第6話 驚異の仮説

 扉がゆっくり開くと、そこに黒縁の眼鏡を掛けたユウが現れた。白地にロゴの入ったTシャツを着ている。ヘアセット前の前髪をかき上げた。

「こんにちは。……お揃いですか」

 中へどうぞというように、ユウが身体を引く。スイートルームの室内は私たちの部屋よりもかなり広かった。いかにも高級そうなワインレッドのペルシャ絨毯が、中央に敷かれてある。昨日、共有スペースとして使用していたソファセットのある部屋。南側の大きな窓から、レースのカーテン越しに日が射し込む。

 そのすぐ横には、コンタクトジャグリングの道具やプロジェクション・マッピングの機材と思われるものがまとめてあった。


 テレビの画面には、昨日行ったリハーサルの録画映像が流れている。ユウが最終チェックをしていたようだ。ちょうど、ユウとオギトが話し込んでいる場面が映っていた。

 奥を見ると、窓辺のテーブルで夏絵が沢田に髪を結ってもらっている。夏絵はオフホワイトのケーブルニットに花柄のロングスカート。

 沢田はすでに勤務外のようで、私服に着替えていた。制服姿と違い、高級感のある流行の服をまとった大人の華やかさに私はハッとする。

 夏絵は私たちに気付くと、すぐに愛らしい表情へと変わった。本当に可憐な癒やしの存在。隣にいるソフィアは、籐かごのバスケットの中でおとなしく丸まっている。だが、次の瞬間、私たちに気付き、警戒するように身をこわばらせた。


「お久しぶりです」

 ユウが、真綿と伊織に言った。間のある挨拶をするふたり。再会は重い空気を秘めていた。

「……夏絵、向こうの部屋へ行きなさい」

「え、……どう……して? 私もここにいたい」

「だめだ、お前がここにいると邪魔なんだ。俺に、何度も言わせるな……早く向こうへ行きなさい! 言うことを聞け!」

 突然の怒号どごうに夏絵が思わず泣き出し、続き部屋へ駆け出した。すぐに沢田がソフィアを抱き上げ、夏絵を追う。

 私たちの驚く表情に気付いてか、夏絵をにらみつけていたユウが言い訳がましく言った。

「……すみません。ちょっと、ショーの本番当日でイライラしてしまって」

「いや、それにしても妹にあんなふうに怒鳴るはどうかと思うけどな」

 真綿が冷めた顔で言う。私たちも同感だ。

 マイペースな伊織は、先程からゆっくりと部屋を見渡していた。言葉は発せず、独自のやり方で空間を切り取っている。

 そして今、脳内で個々にトレースしたものが何らかの反応をおこし、想像を絶する推理が導き出されるに違いない。確かに感じる、その思考過程。

 私たちが幾度となく立ち会ってきた、その瞬間。


 沢田が続き部屋から出て来た。私たちに目も合わせず、戸口へ向かいながら軽く会釈をする。ユウが自分のジーンズの後ろポケットへ手をやった。

「よろしく」

 沢田へ何かを手渡した。この音は、……キーだと思う。たぶん、車の。いつも真綿がポケットから車のキーを出して引き出しにしまうとき、キーホルダーが手の中で擦れてこのような金属音を出す。日常の音だ。

「……あの、すみません」

 伊織がやっと声を発した。

「おい、ちょっと、伊織が何か言ってるぞ!」

 真綿の大きな声が響く。ユウと沢田が振り返る。伊織の顔は先程とは違い、遙かな自信に満ちていた。かすかに上唇がめくれている。そして、静かに言った。

「待って下さい、沢田さん。――オギトさんのをどこへ運ぶおつもりですか?」


「……!?」

 な、なんてことを、伊織くん! 私はその言葉と内容にぞっとした。もちろん、真綿も礼美もあ然とし、言葉が出ない。

「……ペット探偵。それは、冗談なのか? ただ、沢田さんに俺の車を移動してもらうだけだ」

 ユウが少し口元を歪ませ言う。それは馬鹿にした笑いにもとれた。

「いいえ、冗談ではありません。琥珀さん、僕は僕の嗅覚を信じただけです。あなたが虚構の世界で大胆に振る舞うように」

 伊織はそう言い含み、次の言葉を待った。ユウは前髪をかき上げる。

「……意味がわからないな。専門分野が違うということか? とにかく、オギトを捜してるのは俺も一緒なんだ。彼はどこかへ出掛けたんだと思う。そして、トラブルに遭遇したのかもしれない。ただ、言えるのは現在行方不明で連絡が取れないということ。今夜のショーが終わっても彼が戻って来ないなら、警察に捜索願を出す」

 ユウは淡々とそう言い、私たちにもうお開きというふうな身振りをした。


「待って下さい。出来れば、ぜひ聞いて頂きたい推理があります。ただの仮説ですが、僕は真実に一番近い仮説だと思っています。一昨年、無念のうちに亡くなられた宮田泰子さんの想いを受け取っては頂けないでしょうか」

 伊織は決して強要してはいなかった。ユウがここで一笑して雰囲気を崩してくれればいいのにと、私は心から願った。伊織は続ける。

「これからの話を、すべて警察に話すような無情なことは僕はしません。……真実はいつでも残酷なものです。ですが、今ここで、この悲劇を終わりにしなければいけない。絶対に。これ以上、被害者も加害者も人生を狂わせてはいけないんです!」

 伊織の気迫が空気を振動させた。誰もが息苦しくなるほどの、永い一瞬を感じる。沈黙に耐えられなくなったその時、ユウが口を開いた。

「……わかった。ばかばかしいが、その推理とやらを聞こうか」

 

 私たち四人は、モカベージュの本革と思われるソファ席へと移った。沢田は窓際のテーブル席に座り、ユウは威厳を感じるブラックのパーソナルチェアーだ。

「……ふみちゃん、ごめん。ちょっと私、ついて行けてないんだけど。……遺体? 被害者と加害者って、それ何? これからの話って、オギトさんが迷子になった件とは違うの?」

 礼美がコソコソと私に問う。ごもっともだ。

 私だって、はっきり言って全く意味がわかっていない。真綿もあの様子からすると、間違いなくわかっていない。

 ただ一つ言えるのは伊織の頭の中で事実と無実、全ての辻褄つじつまが合い、それが驚愕の推理を導き出したということだ。

 ここは知った風な顔をして、伊織に何が何でもついて行こう。もはや後には引けない。私は礼美に小声で言う。

「礼美ちゃん、黙って。始まるよ……」


 伊織は立ち上がり、呼吸を整えながら少し歩いた。

「……琥珀さん、僕たちはここへ来てからずっと虚飾の世界を見せられてきました。もちろん、ショーはまだ始まってないとおっしゃるかもしれません。ですが、見えない本番はすでに始まっていましたね」

 突拍子もない伊織の発言にはもう慣れた。私は適当に小さく頷く。礼美が金魚みたいに口をパクパクさせ何か言ってるが、無視することにした。真綿は腕を組み、静かに目を閉じている。寝てないでしょうね?

「ふみさんと礼美さんがこのホテルに着いて数時間後、夜になってから僕と真綿さんがこちらへ到着しました。その時までにふみさんたち二人は、ドアマンの男性、フロントにいたホテル・マネージャーの沢田さん、夏絵さん。それからユウさん、あとは彼のマネージャーのオギトさん、アシスタント・マネージャーの香奈さん、その他ユウさんのライブスタッフ何名かと顔を合わせています。……そうですね?」

 伊織が私の顔を見た。私は脳内で確認しながらゆっくりと頷く。


「僕たちは、まずふみさんたちの部屋へ集まりました。そこで不思議なことがおこります。第一の謎です」

 私と礼美が顔を見合わす。あのナイトガウンの女だ。

「礼美さんと真綿さんが廊下で見かけた、セクシーな赤いナイトガウンの女性です。礼美さんは、浴場から客室へ戻ってくる途中。真綿さんはホテルに到着し、ふみさんのいる客室へ向かう途中でした。ちょうど挟むかたちで、おふたりがその女性を見かけたことになります。礼美さんは後ろ姿を、真綿さんは正面から女性の姿を見たのです」

 やっと目を開けた真綿が、礼美と一緒に頷いた。

「僕とふみさんはその女性を見ていません。僕はその時、まだフロントにいましたし、ふみさんは部屋の中にいました」

 伊織がこちらをちらりと見る。たぶん私は、居心地悪そうな顔をしていたと思う。

「それはしくも、四人がばらばらの状況に意図せず遭遇したとも言えます。ひとりの女性を、誰も同じ場面からは見ていないのです」

 確かにそう。私たちは皆、個々の状況下でその時間に接していた。


「そして、赤いナイトガウンの女性の存在は、まだ明らかになっていません。琥珀さん、心当たりがありますでしょうか?」

 伊織はユウを見る。

「まさか、あるはずないだろ。誰か、女性スタッフのひとりじゃないのか。ここには、コーラスやスタイリストや他にも女性がいるんだ」

「女性スタッフ、……そうでしょうか。後ろ姿を見た礼美さんが、言ってました。身体つきが、とても夏絵さんに似ていたと」 

 ユウが不機嫌な顔で、礼美を見やった。礼美はまさかの事態に、泣きそうな顔になっている。

「夏絵が廊下をうろつくわけがない。基本的に、ひとりで部屋から出ることは禁止してある。そもそも、そんな赤いガウンなんか夏絵が着るはずないだろ」

 それを言われてしまうと言葉も出ない。私たちがどうしてもせなかったのはそこだった。証拠など何もないが、誰もが言えるだろう。夏絵に限っては、セクシーな赤いナイトガウンなど着るはずがないと。


「ええ。それも僕を悩ませた謎でした。……ですが、もう赤いナイトガウンの正体はわかっています。今となっては、すべてが自然なことでした」

「誰なの!? そのガウンの女」

 礼美が目をまん丸にして、素早く伊織に問うた。

「はい、いずれご説明します。聞いて下さい……僕たちは初対面の相手に対して、まず第一印象が重視されます。それは見た目ということです。その後、雰囲気や声や性格などが合わさり、その人物を形成付けていく」

 まあ、確かにそうかもしれない。私は頷いた。

「昨晩、ふみさんたちの部屋で、その赤いナイトガウンの女性の話をしました。まず、ふみさんや礼美さんは、夏絵さんのことを清楚な少女として第一印象にインプットしていた。その後礼美さんは、どことなく夏絵さんに似たセクシーな後ろ姿の女性を見る。真綿さんはその頃、夏絵さんのことをまだ知らない。派手なナイトガウンを着た、美しい魅惑的な女性に見とれてただけです。セクシーというのが、その女性の第一印象。後に、話で夏絵さんの存在を知る。僕に至っては、まだそれに該当する女性にはどちらもお会いしていなかった。話から想像するだけ。ということになります」

 第0印象、初めて聞く言葉だった。会わずして、想像する相手。


「第一印象のイメージは深く刻まれる。これに皆さん、惑わされていました。そして、それに惑わされなかった僕だけが唯一の真実を見ることが出来たのです」

 伊織が息をつく。

「で、結局、誰だと言うんだ? そのナイトガウンの女性の正体は」

 ユウが足を組み、強気の姿勢のまま言った。

「それは後ほど。先に、第二の謎に移らせて下さい。……次は夜中、火事でレストランに避難した時のことです。僕らのテーブルにはレイカさんと美希さんという女性スタッフが二名いて、こちらで行われた一昨年のパーティの話をしていました。とても興味深い話でしたが、礼美さん覚えてますか?」

 急に礼美が当てられ、一瞬慌てている。

「あ、……そうね。興味深い話……あ、思い出した。アレでしょ? 亡くなった宮田泰子さんの恋人の話? 変態トープおじさん!」

 ざっくりな返答な上、情報が浅い。


「あ、まあ、そうですね。一昨年の夏のパーティーですが、泰子さんや恋人の男性も参加されていました。泰子さんが忙しくしている間、その男は女性を物色する。レイカさんと美希さんに相手にされなかったため、次はスタイリストの奈美さんや夏絵さんに手を出そうとした。元来の女好き、自信過剰で身勝手な男だったのです。もちろん彼に引き寄せられる、金目当ての若い女性もたくさんいたとは思いますが。……そして、そのパーティの後、宮田泰子さんとその恋人は無惨に亡くなりました」

 伊織は自分が発見した死体の残像を思い出したかのように、目を細めた。

「それが今回のオギトの失踪に、何か関係があるとでも言うのか?」

 いちいち引っかかる言い方で、ユウが物を言う。イライラがこちらにまで伝わってきて怖い。


「琥珀さん、その時の夏のパーティーでは、泰子さんの恋人と面識があったんですよね?」

「あったというか……。泰子さんはほとんどのイベントに、役員として参加している。だが、男の生きてる姿を見たのはその一度きりだ。挨拶程度で、ほとんど覚えてない」

 ユウはいぶかしげにこちらを見ながら、回転の早い頭脳で何かを考えているようだ。伊織は何が言いたいのだろう。私の表情を見て取ったのか、静かにしかしはっきりと言った。

「琥珀さん。……夏絵さんはそのパーティーの日、このホテルで泰子さんの恋人にされたんです」


 この時の衝撃を、きっと私は忘れることが出来ない。

 沢田を含めた私たちもそうだが、ユウの驚愕は尋常ではなかった。彼は明らかに知らなかったのだ、妹の残酷な秘密を。

 激しい怒りとこらえきれない不信感にもがくように、ユウは言った。全身が怒りで、殺気立つ。

「馬鹿な。そんな……馬鹿なことが。まさかそれを、……それを俺が信じるとでも思ってるのか!」

「やっぱり琥珀さんは知らなかったんですね。そうだと思いました。……しかし、それが真実のひとつです! 夏絵さんが今回の宿泊でひどく嫌がったという、南側のあの客室でだと思います。そしてその後、夏絵さんの体調は急変し、長期の療養を余儀なくされた。元々、心臓移植をしたほどの身体です。そのショックの影響は、心身ともに計り知れない。命があって、本当に奇跡だったのかもしれません。ご両親は娘が性的暴行を受けたことを病院で知らされたのかもしれませんが、兄である琥珀さんには言えなかったのでしょう。琥珀さんが、ご自分を責めるかもしれないからです。夏絵さんは悲惨な運命に苦しみ、密かに耐えた」

 伊織の言葉を聞いた私は、自分の身体が震えているのに気付いた。両手を強く握り合わせてみても、震えは止まらなかった。それなのに夏絵は、私たちにいつも愛らしく微笑みかけていたのだ。


 真綿がそっと私の肩に手を置き、真面目な顔で言った。

「伊織、なんでそんなことが言える? どこにそんな証拠がある?」

「はい。……レイカさんと美希さんが付けたトープおじさんというニックネームです。トープとは、ベージュとグレーを掛け合わせた色味。泰子さんの恋人が言った言葉を覚えてますか? トープの服を着た女がいやらしくてたまらない。誰を指した言葉でしょうか」

 伊織の問いに、素早く礼美が反応する。

「覚えてる! 当時、スタイリストの奈美さんはベージュの麻のスーツ。夏絵ちゃんは確かグレーのワンピースを着てたのよ。伊織くん、そうでしょ? でも、トープって、ベージュとグレーの中間よね。……どういうこと?」

「さすが礼美さん、記憶力がいいですね。……真綿さん、どうですか。わかりませんか。真綿さんならわかるかと思ったのですが」

 いきなり振られて、困る真綿。

「いや、さすがの俺もさ、いつもいつもわかる訳ないじゃん?」


「……皆さん、泰子さんの恋人は五十代の男性でした。真綿さんは四十代ですが、彼らのような中年以降の方で時々、信号機の青色のことを緑と言うのをご存じでしょうか?」

 それって、真綿じゃん。いつも言い間違ってる。

「実はその現象と同じなんです。泰子さんの恋人は、言い間違ったのではない。実際にそう。青信号はに、グレーはに見えていたんです」

 真綿がおかしな顔をして、首を傾げた。伊織はそのまま話を続ける。

「これは目の老化のひとつなんです。目の青い細胞が減って青系の色が認識しにくくなり、黄みを強く感じるようになるんですよ」

 眉間にしわを寄せた真綿が、伊織を二度見した。


「だから、夏絵さんが着てたグレーのワンピースのことをトープって言ったのね! グレーが黄みがかって見えたんだわ。奈美さんのベージュの服では、そうならない」

「はい。礼美さん、その通りです。トープ色の服の女。あの男は自分の欲望の捌け口として、夏絵さんに照準を合わせたんだ」

 ユウがサイドテーブルにあった資料を、思わず手で払った。それは荒ぶる激情を癒やすには、ほど遠い行為だった。

「泰子さんはたぶん、自分の恋人が、夏絵さんをレイプしたことを何らかの形で知ったんだと思います。……きっと、あの夏の事件の動機、犯行のきっかけは、それも強くあったんじゃないでしょうか。自分の恋人が、琥珀さんの大切な妹を傷つけてしまった。泰子さんはひとり悩み苦しんで、恋人の殺害計画に手を貸す充分な理由に位置付けたのです」

 伊織の意識がゾーンという最高の集中状態中に、過去の犯罪を絡ませた。それは私たちにも理解出来る、哀しい推理だった。


「泰子さんが、夏絵のために……そこまで」

 ユウが両手で顔を覆う。彼の心情は計り知れなかった。そして私たちも今、一昨年のあの夏の終わりに戻っていく。太陽は今よりももっと近かった。ギラギラと地上にその膨大なチカラを見せつける。

 私たちの汗、涙、そして蜃気楼。

 まぶたをぎったのは、悪夢のように息苦しい闇だった。黙り込む過去の犯罪たち。

 途方もない闇を振り切り、伊織は顔を上げた。

「琥珀さん、もし僕の仮説が間違っていたらおっしゃって下さい。あの赤いナイトガウンの女性は、……ですね」

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