62
「木村さん、お帰りなさい」
社長を見送り振り向くと、そこには百合子が立っていた。百合子の口調はいつもより心なしか柔らかい。
百合子と病室でキスを交わした俺は、自然とその唇に視線が向く。
「みんな……あなたの帰りをダイニングルームで待ってるわ。さっきの方、勤務先の社長さんでしょう。盗まれたお金が戻ってきたのね」
「ああ、これが俺の全財産だよ」
「この屋敷を……出て行くの?」
「大至急アパートを探すよ。条件に合う物件が見つかるまでもう少し居てもいいかな?」
「……お家賃はいただいてるわ。……行かないで」
「えっ?」
百合子の意外な言葉に、俺は驚きを隠せない。
百合子が俺を引き留めるなんて、信じられなかったから。
「百合子さんどうしたの?らしくないな」
「そうだよね。今のはウソ。アンタが出て行くなら、清々するよ」
「だろうな」
俺は苦笑しながら、百合子とダイニングルームへ行く。
ダイニングルームのドアを開けると、そこには蘭子と向日葵、菊さんと松平さんが勢揃いしていた。
「木村さん、退院おめでとう。大変だったわね。まだ傷は痛む?」
菊さんは悪戯っ子みたいに、コチョコチョと俺の腹部を触った。くすぐったくて身を捩ると傷口がズキンと痛む。
「痛ぁーっ」
「あらやだ。まだ痛むのね。ごめんなさい」
菊さんは舌をペロッと出し肩を竦めた。
「菊さん、勘弁して下さいよ。笑ったら傷口開いちゃいますよ。せっかく退院したのに、病院に出戻りだよ」
俺と菊さんのやり取りに、向日葵がクスリと笑った。
菊さんのお陰で、その場の空気が和む。
向日葵の笑顔を見て、俺の役目は終わった気がした。
「木村さん、盗まれたお金が戻ったそうね」
「はい。新しいアパートが見つかり次第引っ越します。この家には松平さんもいるし、メイドさんも警備員もいます。もう俺は必要ないでしょう」
蘭子と百合子が顔を見合わせた。
蘭子ならあっさり承諾するはずだ。
「そうね。家政夫はもう必要ないわ。でも二十四日までいていいのよ。お家賃は一ヶ月分頂いているのだから。その間、しっかり静養すればいいわ」
まさか、蘭子の口からそのような返答があるとは思わなかった。桜乃宮家の温情に頭が下がる。
「蘭子さん、お気遣いありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
俺はみんなに一礼し、ダイニングルームを出ようとした。
「木村さん、お待ちなさいな」
菊さんの声に、俺は振り向く。
「木村さんはこのお屋敷から出て行かなくてもいいのよ。あなたはここに住む権利があるの」
「ここに住む権利?菊さん、それは家賃の事ですか?それなら蘭子さんのお言葉に甘えて、二十四日までお世話になるつもりです。それまでに引っ越し先を決めますから」
「お家賃……そうね。それだけではないのよ。あなたはこの屋敷に住むべき人なの」
菊さんは真剣な表情で俺を見つめた。
「……それって、家政夫の契約を継続するという意味でしょうか?菊さんがお望みなら、契約を更新しますが……。でも、もう俺なんか必要ないですよね」
菊さんは若干苛つきながら、俺の背中を叩く。
「ああ焦れったい。木村さん、突っ立っていないで椅子にお座りなさい。松平さん、あなたは席を外してくださる?」
「はい、畏まりました。廊下で待機しておりますので、御用があれば何なりとお申し付け下さい」
松平さんは一礼すると、ダイニングルームから出て行った。
信頼出来る松平さんにも聞かれたくない話なのか?一体何ごとだよ?
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