小噺玉手箱
香罹伽 梢
第1話 フィルター・ビフォーアフター
やけに軋むベッドから弾みを付けて飛び起きるのは、さして苦ではなかった。
少年は纏わりつく熱を擦りつけるようにしてスルスルと直角に回転し、床にしっかり足を付けてから立ち上がった。一つ一つの動作を確認するようにして進まないと、倒れてしまいそうなくらいの違和感。しかし彼は戸惑うことなく「日常」を開始した。
視界いっぱい広がる世界は、どこもかしこも色が無かった。辛うじて認識できるのは白だが、それすら透明でないという意味で存在しているだけで、色として見ていいのか危うい。
少年はその中を泳ぐようにしてクローゼットに手を伸ばし、かけてあった制服を引っ手繰って袖を通す。ふとどこか遠くから、女の人の小言が聞こえたような気がした。しかし反応すら示さないまま、少年は何も入っていない鞄を持って部屋を出た。
ドアを閉めると、突然世界はパッと色を帯びた。黄色い油性ペンでガサツに塗られたコンタクトをはめているように、辺りは色あせていた。
廊下を歩けば床がギシギシと悲鳴をあげた。それを容赦なく踏みつけると、洗面台に顔を出した。
蛇口を捻ると、まだ固まっていないコンクリートのように粘度のある水が、のろのろと洗面器の中に溜まっていった。誰かの笑い声が少年の耳をくすぐった。数人いる。皆少年と同じ年頃の男の子だった。
それをかき消すようにバシャリと水の中に手を突っ込むと、顔を覆った。伝う水がネッチャリと纏わりついて、苦しい。慌ててタオルで拭うと、何故か口の中一杯に泥臭いものが広がった。急いで歯ブラシを突っ込み、ガシャガシャとかき回す。少年がまた廊下に出てくるまで、かなりの時間がかかった。
階段を下ってリビングに出ると、机の上に食器が綺麗に並べられていた。途端、けたたましくぐわんぐわんと響く音圧に襲われ、少年は顔をしかめる。だがそれ以上の何を思うでもなく席につき、少年はいただきますと手を合わせ、躊躇うことなくそれらをバリバリと頬張った。
食器からはみ出るほどに盛られているのは、鉄線や瓦の破片だった。
どんと居座る瓦礫たちは、しかしその威圧も虚しく少年の胃の中に納まっていった。特に味もしなければ、食感もないままに全ての皿の底を見せ、少年は席を立つ。
そして背に浴びる一層大きくなった音圧に、ドアを隔てて蓋をした。
すると、また世界の色が変わった。目玉が錆びついてしまったかのように、赤茶色のノイズがあちこちを飛び交っている。そして道という道に陳列する家たちは、
――全て廃墟と化していた。
少年はその道端をそそくさと歩く。視界の隅にチラつくのは錆び果てた鉄骨や粉々になった分厚い壁の破片などのガラクタばかりだ。特に見るものもないと判断した少年は完全に足元へと視点を集中させた。だから、目の前に出っ張っている柱にもぶつかるまで気づかなかった。
額をさすり、顔を上げる。インクが禿げてむき出しになった金属をぎらつかせ、そいつは道いっぱいに広がっていた。ガラスが割れて、中も爆弾でふっ飛ばしたのではないかというほど荒れていたコンビニの脇で、にゅうっと斜めに伸びている柱が、少年の行く手を阻んでいるのだ。
少年はむっとしてそいつを睨んだ。しかし柱は相変わらず金属を主張するだけで話にならない。諦めて下をひょいとくぐると柱を後にした。
道のりはそう長いものではない。しかし少年の足取りが徐々に重くなっていく。いや、実際に進みにくいのだ。 ビュオビュオと鬱陶しく風が少年を巻き上げようとしていた。しかも砂まで持ってきているから厄介だ。下を向き、目をつむって歩くより他になかった。
歩けば歩くほど風はどんどん煩くなり、頬に当たる砂も痛くなる。途端、風が一層強くなり彼の背中を押した。
びっくりして目を見開いた瞬間、突然現れた景色がぐらりと揺れた。
敷地内を最大限に幅をとってそびえ立つ、学校がそこにはあった。グラウンドは一歩ごとに躓きながらでないと走れないくらいにデコボコだった。教室の窓という窓はすべて穴が開いていて、そこから棚引くカーテンもズタズタだ。もともと何色だったのか分からないほどに荒れ果てた校舎は、少なくとも今は暗くどんよりとした色を纏っていた。
思わず、少年の足がすくむ。しかし風は止むことなく少年の背中を押す。いや、背中だけでない、腕を引き、肩を押し、足を無理に動かそうとすらする。
ああ――。
声にならないその感嘆詞は、ただただ少年の中で反響していき増殖していく。
ああ……あああ……ああ――!
風はどんどん強くなっていき、少年は一歩一歩、しかし確実に学校へと吸い込まれていく。
ああああああ――!
その声すら根こそぎかき消されてしまいそうなほど、風が耳を劈き、もはや砂そのものが少年を覆い尽くした時――。
「ああああああっ!」
……俺はベッドから飛び起きた。
ハッとして見たのが目覚まし時計なあたりが、相変わらずだなと自分でも呆れる。そんな俺の心配を小馬鹿にするように、時計はベルの鳴る十分前を指していた。
一息つき、クルッと腰を回して床に足を付ける。立ち上がると同時にクローゼットに一直線、そのまま二度寝を始める前に制服を着てしまう。
服を着てから洗面所に行くと袖が濡れるからやめろといつも母に怒られるのだが、気にしない。
親に買い与えられたものしかない部屋の中から学校で必要らしいものを鞄に詰め込み、部屋を出る。
廊下を歩くと気配を察した母がパタパタと働く様子が下から伝わってくる。うんざりしながらも洗面所に行き、顔を洗った。
冷たい水が顔を覆うと、昨日の嫌な感覚が蘇る。あいつらの笑い声と、苦しくてガボガボと泡を吐く俺の音――。
すぐさまタオルで拭いて、かき消した。同時にあの時飲んでしまった水の味を思い出してしまったので、それも念入りに歯を磨いて消した。
下の階に降りるとにこやかに笑う母がおはようから天気の話に始り、今まで鳴っていたニュースを垂れ流しにかかる。それを尻目にそそくさと席に着くと、言われる前にいただきますと手を合わせ、何も考えずに朝食を口の中に突っ込んだ。
どれも凝っている料理なのは見れば分かる。だが俺にはそれすら嫌気のさす原因の一つに過ぎなかった。味はどうかとしつこく聞いてくる母に美味しいとだけ伝え、空っぽの皿を見せつけるようにごちそうさまをして、それで全てを終わらせた。特に味はしなかった。
忘れものはない?と聞かれてあると答える奴はいないだろう。それでも大丈夫だよの一言で片すと、俺はまだお喋りし足りない母に相槌を打つ前にドアを閉めた。
囲いをなくした代わりに警戒心で膜を張る俺を、広がる景色が更にぐるっと覆っている。どこを向いても飛び込んでくる家々には、それぞれの家庭があるのだろう。しかしその中を覗けない俺には単なる未確認物体だ。その光景に気圧され、俺は道端をとぼとぼと歩くのだった。
気怠い気分がそのまま目線の低さに表れたのか、流れていく道路を眺めながら俺は歩いた。しかしそれも途中で止まってしまう。
頭に衝撃を受けてようやく顔を上げると、一番見たくない顔と突き合わされた。
よう、などと彼はへらへら笑う。俺と同じように顔を歪めることがないのは、彼が自らぶつかって来たからだろう。
睨み返すことで挨拶とする。その口元からクツクツと溢れる醜い笑い声が、昨日の記憶と重なった。顔を突っ込まれた水の中、ゴウゴウと渦巻く水音の遠くで聞こえた声と。
抗議の視線を送ろうとも、彼のふざけきった表情は変わらない。怒りを通り越して諦めと呆れに変換できたところで、俺は彼の脇の下を潜るようにして背を向けた。
通学路に戻ると、徐々に同じ目的地に向けて歩く人が増えていく。それと比例して、明るいトーンの行きかう声も多くなっていった。
目障り、とはいかないまでもそいつらの作る波はザラザラと肌に擦り付けられて不快だった。俺は思わず視線をまた地面に落とすと、俺は徐々に重たくなっていく足を無理に進めた。
波はどんどん大きくなっていき、肌を刺すそれらはチクチクからトゲトゲに変わり、最終的にはズキズキと頭に響く大合唱となって俺に押し寄せてくる。
うんざりして顔をあげると、丁度校門まで来ていた。吸い込まれていく生徒たちの奥で、今日も学校は歩いて消えていってしまうこともなくでんとそこにあった。
もう一歩も足を動かしたくないのに、俺も生徒たちに押されて学校に近づいていく。その他人事なばかりで何も明るさを齎さない施設は視界をどんどん無遠慮に占領していく。同時に、どす黒い俺の日常が朝の小テストの前の復讐のように順序よく再生されていく。
まず無い上履き、机の落書き、椅子の下の画鋲、汚くなった弁当、そして水に沈む自分の頭――。
ここまでしっかりと刻み込まれているのに、俺は今日も今日とてその中に吸い込まれていくのだ。
ああ――。
あの、何とも言えない声が頭の中で響きだす。
ああ……あああ……ああ――!
そうなのだ、結局俺は毎日こうして逃げるすべもなく日常を消化するしかないのだ。あの夢の中と――。
夢の中と?
俺は思わず足を止める。いきなり止まったので真後ろにいた生徒がぶつかってきたが、俺はそれでも動かなかった。生徒たちが送る怪訝そうな視線を振り払うように、グルンと後ろを振り返る。
本当に夢の中と同じなのだろうか。
総出で俺の背中を押していたその波は、目で見てみると案外疎らだった。
興味本位で、俺は一歩踏み出してみる。更に一歩、また一歩、そして一歩――。
徐々にそのスピードは上がっていき、いよいよ校門から出ると俺は走っていた。
久々に愉快で、無理にでも笑った。頬が引きつるが、それで満足だった。
砂を巻き上げる風一つない空は、よく澄んでいてどこまでも続いていた。
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