秋の桜に恋をした

つせうよし

秋の桜に恋をした

 精霊。それは草木、動物、人、無生物、人工物などのひとつひとつに宿っていると言われる自然的な存在。人類が創造した空想上の存在。

 遠方に目を向ける。凛としたひうち灘が空の色を映し出す。打ち寄せるさざ波は、日本海や太平洋とはまた違った、おしとやかな印象を与える。

 そのすぐ近くには煙突が見える。それは特に変わった様子も無く、ただひたすらに煙を噴射し続けている。街のどこからでも見ることができるその大きな筒は、紙のまち、四国中央の象徴とも言える。

 僕が、そんな自然と人工物が美しい調和を保ちながら混在するこの街を、見下ろしながら上るのは、悠然と大胆にそびえ立つ四国山脈の一角だ。距離にして約十キロの山道を、十二段変速ギア付きの自転車で、息を切らしながら駆け上がる。

 六時間ほどかけて辿り着いたのは翠波すいは高原。そこは街一番の花の名所として知られている。僕は日曜日になるといつもここを訪れる。

 晩夏のこの時期、高原は早咲きのコスモスで彩られる。僕はいつものように、そんなコスモスの隣に寝転がり、そっと目を閉じる。そうすることで、嫌な現実が少しだけ美しいもののように感じられる。

 眠気を誘うような絶妙な気温。僕はいつの間にかうつらうつらしていた。

 すると突然、体を何かが触った。

「お~い。お~い。大丈夫ですかぁ。お~い。お~い」

聞き慣れない癖のある声。可憐でありながら芯の通った音。

 僕はまぶたを開いた。そこには桃色の髪をした女性がこちらを見つめるように座っている。年齢は僕と同じ高校生くらいに思われる。

「何してるんですか? 奇人ですか? 変人ですか? 狂人ですか?」

意表を突かれた。初対面の相手にいきなり変人呼ばわりされることなど、ノミ一匹分も予想していなかった。

「いえいえ。僕は奇人でも、変人でも、狂人でもなく、ごく一般的な高校生、向井山むかいさんと申します。あなたの方こそ、出会ってそうそう罵倒するとは変人ですか?」

僕は最大限の嫌味を込めて言葉を打ち返した。

「ぬぉ。私、それはダメだと思うな。初対面の相手に対していきなり悪口を言うのは無礼千万と言うものだよ」

彼女は自分の事を棚に上げ、白々しい口調でそう返す。

「いや……。君にだけは言われたくないんだが」

「ふふっ」

彼女は少しだけ微笑えんだ。

「それはそうと、僕に何か用?」

「別に。私があなたなんかに用事があるはずないでしょ。ただ、サンが一人寂しそうにしていたから仕方なく話しかけてあげただけだからね」

「へぇ。そうなんだ。ってか、いきなり呼び捨てかよ。まあいいけど。ところで、君の名前は?」

「名前かぁ……。じゃあ私の名前はビピンナタス」

「へぇ。珍しい名前だな……。ってそんなわけないだろ。からかってるのか」

「ふふっ。ないしょ」

彼女はそう言い、僕に向かって手を差し出す。

「ほら。何してるの。早く立って」

「えっ。何で」

「いいから。早く」

彼女は強引に僕の手を引っ張った。揺れる髪の毛からは、心や雰囲気といったもののような曖昧な香りがした。

 僕たちは二人並んで高原を歩いた。

「ねぇねぇ、サン。何か私をわくわくさせるような面白い話をしてちょうだい」

僕もたいがいだが彼女はそれ以上に礼儀というものをわきまえていない。まだ数回のやり取りしか交わしていない相手に対してここまで上からものを言えるだろうか。

 しかし僕も男の端くれだ。女の子の頼みを聞かないわけにはいかなかった。仕方なく僕は女子高生が好みそうな恋のおまじないの話をしてやった。その内容は至ってシンプルで、花に自分の髪の毛を結び付けて置き、その葉の裏に好きな人の名前を書いておく。その花が枯れるまで髪の毛が残っていれば恋が叶うというものだ。

「それって本数は関係ないの?」

「一本でいいんじゃないかな。たくさん結んでおいてもマイナスにはならないだろうけど」

「へぇ。私なら千本くらいは結んでおくけどなぁ。そっちの方が効果ありそうだし」

 会話は思いのほか弾んだ。時間は光のごとく素早く過ぎ去り、ついに日は水平線に沈もうとしていた。

「俺、もう帰るよ」

「何かっこつけてるの。意味わかんない。ナルシストなの?」

「相変わらずだな……。あのさ、連絡先だけでも教えてくれないか?」

「連絡先……か。それはできない相談だな」

「えっ。何で」

「どうしても。でもサンがもし明日もここに来てくれるなら、お話ぐらいしてあげてもいいわよ」

「明日じゃなきゃダメか? 明日はあいにく予定が入ってるんだが」

「ダメ」

「どうして?」

「どうしても。私には時間が無いの」

 次の日、僕は学校をさぼり、高原へと向かった。再び会えるのかという不安に駆られながら。しかし、そんな不安をよそに、彼女は屈託のない笑顔で迎えてくれた。

 僕は次の日もその次の日も高原へと向かった。彼女もまた毎日現れ、様々な会話を交わした。

日を重ねるごとに、僕は自分の心が変化していくことに気がついた。それは太陽が昇るようにゆっくりと、しかし昼と夜ほどはっきりとした変化だった。

僕たちの会話は少しずつ、しどろもどろになっていった。出会った当初はすらすらと出てきた言葉が今では全く思い浮かばない。彼女もまた、僕と同じような様子だった。

初めて出会った日からちょうど二週間経った日曜日、彼女は姿を現さなかった。次の日も。そしてその次の日も。

僕は途方に暮れた。言い表しようのない喪失感に襲われた。二週間前には満開だったコスモスの花も、大半は枯れ落ちていた。僕は体を横にして目を閉じた。そうすればまた彼女が戻ってくるような気がした。ツンデレな口調で。純粋な笑顔で。

僕はまぶたを開き、隣を見た。すると視界には花に結び付けられた桃色で千本は下らない髪の毛の束が飛び込んできた。その葉の裏には「山」の文字が書いてあった。僕はなぜか泣いていた。

それから僕は一度も彼女に会っていない。それは、夏の終わりの儚い思い出。

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