044 殺意

 イルスはその一夜、一向に襲ってこない眠気を待ちながら、学寮の部屋の明かりも灯さない窓辺で、退屈な時を過ごした。

 一晩中開け放っていた窓からは、山の夜に冷やされた空気が、巨大な蛇がのたうつように、ひっそりと忍びこみ、静まり返った居間にとぐろを巻いて、暖炉の炎と目に見えない争いを続けていた。

 故郷の海辺ではまだ、真夜中すぎの時刻でも、むっとするような熱気が街を包み込んでいるはずだ。なのにこの土地では、すでに真冬のような寒さ。遠くヘ来たのだと、イルスは改めて実感した。

 夜気がかすかに肌を刺すようだったが、わざわざ開けた窓を再び閉めるのは、そこはかとなく癪にさわった。それに、昼間ひさびさに暴れまわったので、体中の筋肉が戦いの残滓に浮かれたように熱を持っている。いくらか冷やされるくらいが、ちょうどいい。

 首をたおして見上げると、星々の位置も、故郷で眺めるものとは幾分違っているようだった。ここでも変わらないのは、天の北極に輝く鮮やかな星、「竜の眼(アズガン・ルー)」だけだ。

 そういえば、と、イルスは思い出した。スィグルはあの星のことを、別の名で呼んでいた。なんという呼び名だったか、どうしても思い出せなかった。

 ぼんやりと、異民族のつけた別の名前のことを考えながら星を見上げ、まんじりともせずに窓辺に座っていると、東のほうから淡い光が射しはじめた。

 イルスは針葉樹の森のはるか上にあり、いまにも朝の光に呑まれようとしている幽かな星を見つけた。

 あの星の呼び名は、明けの明星(ヨランダ)というのだ。

 星は、みる間に押し寄せる朝日に追いつかれ、溶け入るように消えていった。

 イルスは黙って、それを見つめていた。

 そのまま白む空を見つめていると、妙なものがやって来た。朝の太陽を点々と覆い隠す、無数の白い影の群れだ。

 

 最初の白い影は、淡い青に輝き始めた空を、真っ二つに切り裂くように現れた。

 イルスはそれを、ただの目の錯覚だろうと思った。あるいは、夜明けの空にまぎれた流星でも見つけたのか。

 だが、はじめ一つ二つだった白い影は、みるみる大きな群へと育っていった。短く甲高いさえずりをふりまき、群はまっしぐらに南を目指している。

 鳥だ。低い唸りを立てて激しく羽ばたく鳥の群。

 日の光のなかをよぎっていくものの姿を、イルスは窓から身を乗り出して確かめた。東からの朝日にまばゆく照らされ、ものすごい速さで飛び去っていく鳥たちは、まるでそれ自身が光り輝いているように、あざやかな白をしている。

 行き過ぎる白い影の速度は、まともに出くわせば、体を突き抜けていくのではないかというほどの、猛烈な速さだ。いったいどんな翼で飛べば、あれほどの速さが出せるのか。

 イルスはわけもなく楽しい気分になり、はるか上空から急降下したり、また飛び上がっていったりする白い小さな姿を目で追ってみた。

 まるで追いつけない。

 きょろきょろと目を動かしながら、イルスは思わず微笑した。

 ひとつひとつの白い姿は、ほんの一瞬のうちに学院の上空を通り過ぎて行く。窓枠に腰掛け、針葉樹の鬱蒼としげる森を背に、イルスは灰色の岩肌をさらす峰々の向こうに目をこらした。朝日のさす山の向こう側から次々と生まれでるように、鳥たちの姿は尽きることなく現れる。

 朝日が昇りきり、あたりが明るくなるころには、群はトルレッキオ学院の空を覆いつくすほどの大群になった。さえずる声が寄り合わさって、猛烈な騒音になっている。

 上から叩き付ける音の雨だ。

「うるさくて眠れないよ!」

 大声で文句を言われて、イルスは部屋の中をふりかえった。

 白いリネンの寝間着を着て、長い黒髪を振り乱したままの姿で、スィグルが居間に立っている。

 イルスはぽかんとして、スィグルの顔を見つめた。

 昨夜、ぽつりぽつりと言葉を交わしたあと、スィグルは疲れたと言って自分の寝室に眠りにいった。そのときも、スィグルは十分にくたびれた表情をしていたが、今はあの時以上だ。イルスは相棒の白い目元に浮いた、無惨な隈(くま)を眺めた。

 なにか応えたほうがよいのだろうと思ったが、一晩中黙り込んでいたせいか、適当な言葉が浮かんで来ない。

「うるさいんだよ!」

 ぽかんと黙ったままでいるイルスに苛立った様子で、スィグルは一、ニ歩前に踏み出した。肩をいからせ不満げな顔をして、イルスが開けはなった窓を指さす。

「ひとが寝てるっていうのに、朝っぱらからピィピィピィピィ…いったいどうなってるんだよ!?」

 本気で怒っているらしい同居人を眺めて、イルスは笑いをかみ殺した。

「丸太を枕に眠ってる山の野蛮人どもにはわからないだろうけど、僕は眠りが浅いんだよ。静かにしてくれないと眠れないんだ!!」

 スィグルはそのまま、ひとしきりわめき続けた。

 空を埋め尽くす鳥の声よりも、文句をいう同居人のほうが、よほどうるさい。

 思いつくかぎりの暴言をひとしきり吐くと、スィグルは虚ろな目つきで居間の長椅子に横になり、丸くなって眠り込んだ。

 眠れないんじゃなかったのか。

 イルスは不思議に思ったが、口をきくのが面倒くさく、明け方になってやっと眠れたらしい黒エルフの少年を、そのまま放って置いてやることにした。

 また一夜が明けた。また1日分、自分は死(ヴィーダ)に近づいた。

 だが今日は、それを虚しいと感じない。

 今日は昨日とはまた別の、今日限りの出来事が起こるに違いない。それを生きるために、この日が巡ってきたのだ。ただそれだけを見つめていれば充分だという気がした。

 イルスは窓枠からひょいと飛び降り、冷えて固まった肩をほぐしながら、居間を横切って自分の寝室に着替えに向かった。

 今朝は、シェルとの約束で、シュレーに料理をおしえてやることになっている。

 昨夜の癇癪を思い出すと、シュレーがおとなしく付いてくるのかどうか怪しいものだ。

 だが、腹を立ててわめき散らすような天使なら、朝になって腹を空かすのも人並みだろう。生きているかぎり、人は飯を食わねばならない。

 居間から出る扉の取っ手に手をかけたまま、イルスは長椅子で眠っているスィグルをふりかえった。

 扉の音で目をさますような、やわな眠り方には見えない。

 笑い声を押し殺しながら、イルスは薄ぐらい廊下に体をすべりこませた。

 着替えてシェルを迎えにいってやろう。

 あの森エルフが、スィグルのように寝起きの悪いほうでなければいいが。

 そう思いめぐらしながら顔を洗い、学院の制服に袖を通すと、袖が足りないような気がした。

 昨日は手首を覆うところまで、絹の袖があったはずだ。腕をのばし、布地の長さを確かめてみて、イルスは首をかしげた。やはり少しばかり短いようだ。

 袖が一晩で縮むとは考えにくい。イルスの腕が伸びたのだ。

 体が熱い。

 イルスはぼんやりと思った。

 全身の関節が軋むような感覚がある。体に力がみなぎっている。何か別のものに作り替えられているような気分だ。

 鈍い痛みをそこはかとなく感じるが、いやな感覚ではなかった。

 喉が乾き、腹が減っているが、まる一夜、一睡もしていないとは信じられないほど、気分が良かった。

 髪を濡らし、手櫛で撫でつけると、かすかに甘い花のような匂いが感じられた。故郷の海辺でかいだのと、同じ匂い。アルマの芳香だ。

 自分は大人になろうとしている。

 額冠(ティアラ)の位置を確かめるために鏡を見つめると、期待していたよりも子供っぽい顔の自分が見つめ返してきた。イルスは首をかしげ、自分の目をのぞき込んだ。青い瞳は故郷の海の色と同じだった。そこには迷いが感じられない。

 好敵手(ウランバ)を見つけたからだ、とイルスは思った。

 不足なものは何もない。恐ろしいものも、何もなかった。同盟のことも、父より優れた剣士になることも、故郷にのこしてきた諸々の物思いも、なにもかも全てがどうでも良かった。挑戦(ヴィーララー)は受け入れられた。あとはどちらがより強いかを、確かめればいいだけだ。

 戦いに敗れて命を奪われることを想像しても、イルスは恐怖を感じなかった。命がけで戦うことを思うと、ただひたすら血が騒いだ。敗れ去って殺されるとしても、自分に勝る技量によって蹂躙されるなら本望だろう。

 一片の悔いもないところまで戦い尽くせば、そのことを自分は誇りに思うだろう。好敵手(ウランバ)の剣の速さと鋭さを思うと、胸の奥が焼けただれるような熱い想いがした。利き腕の指に痺れるような陶酔が生まれる。

 剣を帯びる前に、イルスは懐かしい故郷の文様で飾りたてられた鞘から、愛用の長剣を引き抜いてみた。指になじむ柄の感覚が快い。重い刀身は、青白く鈍い光をたたえた銀色の水面のようだ。

 だが、刃にはいくらか刃こぼれがあった。

 使い古してなまくらになった剣を鍛え治すために、鍛冶師を探さねばならない。学院にもちゃんと、鍛冶師を擁した炉があるだろうか。

 一突きで心臓を刺し貫くほどの、鋭い切っ先が必要だ。

 好敵手(ウランバ)の息の根を止めるために。

 イルスはこれまでの人生で、自分の剣で人を傷つけたいと思ったことは一度もなかった。剣の技を鍛え、部族の勇者と認められるほどの使い手になりたいとは常日頃望んできたが、それは誰かを傷つけるためではない。むしろ何も傷つけないように、気をくばってきたように思える。

 だが今は違う。イルスは、これまでなら自分でも不愉快に思ったにちがいない感覚を、ごく自然なものとして受け入れていた。剣を握る利き腕に受ける、獲物の心臓を突く手応え。今まで一度も味わったことのないそれを、イルスは欲しがっていた。

 死(ヴィーダ)にあらがう気力もなく、身をゆだねようとする異民族の女の心臓を。

 あの女が見つめているのは、死(ヴィーダ)だけだ。イルスを間近にしていても、ヨランダは凍り付くような死(ヴィーダ)の暗黒の瞳と、うっとりと見つめあっていた。

 死を恐れながら、それに向かって歩いていくヨランダの足どりは、まったく淀みがないように思えた。暗い世界の果てを目指して、まっしぐらに歩いている。

 その女を引き留めて、振り向かせ、ひと思いに。

 剣を勢い良く鞘にもどすと、金属のこすれあう硬質な鞘鳴りが聞こえた。鍔(つば)があげるカチンという音色を聞き、イルスは軽くため息をついた。

 ヨランダがどこにいるのかすら知らない。

 自分は馬鹿だ、とイルスは微笑した。

 そして、シェルを迎えにいくために、自分の部屋を出ていった。

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