーインの婚約に口出ししないことと、二度と近づかないことを誓うと書いた。
「これでいいの?」
「ええ。では、最後に、血判状を」
「けっぱんじょう、って何かしら?」
「指を切って、自身の血液で捺印するもののことでしてよ」
「なんですって!?」
アリスは瞠目し、「なんて野蛮なことを要求するの?」と反発していたが、エリザベスは手のひらに強く打ち付けるように扇を畳んだ。
扇のパチンという音に、アリスは驚いて肩を震わせる。
「野蛮なのはどちらかしら? 事情も聞かずに頬を叩くなんて」
「そ、それは――」
「これは、痛み分けですわ」
「そ、そんな……」
今にも泣きだしそうなアリス。
エリザベスはにっこりと悪魔の笑みを浮かべながら、ケーキを切り分けるためのナイフを手に取った。
「あっ、その、エリザベス様っ」
「覚悟もなく、誰かを傷つけるというのは愚の骨頂、というものでしてよ」
エリザベスの握るナイフが、陽の光を反射してキラリと光る。
アリスは自らの愚かさに気付き、肩を震わせていた。
「さあ、アリス様――」
「!!」
握られたナイフの刃はアリスに差し出されることなく――さっくりと、テーブルにあったアップルパイへと沈んでいく。
小さく切り分けられたアップルパイを、小皿へと移し、アリスに差しだした。
「どうぞ、お召し上がりになって。うちの菓子職人のカスタード・アップルパイは絶品ですの」
「……え?」
「焼きたてですので、冷えないうちにどうぞ」
侍女が淹れなおした紅茶を持ってくる。
アリスは呆気に取られつつも、薦められるがままにフォークを手に取り、アップルパイを一口大にわける。
生地はバターの風味が豊かで、食感はサクサク。中のリンゴはほどよい酸味と、カスタードの濃厚な甘さが絡み合い、上品な味わいとなる。
「お、美味しいわ……!」
「でしょう?」
一度も食べたことがないアップルパイであったが、適当に薦めてみたところ、本当に美味しかったようだ。
公爵家にある物は何から何まで一級品。アップルパイもきっとそうだとうと、確信していた部分もある。
アリスは紅茶を一口飲み、ホッと至福の時を過ごしていたが、視界の端に契約書が映り、顔色を曇らせる。
一連の様子を見ていたエリザベスは首を横に振りつつ、アリスに言う。
「もう、よろしくってよ」
「え?」
「血判状なんていりませんわ。早く、お帰りになって」
「いいの?」
「ええ、血なんかみたら、せっかくのアップルパイが不味くなってしまいますもの」
「あ、ありがとう、ございます」
アリスは立ち上がり、深々と頭を下げる。
「エリザベス様、今日は、本当に、申し訳ないことをしたと思っているわ」
「お気になさらないで。今後、会うこともないでしょうから」
「え、ええ」
アリスはもう一度頭を下げると、気まずげな様子で帰って行く。
なんとか
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