036 小さな同盟

 寝静まった暗い廊下を行く間、シェルは一言も口をきかなかった。

 とぼとぼと鈍色(にびいろ)の絨毯を踏んで行く森エルフの少年の小さな背中を見下ろしながら、イルスはそれを押してやるような気分で歩いた。眠気のせいか、シェルの足取りはひどくゆっくりしていて、気を使って歩かないと、イルスはすぐにそれを追い越してしまいそうだった。

 淡い色合いの華やかな民族衣装で着飾っていても、シェルは鉛の錘(おもり)を引いて歩くように惨めな後姿をしている。この少年を落ち込ませているのが何なのか、イルスには不思議だった。シェルにとっても、この日は大変な一日だっただろうが、戦いには勝ち、シュレーの命も助けてやれた。彼には落ち込む必要などないはずだ。

 小ぶりな頭や、幼子のように華奢な作りの関節の影が、シェルを必要以上に子供っぽく見せている。眠たげに歩みを運ぶ足取りも、まるで初めて歩くことを知った子供のようだ。イルスが知っている森エルフは、シェルだけだったが、同族に比べても、シェルが貧弱な発育しかしていないことは、漠然と察しがつく。

 森エルフたちは、優雅なことを好む部族だと聞いているが、決して弱々しい連中ではない。海エルフ族は長大な国境線を、この森の部族と接しており、過去に何度も彼らと戦っている。

 海エルフは獰猛だとして知られる部族だが、自分達のほうから侵略したことなど、実際には、ほとんどない。戦端はいつも森の部族の侵入によって開かれてきた。森エルフたちは、彼らが守護生物(トゥラシェ)と呼ぶ、見上げるような大きさをした生き物を連れて現れ、それを使役して、領境を侵す。

 連中は自分の手を汚すことなく、巨大な生き物をけしかけて、海エルフの兵を踏み潰し、食い殺させるのだという。その恐ろしさは、戦地からはるかに遠い海岸付近まで、生々しく聞こえていた。イルスが修行をしていたあたりの鄙(ひな)びた漁村でも、聞き分けのない子は、森のトゥラシェに食わせるよと、親が子供を叱る時の話の種にするほどだ。

 森エルフたちは、エルフ諸族のなかでも、どこにもひけをとらないぐらいには獰猛だ。戦うのがいやだと言うような、情けないみそっかすでは、シェルは故郷でもさぞかし馬鹿にされただろう。

 しかし、イルスはシェルを馬鹿にする気はなかった。いかにも腕っ節の弱い奴ではあるが、泣きながら走って行く姿には、どこかしら気丈な気配が感じられた。ただ単なる臆病心から、戦いを嫌っているわけではないだろう。たぶん、この軟弱な少年は、世間を知らず、いくらか心根が優しすぎるのだと、イルスは思った。

 廊下の折れ曲がる場所にある階段の前で、シェルがふと立ち止まった。広く入り組んでいる学寮の建物の中で、シェルが居室を与えられている棟と、イルスが住む場所は、別の棟に分かれており、この階段から別の方向へ行かねばならない。

 ここから階段をあがるイルスに別れを言うために立ち止まったのだろうが、シェルはこちらに背をむけたまま、しょんぼりと黙り込んだままだった。

「…帰って寝ろ」

 イルスは、シェルの背中を叩いて言い、軽い足取りで階段を数段駆け上がった。

「おやすみなさい」

 ぼんやりと答える声に、イルスが足を止め、振り向いて眺めると、シェルがのろのろと歩きはじめるところだった。

 イルスはそれを、黙って見送っていた。だが、シェルが階段の入り口から見えるあたりを横切り、その姿が見えなくなってしまうと、わけもなく彼のことが心配になった。

 軽くため息をついてから、イルスは登りかけていた階段をかけおりた。

 イルスがひょいと覗いてみると、薄暗い廊下を歩いていくシェルの背中は、彼の部屋があるはずの方向とは、まるで反対のほうへと進んでいっていた。

「おい! お前の部屋はそっちじゃないだろ?」

 道に迷っているのではないかと思い、イルスはシェルに呼びかけた。

 角を曲がりかけていたシェルが、おどろいて振り向き、立ちすくむ気配を見せる。

「どこへ行くんだよ。あんまりウロウロするな。ここはお前の部族の庭じゃない。なにがあるか、わからないんだぞ」

 イルスが忠告すると、シェルはごそごそと袖口をさぐり、ゆったりとした袖のなかから、小さな包みを取り出してイルスに示した。

「これを持って行くんです……」

「なんだ、それ?」

 言い訳めいた言葉の響きに、イルスは首をかしげた。

「角砂糖、です」

 気まずそうに言うシェルの言葉を、イルスは理解できなかった。

「そんなもん、どうする気だ?」

「馬に食べさせるんです」

 イルスは、説明を聞かなければよかったと思った。シェルの言うことは、聞けば聞くほど訳がわからない。

「あの……イルス、もうちょっと付き合ってもらってもいいですか」

 済まなそうに上目遣いになるシェルを眺めて、イルスは首をかしげた。

「話したいことが……」

 眉間に淡くしわ寄せて、シェルがうつむいた。



  * * * * * *



 月明かりだけを頼りに歩く夜の中には、人の気配もなく、学院が寝静まっている気配がした。

 シェルが忍びこんだ先は、学院の厩(うまや)だった。うろうろと遠い声を探すようにさまよった挙句、やたらと遠回りをして、学寮から外れたところにある石造りの建物に辿りついた。

 木で作られた観音開きの扉から、一抱えもある閂(かんぬき)を外して、シェルはこっそりと厩の中に入っていった。ついてきた手前、今更自分だけ帰るわけにもいかず、イルスはシェルの背中を追って、のろのろと厩の敷居をまたいだ。

 飼い葉と馬の匂いのする薄闇を目で探ると、木の柵で細かく区切られた囲いの中に、ずらりと軍馬が並んでいた。模擬戦闘で使われていた馬たちだ。イルスたちが入ってきたのに気づいた馬たちは、神経質そうに耳をパタパタと震わせてみたり、大鋸屑(おがくず)を敷き詰めてある厩の地面を、良く手入れされた蹄(ひづめ)で引っかいたりしている。

 見なれない顔がやってきたことに、馬たちは動揺しているようだった。馬丁を呼ぼうとして嘶(いなな)き始める馬の首を、シェルが駆け寄って撫でてやっている。すると、馬たちは、ふと気がそれたように大人しくなった。

「すごいな、お前。馬の扱いに慣れてる」

 イルスは感心して、小声でシェルを誉めた。鼻面を摺り寄せてくる馬の首を抱き、シェルは楽しそうにしている。

「馬は賢いから、説明したら、何でもちゃんと分かってくれます」

「お前、馬の言葉までわかるのか?」

 イルスがあっけにとられて言うと、シェルは笑いながら首を横に振った。

「馬は言葉なんて持ってないですけど、心は通じるんです」

 シェルは袖口に隠していた包みから、角砂糖を取り出して、手のひらに乗せた。シェルがそれを馬の鼻先に持っていくと、馬は黙々とそれを食べた。栗毛の馬の目は、黒々と澄んでおり、濡れた黒大理石のように美しかった。

「お前…俺がメシを作ってる間に、厨房から砂糖をちょろまかしてきたんだな」

 イルスは半ば呆れた気分で言った。シェルが照れたように笑う。

「約束してたのを、思い出したんです。模擬戦闘が終わったら、角砂糖をあげるって、こいつと……」

 栗毛の馬がシェルに懐いて、そのしなやかな首で華奢な森エルフの少年の体を宙に放り上げた。シェルが驚いて笑い声を立てるのが、イルスにはとても不思議だった。言葉を話す連中といるよりも、シェルはこうして、ものを言わない生き物のそばにいるほうが、よほど寛(くつろ)いでいられるように見える。

「減ってた蹄鉄(ていてつ)は、新しいのに変えてもらえたんだね。よかったね」

 目を細めて馬にほお擦りし、シェルが嬉しそうに馬に話しかけている。

「今日は怖かっただろう。戦いなんて、いやだね」

 シェルが首をかしげて馬の目をのぞき込むと、栗毛の馬は、それに同意するように首をあげて小さく嘶(いなな)いた。

 厩の壁にもたれて、イルスはシェルが馬となにか囁き交わすのを眺めた。

 馬が心を許す者に悪いやつはいないと故郷の師匠が言っていたのを、イルスは思い出した。イルスが初めて馬に乗ろうとした時のことだ。

 師匠が飼っていた馬は、隣大陸から船で運ばれてきたという葦毛(あしげ)の馬で、とりたてて名馬というわけでもないくせに、気位が高く、鼻息が荒かった。鞍に乗ろうとすると、葦毛の馬は容赦なく暴れ、イルスを何度も浜辺の砂地に叩きつけた。

 イルスが腹を立てて、毎日飼い葉と水を運んでやっているのが誰かわかってるのかと悪態をつくと、師匠は、馬が抗うのは、お前が恐れているせいだとイルスを笑った。

 悔しかったが、確かにそうだった。蹄を踏み鳴らして歯をむくのが憎たらしく、怖くもあったのだ。

 結局、葦毛の馬は、一度もイルスを乗せてくれないまま、年老いて死んだ。師匠はその馬に、宵の明星(ヨルド)という名をつけていた。葦毛の馬の額に、白い点があったせいだ。

 真夏、月夜の厩にはむっとするような熱気が満ちており、師匠に命じられるままに、イルスは瀕死の馬の流す汗を柔らかい藁(わら)で拭いてやった。馬の汗には死の匂いが混ざっていた。イルスが馬の濡れた黒い目を覗き込むと、葦毛の馬も、じっとイルスを見つめ返してきた。死に行く馬の瞳は、とても静かだった。イルスはその時、自分が葦毛の馬の目を、はじめて見たのだと気づいた。こちらが見つめれば、抗いもせず、憎たらしく暴れもしないで、ただじっと見つめ返してくる。

 死んだ馬の肉を、師匠は近隣の里の者たちに振る舞った。イルスは、自分がありついた馬肉の味をおぼえている。老いて死んだだけのことはあり、たいして美味(うま)くはなかった。気位の高い葦毛は、ほんの一夜、海辺の村々の食卓を賑わし、それきりこの世から消えていった。

 死(ヴィーダ)。それは、この世界から消えるということだ。

 鬣(たてがみ)を梳(す)くシェルの指に目を細めている栗毛の馬を、イルスは手持ち無沙汰に眺めた。この馬も、ヨルドと同じ美しい黒い目をしている。のぞき込むと、あっけなく引きこまれて、それきり戻れなくなりそうな。

 あの女もそうだ。

 イルスは森の中で出くわした、毒殺師のことを思い巡らせた。

 あの敏腕。深い黒い瞳。燃えあがる炎のような赤い髪。熱い息。ヨランダ、明けの星、強い女(ウルバ・ウエラ)、あの女の汗にも死の匂いがした。乾いた土と枯れた草の匂いに混じった、女の甘い体臭の奥にあり、息をひそめてはいるが、それは、確かな足音でゆっくりと近づいてくる天敵の匂いのように、危険で、冷たい、異質な何かだ。

 あの女は、その足音が自分に追い付き、冷え切ったその手で不意に背を叩く前に、シュレーの息の根をとめて、自分の死出の旅路の水先をとらせようとしている。

「イルス」

 戸惑ったシェルの声にはっとして、イルスは自分がぼんやりしていたことに気づいた。

 顔をあげ、厩の壁にあずけていた背をおこすと、壁につるしてあった馬を手入れするための道具が、かたかたと小さく鳴った。

「話を聞いてもらってもいいですか」

 擦り寄ってくる馬の首を撫でながら、シェルはきゅうに、深刻な顔をした。

 イルスは黙ったまま頷いた。言葉を話すのが、いやに億劫だった。もともと、公用語で話すのは得意ではないが、ここ一日、いやに口が重い。

 馬を囲うための柵にもたれて、シェルは言葉を選ぶように押し黙ってから、思いきったように口を開いた。

「ライラル殿下の父上のことを、なにか知りませんか」

 言いにくそうに尋ねるシェルの顔を、イルスは少しの間、じっと見つめた。

「知らない」

 イルスは首を振った。

「あいつの親父は、部族を捨てて、神殿種の女と駆け落ちしたんだって、スィグルから聞いた」

 シェルがますます難しい顔をして押し黙る。

「そんなことがあったっていうのに、シュレーがなんで、山の族長になんてなれるのか、俺には納得がいかない」

「長子だからでしょう?」

 ぼんやりとした声で、シェルが戸惑ったように答えてきた。

「ライラル殿下の父上は、山エルフ族の先代の族長閣下の長子なんですよ。だから、その長子であるライラル殿下には、血筋からいくと、山エルフ族の族長位の第一継承権があるんです」

 シェルがしゃがみこんで、厩(うまや)の地面にしきつめてある大鋸屑(おがくず)を払いのけ、現れた砂地の上に、家系図を書いてみせた。公用語で書かれた文字を、イルスは注意深く読んだ。

 シュレーの父の名が、ヨアヒム・ティルマンというのだと、イルスは初めて知った。その妻であるルサリアという女の名に、シェルは「聖母」という言葉を書き添えている。その血筋をたどると、神聖神殿の長である、大神官の名が書き記されていた。

 イルスは思わずため息をついていた。シュレーが何者なのかを、今はじめて知ったような気がする。イルスの目の前をうろうろしている時は、シュレーは別段どうといった有り難味のない、普通の少年のように見えている。だが、彼は神殿種の血を引く、イルスよりも一段高い場所に住んでいる者なのだ。

 田舎の海辺には、めったに本物の神殿種は姿を見せず、神殿にいるのは現地で調達された準神官ばかりだったが、ごくたまに、海都の正神官が巡察のためにやってくることもあった。そのたびに、どんな辺境の村村までも白い羽根で飾り立て、神殿種の来臨を祝わねばならない。

 白い羽根をむしるため、海鳥をつかまえていくのは、海辺の子供達の手伝い仕事だった。師匠の庵に住んでいるイルスが、その仕事を言いつけられることはなかったが、近隣の里の子供らが浜辺にやってきて、海鳥をねらうのを何度か目にしたものだ。

 そうまでして飾り立てたところで、正神官が田舎の漁村の一つ一つを訪れることなどは、ありえないことだった。イルスが正神官を見たことがあるのは、一度きり、まだ海都に暮らしていた頃のことだ。

 洗礼名を与えられるため、父に連れられて神殿へ行った。誰よりも偉い英雄だと信じていた父が、軟弱そうな金髪の神官に平伏するのが、幼いイルスには信じられない出来事だった。ひょろりと背の高い金髪の神官は、見下すような醒めた目で、父ヘンリックを見下ろしていた。故郷の誰もが、英雄として称える族長を。

 だが、あの時の神官ですら、神聖神殿のなかでは、ごく下っ端にすぎなかったのだ。

 そしてシュレーは、その神聖神殿の階位の頂点付近にいる者だ。本来なら、簡単に口をきいていいような相手ではないのかもしれない。

 イルスは今ごろになってやっと、シュレーを怒らせたことを、ひどく気まずく思った。相手が何者か、頭ではわかっているつもりだったが、それを実感したことがなかったのだ。

「現職の山エルフ族族長である、ハルペグ・オルロイ閣下は、正式な山エルフ族の族長ではないことになります」

 幼さの残る高い声で、シェルは説明しはじめた。地面に描いた家系図を、真面目な顔つきで見下ろしているシェルを、イルスはぼんやりと眺めた。

「それぞれの部族の、部族長継承のための方法は、神聖神殿によって認められたものでないと駄目ですから、長子相続ということで代々額冠(ティアラ)を引き継いできている山エルフ族では、族長は長子でなければならないんです」

 砂に書いた系図の名前のいくつかを、シェルが輪で囲んだ。先代の山エルフ族族長、シュレーの父であるヨアヒム・ティルマン、そして、シュレー本人の3人だ。

「ほら、ライラル殿下が正統な継承者でしょう?」

 シェルが顔をあげ、イルスを見上げてくる。イルスは何度か軽く頷いてみせた。

「じゃあ……今の山の族長は、にせものってことか?」

 わけがわからず、イルスは顔をしかめた。

「そうじゃありません。ハルペグ・オルロイ閣下は、ちゃんと、神聖神殿から叙任を受けた族長です。ただ、正式じゃない族長だというだけです」

「わからねえ」

 きっぱりとイルスが言うと、シェルが鼻白んだ。

「ど…どうしてですか」

「なんでハッキリさせなかったんだ。どっちが本物の族長なのか。シュレーが継ぐのか、アルフが継ぐのか、ハッキリさせたほうがいいんじゃねえのか? 正式じゃない族長、なんて、納得できるか? 族長はどの部族にも、たった一人だけだ。そうじゃないと、誰が部族をまとめていくんだよ」

 イルスはいらいらしながら尋ねた。シェルが困ったように忙しなく瞬きした。

「だから……もう、はっきりしてるじゃないですか」

 指をからめて、もじもじしながら、シェルは言った。

「ライラル殿下が、正統な継承者なんです。だって、長子なんですから」

 シェルの言葉を聞いて、イルスはしばらく言葉を失っていた。つまり、シュレーはいずれ、山エルフ族の族長になろうとしている。考えてみれば、当たり前のことだ。そのための継承者なのだから。

 だが、イルスには、自分と同じ年恰好の少年が、いつか族長位につくのだということが、うまく納得できなかった。

「だったらなんで、山の連中はシュレーを殺そうとしてるんだ?」

 上ずった声で、イルスはシェルに問い掛けた。シェルの白い顔が、暗い表情でかげる。

「ライラル殿下が亡くなったら、長子相続の継承権は、現族長のハルペグ・オルロイ閣下に移ります。そうなれば、今の王統が正式なものになります」

「なるほどな……」

 イルスは深いため息をついた。

「いい考えだ……」

「そんなことありません」

 むっとしたように、シェルが応える。イルスは、シェルが自分の非人情な言葉をとがめたものと思って、苦笑した。

「ちがいます、そういう意味じゃあまりせん。ライラル殿下が気の毒だというだけじゃないんです」

 シェルが首を振ると、彼の長い金髪がふわふわと薄闇の中を漂った。

「領土内での神殿種の変死は、どんな事情があっても、その部族の罪として処罰されることになってるじゃないですか。知らないんですか?」

 必死の眼差しを向けて来るシェルを見下ろして、イルスはぽかんとした。知らなかった。

「処罰って?」

 イルスが臆面もなく尋ねると、シェルはうろたえたようにうめいて、あとずさった。

「……呪いです。滅ぼされるんです」

 小声で、シェルが説明した。

「神聖神殿が定めた、正式な掟です。実際に滅ぼされた部族なんて、いくらでもあります。どうやって滅ぼすのかは、僕は知らないし…たぶん、誰も知らないんだと思いますけど、神聖神殿は、一部族をまるごと滅亡させるための魔法か、なにか、そういったものを持っているんだと思います。神殿の人達は、それを、『呪い』と呼んでます」

「呪い?」

 イルスは、その言葉の不吉な響きに、顔をしかめた。わけもなく不安で、心がざわつく。

「呪いによって滅ぼされた部族は、どんな公文書からも存在を抹消されるので、実際になにが起こったのかは、ほとんど記録がのこっていません。わかっているのは、一度呪われると、1、2年ぐらいのすごく短い期間で、あっというまに血筋が絶えてしまうということです。生き残る部族民もいるみたいですが、神聖神殿は部族の名前も土地も、なにもかも無かったことにして奪ってしまうので……なにも残りません。ほとんど、なにも…」

「…ほとんど」

 イルスが鸚鵡(おうむ)返しに呟くと、シェルは大きな目をこちらに向けたまま、なにか大切なことを言いあぐねるように押し黙った。

「イルス、僕、考えたんですけど……」

 たっぷり迷った挙句、消え入りそうなほどひそめた声で、シェルは口火をきった。

「オルファン殿下は、そんな危険なことまでして、族長位を継ぎたいなんて思うものでしょうか」

 シェルの緑色の目が、ちらちらと不安げな動きで、あたりをうかがうように小刻みに揺れ動いている。

「おかしいですよ。神殿種に害意を抱くなんて……そんなこと。神殿種どうしの間でなら、ありうるかもしれないですけど。だから、あの……ライラル殿下を殺そうとしてるのは……も……もしかして……あの……」

「神殿の連中だって言いたいのか?」

 イルスが言いかけると、シェルが悲鳴を上げて跳びついてきて、イルスの口を塞いだ。あたりをうかがうシェルを、イルスはあっけに取られて眺めた。

「だめですよ、そんなこと、堂々と言ったりして。誰か聞いてたらどうするんですか」

 馬しか聞いてない、とイルスは内心で悪態をついた。

「馬だって、少しは人の言葉がわかるんですよ!」

 真面目な顔で、シェルが応えた。イルスはシェルが自分の心を読んでいることに驚き、シェルを突き放した。

「俺はなにも言ってないぞ!?」

 シェルはたじろいで、大きな目をイルスに向けた。

「すみません……感応力です。僕、人の心と、本当に話していることの区別が、うまくつかなくて……」

 混乱しているシェルの謝罪は、どこか上の空だった。

「ライラル殿下を守らないと、大変なことになります」

 緊張した目つきをして、シェルが震える声をだした。

「もし…もしもですよ。山エルフ族が滅亡しちゃったら、四部族(フォルト・フィア)の均衡が崩れます」

 シェルが泣きそうな顔をするので、イルスは眉をひそめた。

「今まで、良くも悪くも、僕らエルフ族は白系と黒系の二派に分かれて、それぞれが同盟関係にあるような状態でした。イルスの部族だって、黒エルフ族と同盟関係だったでしょう。森エルフ族にも、山の領土を侵さないっていう暗黙の了解があるんです」

 シェルの目から、盛りあがった涙がぽろぽろとこぼれはじめた。

「山エルフ族が消えたら、僕の部族は……黒エルフ族と海エルフ族に挟(はさ)み撃ちされて、滅亡しちゃうと思うんです。だから……だから、ライラル殿下には、生きていてもらわないと、困るんです」

 イルスから離れて、シェルは顔を覆った。

「僕……そんなこと考えてるんです。ライラル殿下のためを思ってるだけじゃないんです。それを…言っておかないとと思って……。僕、ライラル殿下にも、さっき、嘘を……」

 涙を振り払うように顔を上げ、シェルはイルスの顔をまっすぐに見詰めてくる。

「故郷がなくなると思うと、怖いんです。もし負けたら、父上も、母上も、みんな殺されるかも……そう思ったら、怖くて……」

 うつむき、シェルは押し殺した声で言った。

「イルス……イルスやレイラス殿下には、ライラル殿下が死んだほうが、得かもしれないですよ。それでも助けますか…?」

 シェルの強い声で言われて、イルスはかすかな動揺を感じた。目の前でべそをかいている森エルフの少年が、不思議と大人びて見えた。

 イルスが答えられずにいると、シェルが急に、顔を歪めてうずくまった。

「それでも助けるんですよね……」

 シェルが、必死で嗚咽を押さえこむのが聞こえた。

「どうして僕は、そういう風になれないんだろう」

 イルスは、買かぶりだと言おうとしたが、シェルは聞いていない様子だった。

「ライラル殿下を助けたいって、僕は必死だったんです。でも、さっき、ライラル殿下の顔を見て…ああ、よかったって思って。これで戦にならずに済むなって……自分がそう思ってるのに、気づいたんです。目の前で死にかかってる人より、自分の家族のほうが心配なんです。僕は結局、自分のことしか心配してないんです! それなのに、僕は、自分がライラル殿下のためを思ってるって、信じてました」

 シェルは顔をしかめて、うつむき、自分の膝に顔を埋めた。そうするシェルの仕草は、とても疲れていて、眠そうだった。

「僕の頭の中には、汚いことばっかりです。きっと…だからトゥラシェもいないんだ。レイラス殿下も、僕を許してくれるわけないです。だって……僕は、自分の家族を守るためだったら、レイラス殿下を森の墓所に閉じ込めるくらい、平気でやるかもしれません。僕みたいなのが、戦をやるのかもしれない……部族を守るためだって……仕方ないんだっていって…」

 シェルの声は、だんだんに弱まっていき、苦しげに掠れて消えようとしている。

「みんながイルスみたいだったら、きっと、もっと、いい世界に……」

 シェルが嗚咽をこらえて押し黙ると、囲いの中に繋がれている馬たちが、不安げに地面を蹄で引っかき、シェルの注意を引こうとするように落ち着きなく鼻を鳴らした。

「あのな……」

 頭をかいて、イルスはシェルの前に座り込んだ。

「俺も別に、シュレーが可哀想だなとか、助けてやらなきゃなんて、考えてない」

 言葉を選びながら、イルスは気まずい思いで説明した。

 シェルが涙で汚れた顔を上げ、鼻をすすりながらイルスを見る。

「じゃあ、どうしてですか」

「…うぅん……わからねえ。なんとなくだ。いや、どっちかっていうと、意地かもしれねえな」

「お母さんのことですね」

 シェルは、震えた声で早口に言った。

「イルスのお母さん、きれいな人ですね。優しい人です。イルスのこと、いい子だって言ってましたね。僕もそう思います。僕の母上も、とても優しい人なんです。僕がこんな汚い心だって知ったら、母上はきっと泣きますね」

「そんなことないさ」

 シェルが森の中で自分の心を読んでいたらしいことに、イルスは苦笑した。腹は立たないが、気恥ずかしい。子供っぽいやつだと思われただろう。

「馬が懐くのに悪い奴はいないって、俺の師匠が言ってた。俺もそう思う」

 イルスの言葉を聞き終わらないうちに、シェルは情けないほど顔を歪めて、小さな子供のような泣き声をたてた。

「馬は優しいだけです。イルスもそうです。僕はみんなに優しくしてもらえるような立派な心じゃないんです。ライラル殿下に優しくしてあげてください。ライラル殿下の心を見ました。なんにもない荒野に一人で立ってました。寒くて寂しくって何にもないんです。ライラル殿下が可哀想です。ライラル殿下を助けて、励ましてあげるって約束してください」

 泣きじゃくるシェルが、本気でそう言っているらしいことに気づき、イルスは思わず笑った。なにが可笑しいのか自分でも分からなかったが、泣いているシェルの横で、イルスは声をたてて笑った。

「どうして笑うんですか、真面目にきいてくださいよ! 大事な話なんですから!!」

 シェルが泣きながらイルスの襟首を掴んで、がくがくと揺すってきた。イルスは堪えきれずに、揺れながら笑った。

「わかった、わかったよ、あいつを助けて励ますんだろ、俺も手伝うって言ってるじゃねぇか。お前、変なやつだな!」

 シェルが幼いのか年を食っているのか、まるで分からないと思いながら、イルスは泣き伏す彼の華奢な背中を軽く叩いた。

「もう、戻って寝ろよ。お前、疲れてるんだよ。馬にも砂糖を食わしたし、もういいだろ」

 笑いの残る声で忠告すると、シェルは置きあがって、首を振った。

「そうしたいんですけど、まだやることがあって…」

 ぎょっとして、イルスは思わずシェルの涙顔を睨んだ。

「まだ、なにかあるのかよ?」

「模擬戦闘のときに死んだ鳥を、埋葬するんです」

「………今度は鳥か」

 うめいて、イルスは厩(うまや)の床に呆然と倒れた。

「なにかが食って始末するんじゃないのか?」

「そうでしょうか。でも、ほら、今は山鳥の繁殖期なんですよ。残った卵はどうなるんでしょう。それも山の獣に食われるんでしょうか。可哀想じゃないですか? 模擬戦闘がなかったら、ちゃんと生まれたかもしれないのに……なんとかできないでしょうか。暖めて孵(かえ)すとか……」

 心配そうに、シェルが言う。

 その声を聞きながら、イルスは腹の底からこみ上げてくる笑いに体を震わせた。シェルは、妙なやつだ。苛立たしいほど律儀なこの少年のことを、イルスは気に入った。

「ああぁ…そうだな、わかった。手伝うよ」

 笑いながら、イルスは大鋸屑(おがくず)のついた髪に指を梳き入れた。大鋸屑(おがくず)には、馬の匂いがうつっていた。死んだ宵の明星(ヨルド)のことが、とても鮮やかに思い出された。トゥルハ・ヴィーダ(死ぬのはいや)と叫ぶ、明けの明星(ヨランダ)の声が、耳の奥に蘇(よみがえ)る。

 死にたくない、とイルスは思った。

 笑うたびにそう思う。トゥルハ・ヴィーダ、と。誰かを好きになるたびにそう思うのだ。自分がこの世から消えたあとも、彼らが生きており、自分の知りようのないところで、泣いたり笑ったりするのだということが、とても寂しい。

 それを考えたくない。明日のことなど、なにも考えたくない。今日この日に握る剣の切っ先だけを、ただ無心に見つめていたい。なにも悩まず、なにも恐れず、失うものを無様に惜しむような、醜態をさらさずに。

 自分は今日もまた、無駄な一日を過ごしただろうかとイルスは考えた。あとどれくらいの間、自分がこの世界にいられるのかを、誰かに教えてもらいたかった。

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