こんにちは。

菜美史郎

第1話 プロローグ

 「こんにちは」

 小学五年生くらいの自転車に乗った少年に

突然町の図書館を出たところで大きな声であ

いさつされ、山本文雄はうろたえてしまった。

 その少年にとって山本は見ず知らずの人間

のはずである。

 それにもかかわらず笑顔で言葉をかけてく

れた。

 こんなおいぼれになんぞ、よくも・・・・・・。

 彼をいとしく思う気持ちが山本の心の中で

高まってくる。

 その気持ちをどう処理すればいいかわから

ず戸惑ってしまった。

 できるものならかけより、彼を抱きしめたいく

らいである。

 だがそうもいかない。

 山本は町営アパートでひとりで暮らしている。

 偏屈な性格がわざわいし隣近所との付き合

いもままならない。

 久しぶりにぬくもりのある言葉を投げかけら

れたと思うと嬉しくてたまらないのである。

 山本のためらいがわかるのだろう。

 その少年はまだペダルをこぎださない。

 よおし、それじゃと山本は心を決め、思いき

りの笑顔をつくってから人工の歯ばかりが多

くなった口を大きく開けた。

 「こんにちは」

 と、やっとの思いで答えた。

 「うっ、うん」

 かぼそい声で答えた少年の顔色がいくらか

青白くなったのを山本は見逃さなかった。

 最近子どもが凶悪犯罪に巻き込まれる事件

が多発しているらしい。

 学校や家庭で知らない人にはついて行って

はいけませんと彼らが言い聞かされているの

が山本の耳にもうすうす入っていた。

 「ぼっぼうや。おじさんはべつに・・・・・・」

 キャップをかぶった小さな頭を前に向け、尻

を高く持ち上げるとペダルをぎゅっぎゅっとこ

ぎはじめた少年の背中に声をかけた。

 だが彼は停まらない。

 しだいに全速力になった。

 このまま彼を行かしては大変なことになりそ

うだと思った山本は走りだした。

 「変なおじいさんに追いかけられています」

 と彼が誰かに訴えたらと思うとどうしていい

かわからない。

 山本はめったに全力で走ったことがない。

 血圧が高く、かかりつけのお医者さまに薬を

処方されているのである。

 だが今はそんなことを言ってられない。

 弱くなった心臓がバクバクするのもかまわず、

ぜいぜい言いながらかけにかけた。

 「ぼうや、おうちはどこなの」

 高層マンションが林立する団地の中の最初

の四つ角で、山本は悲鳴に近い声で少年に

呼びかけたつもりだった。

 ガッツン。

 パワーショベルでからだの右半分をぶんなぐ

られたような衝撃を覚えた。

 山本の身体はふわりと宙に舞った。

 急速に失われて行く意識の中で今度からは

子どもになんぞ絶対に・・・・・・と思うのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

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