77

 ーー翌朝、神戸の街を散策し俺は新幹線に乗り込む。鈴蘭の幻影は俺を解放してはくれなかった。


 休暇を取っていた俺は、そのまま都内のマンションに戻った。


 コートのポケットから鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込む。その時、背後からコツコツとハイヒールの音が響いた。


 それは規則的なリズムを刻み、俺に近付いてくる。聞き覚えのある靴音。俺はドアに向けていた視線を後方に向けた。


 ……俺の目に映ったのは、赤いハイヒール。


 あの日と同じ、赤いハイヒール……。


 俺はゆっくりと顔を持ち上げた。


「……百合子さん」


「お久しぶりね。朝帰り?相変わらずお盛んなこと」


「どうして君がここに……?君が……鈴蘭なのか?」


「私が鈴蘭?何言ってるの?私はその名前をどうしてあなたが知っているのか、確かめたくてここに来たのよ」


「確かめたくて?」


「外は寒いわ。いつまで外に立たせる気。部屋に入れてくれないの?」


 百合子の爪には赤いマニキュアが光る。


 けれど、メイクはあの日とは異なる。

 いつもの百合子だ。


「こんなところでもよければ、中に入れば」


「お邪魔するわ。ああ、寒い」


 百合子は大袈裟に声を上げ、コートの襟を立てる。百合子に急かされるまま、俺は部屋のドアを開いた。


 百合子は玄関で赤いハイヒールを脱ぎ捨て、室内を興味深く見渡した。


「いかにも男の一人暮らしって感じ。色気のない部屋ね。彼女がコーディネートしてくれないの?」


 俺はエアコンのスイッチを入れる。カーテンはブラウン、リサイクルショップで購入したソファーも小さなダイニングセットもブラウン、機能的であればデザインは必要ない。華やかな装飾品も色彩豊かな絵画も何一つない。確かに味気ない部屋だ。


「彼女なんていないよ。部屋が暖まるまで寒いけど、少し我慢して」


「本当に寒いわね。それに狭い部屋だこと。地下室よりも狭いなんてありえないわ」


「俺には十分過ぎるくらい広い部屋だよ。ブーブー言ってないでソファーに座れば。中古だから座り心地はイマイチだけどな」


「中古!?誰が使用していたのかわからないソファーに座れですって?ありえないありえない。どうしてこんな貧しい生活を続けるの?桜乃宮の屋敷に戻れば贅沢な暮らしが出来るのよ。あなたにはその資格があるのに、どうして片意地張るの」


「それは……」


 俺はマグカップにインスタント珈琲の粉末を入れお湯を注ぐ。


 白いマグカップを百合子に差し出し、黒いマグカップを手にしたままソファーに座る。


「インスタントだから口に合わないだろうけど、体が温まるから飲めよ」


「インスタントなんて口に合わないけれど、寒いからいただくわ」


 百合子は憎まれ口を叩きながら、マグカップを両手で持ちコーヒーを口にした。


「それよりも、屋敷を去る前に言ったセリフはどういう意図があるのか説明しなさいよ」


「鈴蘭のことか?百合子さんが鈴蘭だからここに来たのだと思ったけど、そうではなさそうだね。確かに鈴蘭はロングヘアーで、もっと女らしかったけどな」


「それ、どういう意味?私に喧嘩売ってるの?私もロングヘアーだったわ。クリスマスイブに髪を切ったの。それが鈴蘭と何か関係あるの?」


「いや、百合子さんが鈴蘭でないのなら、別にいいんだ。君に話す事じゃない」


 百合子が鈴蘭でないのなら、やはり鈴蘭は蘭子……。


 蘭子ならもうあんな馬鹿な真似はしないだろう。何故なら、松平さんが傍にいるのだから。

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