021 二通の手紙

 彼女からの手紙はいつも、「猊下(げいか)、お身体にはお変わりありませんか」という一文で始まる。自室で、白羽の紋章をつけた手紙に目を通しながら、シュレーは、いつも心配そうな顔ばかりしている少女のことを思い出していた。

 微かに上気した薄紅色の頬と、明るい緑の瞳。白い額には深紅の聖刻。まっすぐで、細く柔らかな金髪。美しいというより、可憐な少女と言った方が相応しい。アルミナ・ディア・フロンティエーナ。それが、地上で最も神聖な血を濃厚に受け継いだ少女、白羽の紋章と天地にかけて永遠の愛と忠誠を誓いあった、彼の妻の名前だ。

 シュレーがアルミナを妻として娶(めと)ったのは、8歳の誕生日のことだった。祖父である大神官は、誕生祝いのための祭礼の終わりに、歳の釣り合う一族の娘たちを集め、シュレーの前に並ばせた。そして、その中からどれでも好きな者を妻に決めよとシュレーに命じた。

 集められた少女たちは、全部で15人いた。純白の衣装で全身を覆った少女たちは、どれも同じように見えた。重たげなヴエールの下で、控えめにうつむいた顔には、額の赤い聖刻が見えるばかりで、微笑んでいるのか、悲しんでいるのかもわからない。

 白大理石づくりの神殿には、大勢の神官たちが居並び、はるか高みに据えられた祭壇と、その前の玉座に座る大神官を見上げていた。聖楼城の深部に築かれた神殿は、純血の神殿種でなければ立ち入ることが許されない場所だった。その中でも、祭壇のごく近くに侍る権利を与えられているのは、官職を与えられた28人の最高位の神官たちだけだ。シュレーはその中の一人として、玉座を間近に見上げる場所に立っていた。

 かすかに囁くような大神官の声が、神殿に集まっていた全ての神殿種の耳朶を打った。それは、喉から発せられる声ではなかった。まばゆく光り輝く純白の翼を広げ、大神官は告げた。ブラン・アムリネスに妻帯を許す、と。

 見上げた祖父の顔は、翼からあふれる光にかすんで、よく見えなかった。目を細め、シュレーは祭壇の前に座っている祖父の顔を、なんとか見極めようとした。それに気づいた祖父が、かすかに笑ったような気がしたが、ただの目の錯覚だったのかもしれない。

 突然、杖が大理石の床を激しく打つ音がした。

「大神官台下、おそれながら、ブラン・アムリネスはまだ若すぎます。彼が成人する時を待ち、神殿種の正統な血脈を遺すものとして相応しいかどうか、確かめる必要があります」

 背の高い高位の神官が、祭壇を見上げていた。彼もまた、声によらない言葉で話していた。その言葉は、神殿の床を埋めるすべての神官たちの耳に届いているに違いなかった。神殿種の使う言葉には、そういう力が備わっているのだ。

「ノルティエ・デュアス」

 祭壇から、激しい感情を含んだ大神官の言葉が降りかかってきた。短い悲鳴をあげて、背の高い神官が膝を折った。彼の手を離れた杖が、けたたましい音を立てて大理石の床に転がった。

「朕(わたし)の言葉は世界の言葉だ。反逆はゆるさぬ」

 大神官の声には、容赦の無い怒りが織り込まれていた。生々しい感情をぶつけられて、ノルティエ・デュアスを名乗る神官は悶絶していた。シュレーは黙ってそれを見下ろしているほかはなかった。こうして傍にいるだけでも、神経に無数の針を打ちこまれるような苦痛を感じた。それほどの力を持つ大神官の怒りを、まともに自分の身に受けるのは願い下げだ。

 床に這ったノルティエ・デュアスの顔から、ぽたぽたと鮮血が滴っていた。白い床に落ちた小さな赤い点は、神殿種の誰もが額に刻んでいる聖刻に似ていた。震える手で口元を覆い、ノルティエ・デュアスは神官服の豪奢な袖で、あふれ出る鼻血を押さえた。

 顔をあげる瞬間、シュレーは彼の灰色の視線と出会った。緑がかった灰色の目で、ノルティエ・デュアスはシュレーを睨み付けた。杖を拾い、体裁をとりつくろう彼の翼は、シュレーにしか聞こえない呪いの声を送ってきた。

 「出来そこないめ…お前に神殿を滅ぼさせるものか」

 神聖な血で汚れた顔を拭い、毅然と顎をあげるノルティエ・デュアスの姿は痛々しく、神々しかった。シュレーがその姿から目をそらすと、囁くような呪いの声が、次々とシュレーに襲いかかってきた。誰のものかもわからない声は、口々に、予言された滅びの子を呪っていた。

 じりじりと脳を刺す、悪意に満ちた囁き声に耐える方法を、シュレーはすでに身につけていた。これは荒野に吹く風のようなものだ。抵抗してみせたところで、止んでくれるわけではない。本物の荒れ野にいた頃、嵐が運んできた砂つぶてを、身を硬くして耐えたように、シュレーは押し寄せる憎しみの囁きに耐えた。それ以外に、出来ることは何もなかった。

 「ブラン・アムリネス」

 不意に呼びかける祖父の優しげな声に、シュレーは顔をあげた。

「そなたの伴侶を選ぶがよい」

 祭壇につづく長い階段の下に並んだ少女たちを、大神官は翼の意匠で飾られた杖で指し示した。そこに並んでいる少女たちは、相変わらず顔を伏せたままだった。

 遠目に人数を数え、ちょうど真ん中にいた少女をシュレーは選んだ。それがアルミナだった。彼女を選んだ理由は何もない。ただ、アルミナが、真ん中に立たされていたというだけのことで、それは偶然の仕業でしかない。

 アルミナはその時、7歳だった。大神官はアルミナを祭壇に上げ、シュレーと彼女の手を握り合わさせて、その場で婚姻のための儀式を執り行った。シュレーがアルミナの体に触れたのは、その時が最初であり、最後でもあった。

 大神官の前に呼び出された緊張で、アルミナの手は震えていた。白絹の手袋ごしにも、彼女の手がひどく冷たくなっているのが分かるほどだった。祖父の気まぐれ、あるいは愛娘の忘れ形見を溺愛するあまりの我侭で、自分の誕生祝いのひとつに加えられた少女に、シュレーは微かな同情と、後ろめたさを感じた。

 神聖神殿の血統には、女児が生まれることが少ない。血統を重んじるあまりの、度重なる近親婚のため、必要以上に血が濃くなり、正常な体で生まれてくる子が減っているのだ。一族の中で、子供を産む機能を備えた、女だと認められる者は珍しかった。数少ない彼女たちは、特定の誰かと婚姻することはなく、神殿の一族の全ての者の母として、女たちだけで暮らしていた。

 だから、大神官から妻帯を許されるのは、神殿ではこの上ない大変な名誉だった。祖父は、シュレーの血の薄さを補うために、妻帯の名誉を与えたのだ。神聖神殿の一族の者として子を成し、血を残す権利を、誕生祝いとして贈ったまでのこと。大神官は、孫に名誉さえ与えられれば、それで良かったのだ。

 そんな下らない名誉のために、アルミナはあらゆる自由を奪われた。婚姻した女は、決して人前に姿を現さないのが、神聖神殿の一族での習わしだった。身の回りの世話をする数人の神官以外とは口を利くこともなく、アルミナは聖楼城の塔の小部屋で育った。部屋を出られるのは、朝夕に行われる祭礼の時だけだ。それも、他の者たちと同じように、広々とした礼拝堂に並ぶわけではなく、その中二階にしつらえられた、格子窓つきの壁の向こう側の席に座らなければならない。

 13歳になるまで、シュレーは実際には、アルミナと会ったことがなかった。婚姻の儀式の時以来、二人は一度も顔を合わせたことがなかったのだ。神殿の一族では、それがたとえ夫婦であっても、男女が親しく言葉を交わすのは、ふしだらなことだと考えられていた。婚姻は子孫を残すためのもの。だから、夫婦が顔を合わせるのは、月が巡り、妻の体が子を成す準備を整えた数日だけと決められていた。まだ幼く、初潮も迎えていないアルミナが、シュレーと会う機会があるはずもなかった。

 そのかわり、子供のころから、彼女はほぼ毎日のように、シュレーに手紙を書いて寄越した。今朝の祭礼で、猊下のお姿をお見かけいたしましたとか、部屋の窓にとまった鳥に餌をやりましたとか、そういった事ばかりが手紙には書かれていた。

 アルミナからの手紙を読んでも、それがどうしたのだ、としか、シュレーには感じられなかった。なんと単調で変化のない世界のことを、飽きもせず、毎日のように書き送ってくることだろう。どう返事をしてやったらいいのか、まるで見当もつかない。

 だが、その世界に彼女を閉じこめているのが、他ならぬ自分だということを、シュレーは自覚していた。アルミナの話し相手はいつも同じ顔ぶれの数人の神官だけで、彼女にとって、唯一交流を持てる「外界」はシュレーひとりだけなのだ。だから、手紙が来れば無理にでも返事を書いた。返事を出せば、アルミナはまた手紙を寄越す。そのくり返しが、1日と空けず、5年ほども続いた。

 時には、アルミナが手ずから作ったという服や、身の回りのものが届けられることがあった。シュレーがそれを身に付けて祭礼に出ると、アルミナは驚くほど喜び、いつもよりも分厚い手紙を送ってきた。それを読むことは、シュレーには、耐え難い苦痛だった。単調な神殿での暮らしの中でも、彼女の住んでいる世界がどれほど詰まらなく、喜びの薄いものなのかを、思い知らされるような気がしたからだ。

 シュレーは仕方なく、聖楼城の中のことを説明した内容の手紙を、アルミナに送り続けた。天に向かって伸びる塔の数は二十九本。それは二十八人の天使と、大神官を象徴するものだ。どれも白大理石で飾られ、日の光に眩く輝き、夕暮れには茜色に染まる。塔の高さはどれもまちまちで、統一されたものではない。聖楼城は古く、豪華ではあるが、美しい城とは言えない。いびつな蟻塚に似ている。白く塗られ、飾り立てられた巨大な蟻塚だ。その中に住んでいる蟻にあたるのが、神聖な一族を名乗る神殿種たちで、自分やアルミナもそのうちの一人だ。正統な血を受け継いだと認められた者は、正式な神官になり、官職を与えられる。聖楼城の入り組んだ回廊には延々と扉が並び、その中のあるものには神官が住みつき、あるものは封印されて秘密を住まわせている。聖楼城には、開けてはならない扉が多く、秘密の場所には事欠かない。

 正統な血筋に相応しくないと判断された者の行方は知れない。それも、聖楼城が呑みこむ、数知れない秘密のひとつだ。その者の部屋の扉は封印され、二度と開かれることは無い。それはいつも突然起こり、封印された部屋の中にまだ誰かがいるのか、それとも空なのかは、誰も知らないことだった。それについて興味を示すこと自体、タブーと考えられていた。高貴な神殿種の血を受けながら、その正統な血筋を示さない者など、存在してはならないのだ。

 ある朝目覚めると、自分の部屋の扉が開かなくなっている悪夢を、シュレーは何度も見た。だが、その夢のことをアルミナへの手紙に書いたことは一度もない。



  * * * * * *



 そんなある日、シュレーの部屋に下位の神官が現れて、言った。大神官台下(だいか)のご命令です。奥方の部屋をお訪ねください、と。

 アルミナが、初潮を迎えたのだ。シュレーは13歳で、アルミナは12歳だった。

 いやだ、とシュレーは答えた。今まで一度も祖父の命令に逆らったことはなかったが、なぜかその時だけは、考えるより早く、言葉が口を衝いて出た。ご命令ですと、神官は復唱した。シュレーは承知した。大神官の命令は絶対で、それを拒否する権利など、誰にもない。それは神聖神殿では当たり前のことだった。間違っているのはシュレーの方で、伝令役の神官は、あくまで大神官の意思を伝えにきたにすぎず、シュレーの意思を確かめたいわけではない。そんなことは十分理解していたはずなのに、祖父の命令を、なぜ拒否しようとしたのか、シュレーは自分でもわけがわからなかった。

 塔の部屋を訪れると、アルミナはそこにいた。分厚いヴェールの間から覗く、微かに上気した薄紅色の頬と、明るい緑の瞳。きっちりと眉の上で切りそろえられた前髪が飾る白い額には、神聖神殿の血統を証す深紅の聖刻。まっすぐで、細く柔らかな金髪。美しいというより、可憐な少女と言った方が相応しい。

 現れたシュレーを見て、アルミナは少し恥じらいながら、それでも嬉しそうに微笑した。

 耐えられなかった。なにがそんなに嬉しいのか、シュレーには理解できなかった。いったい誰のせいで、自分が幽閉されてるのかを、アルミナは知らないのだろうか。

 アルミナは口を利かなかった。女の方から話しかけるのは、不作法だと決められているからだ。会話は男から切り出すものと決まっている。だが、シュレーは何も話しかけなかった。アルミナに話せることが何もなかったからだ。

 何も話さず、何もしようとしないシュレーをアルミナは不思議そうに眺めたが、すぐにお茶を入れはじめた。花の香りのする紅いお茶を注ぎ、自分に差し出すアルミナを見た時、シュレーは神殿を出ることを決めた。

 自分が神聖神殿にいても、何もいいことはない。満足するのは大神官だけで、自分はそんなことを望んでいるわけではない。神籍を捨てれば、多くのものを失うのと同時に、自由を手に入れられる。神殿の者は、神籍を持つ者としか婚姻できない掟だから、自分が神籍を捨てて神殿を出れば、アルミナも自由になるだろう。女たちと共に暮らすのもいいし、もっと別の、アルミナを幸せにしそうな相手を夫にするのでもいい。少なくとも、純血の神殿種とは程遠いシュレーの子を産むよりは、彼女にとってはましな未来が手に入るだろう。

 その後すぐ、神殿を出ることを、シュレーは大神官に申し出た。もちろん祖父は許さなかった。それでも、シュレーは聖楼城を去った。何もかもを一度に解決できるとは考えていない。物事には順序というものがある。焦る気もないし、無い物ねだりをする気もない。必要なら、いくらでも時間をかける。どんな犠牲でも払うつもりだった。

 思い返すと、シュレーが初めてアルミナの部屋を訪れたのは、一年前のちょうど今ごろだった。結局、アルミナと顔を合わせたのは、ほんの数回だけだ。シュレーはアルミナとろくに話しもしなかったし、彼女に指一本触れたこともない。神殿の記録上は、アルミナと6年ほども連れ添ってきた事になっているが、実際には、まったくの他人と変わらない気がした。

 しかし、よく考えてみれば、今までの自分の一生で、全くの他人でない者が、何人いたというのだろうか。シュレーは口元を歪めて笑った。母は、生まれてきた息子を抱き上げることもなく死に、父もすぐにその後を追わされた。唯一の肉親であるはずの祖父、大神官も、時折の気まぐれで玉座から呼びかけるだけで、シュレーは祖父の顔すら見たことがない。神々しいその尊顔は、いつもまばゆい後光の中に霞んでいて、肉親の情があるのかどうだか、確かめようもない。この世界にいるのは、悪意を持った他人と、無関心な他人だけだ。アルミナは数少ない例外だったが、それももう過去のことだ。シュレーは神官職とともに、彼女を捨ててきたのだ。

 「猊下(げいか)、お身体にはお変わりありませんか」と、アルミナからの手紙には、いつもと同じことが書いてある。金箔を押して意匠を象った白羽の紋章が、ランプの明かりを鈍く反射している。頬杖をついて、シュレーはそれを読んだ。流れるような文字は、びっしりと紙面を埋めていた。小さな文字が整然と並んでいるのが、アルミナの几帳面な性格を映している。

 『…猊下がいらっしゃらない聖楼城はとても寂しく、まるで冬の城のようです。朝夕の祭礼でも、もう猊下のお姿を拝見することができないのが、とても残念です。……そちらではご不自由なくお暮らしですか。山の食べ物はお口に合いますか。異国の景色はどんなものですか。……昨夜、猊下の夢を見ました。夢の中で、猊下は何かを、わたくしに話しかけてくださったのですが、目をさますと、猊下のお話をみんな忘れてしまっていて、とても悲しい気持ちになりました。……聖楼城の南のお庭で咲いた花を、オルハが摘んできてくれました。とても美しい花でしたので、刺繍にして、猊下にもお送りいたします。せめてそれが、故郷をなつかしく思われる時に、猊下をお慰めできることができれば、わたくしも幸せです。わたくしの身代わりにお側に置いて下さい。……いつかはまた、お会いできますか。……毎日、朝夕の礼拝で、猊下のご無事をお祈りしています。……トルレッキオはあまりに遠く、猊下にわたくしの声をお聞き届けいただくのは無理ですが、わたくしは、いつも、猊下のことを想っております。どうか、いつも、お心の片隅に、わたくしのことをお留め置きください。……猊下のお側にお仕えできる日が、ふたたび巡って来ますよう、猊下がご無事で聖楼城にお帰りになる日を、一日千秋の想いでお待ちしています。どうかくれぐれも、ご自愛下さいませ。……アルミナ・ディア・フロンティエーナ』

 いまだに聖楼城の塔に閉じ込められているアルミナの孤独を考えるとると、返事を書いてやらないといけないと思ったが、筆が動かなかった。アルミナからの手紙には、いつも同じようなことが書いてある。誰とも会わず、するべきことが何もないアルミナにとっては、世界は毎日少しも変わらないものなのだろう。

 シュレーは、読むともなく手紙を見つめたまま、手元に置いてあったグラスをとって、それに満たされていたものを飲んだ。半分ほど飲み干すと、焼け付くような胃の痛みが少しはましになった。グラスの中の水には、何種類かの解毒剤を混ぜてある。そのうちのどれかが、うまく効果を発揮したのを確認して、シュレーはため息をついた。それでもまだ胃が熱い。かすかな吐き気も感じた。

 一体何に毒を盛られているのか、しばらく解毒剤を飲まずにいると、とたんに体調が悪くなってくる。だが、当て推量で解毒剤を飲み過ぎると、逆にその薬のせいで、命を削られることもありうる。

 山エルフの族長が、最近になって急に健康を損ない、床についているのだという噂が聞こえてきていた。激しい胃の痛みをうったえ、血を吐くのだとか。

 族長は、シュレーが山エルフ族の血族として、その宮廷序列に加わることを承知した。おそらくはそれが、彼にとっての不運の始まりだろう。長子相続を重んじる山エルフでは、シュレーの叔父にあたる現族長よりも、直系にあたるシュレーの方が、強い継承権を持っていることになる。

 神籍を捨てて、部族に戻りたいのだと話を持ちかけた時、族長は、シュレーになら部族を率いられるだろうと言っていた。堅物で、無欲な男だ。同腹の弟というだけあって、死んだ父に良く似ている。不器用で、ちっぽけな真実を押し通すために、それと知りつつ、わが身を危険にさらすのだ。

 実子の中に、族長の額冠(ティアラ)を受け継ぐに相応しい者がいなかった。それは我が身の不徳の致すところと、族長はシュレーの前で恥じ入った。いくら神籍の者を相手にしているとはいえ、まだ歳の足りないシュレーに対して、そうも腹を割って話すのかと、愚直とさえ思える族長の振るまいに驚かされたものだった。

 あの男がフラカッツァーで死のうとしている。自分に情けをかけたばかりに、王宮で孤立し、ひそかに殺されようとしている。おそらく、シュレーが生きているうちは、叔父は殺されないだろう。族長位を横から奪う邪魔者を始末してから、族長を殺し、長子に額冠(ティアラ)を継承させる算段なのだ。

 胃の中にズキンと刺すような痛みを感じて、シュレーは顔をしかめた。聖刻を捺された額に、じわりと脂汗が浮くのがわかる。意味がないと思いながら、耐えられずに服の上から、胃の辺りをつかんだ。できるものなら、毒を染み込ませた胃の腑を体から切り放して捨ててしまいたいような気分だった。

 おそらく、叔父も同じ毒にやられている。自分がこうして生きながらえている間、生かさず殺さずの毒を盛られて、日々、生死の境をさまよい続けているのだ。

 ある日突然、自分が血を吐いて倒れる姿を想像すると、シュレーはひどく不愉快な気分になった。早く何とかしなければ、自分が選び取ったのは、毒殺される自由だったということになりそうだ。

 口にするもの全てに、毒の味がするような気がする。もともとここは、山エルフ族のための学院だ。ここにいる者すべてに、王権の息がかかっている。執事のアザールを別の者に入れ替えたところで、新しい別の執事が食事に毒を盛るだけだ。

 何とかしなければならない。自分が生きてさえいれば、まだ、叔父にも生き残れる希望はある。何もかも終わってしまう前に、毒殺の首謀者を始末すればいいのだ。トルレッキオにいる、あの女を。

 アルミナからの手紙をどけて、シュレーは別の書簡を取り出した。その書簡には、大きすぎる角を誇らしげに掲げた山羊の紋章の蝋封印がされてある。すでに一度開いてあるそれに、シュレーはもう一度目を通した。

 その書簡の冒頭にも、皮肉なことに、「猊下(げいか)、お身体にはお変わりありませんか」と書かれていた。

 宴席にお呼びいたしたく、と書き連ねた女文字の最後には、山エルフ族の正妃の名が記されていた。それは、アルフ・オルファンの実母の名だった。大方、決闘騒ぎのことの顛末に関して、オルファンが母親に泣きついたに違いない。山エルフは名誉を傷つけた相手を決して許さない。それは、女の身である正妃であっても、同じことだった。

 息子の名誉を奪うブラン・アムリネスを殺しに、絹のドレスを纏った毒殺師がやってくる。哀れな息子を族長位につけるための、決定的な方法を用意して、学院に現れるつもりだ。

 グラスの底に残った水を飲み干して、シュレーはひとり嗤(わら)った。大陸に君臨する竜(ドラグーン)の末裔たちに比べれば、あっけないほど小さな敵、だが、今まさにシュレーの喉元に短刀を突きつけているのは、間違いなく、その女だった。

 宴席への招待を断るのは不可能ではない。だが、山エルフ族の部族長の紋章をつけた招待状を蹴るのには、それだけの覚悟が必要だ。今回の話を断ったところで、招待状は何度でも送りつけられるだろう。断りつづけるのには限界がある。抜け目のない義母は、そう遠からず、非礼を糾弾して攻撃してくるに違いない。相手は単なる嫌がらせや、当てこすりの嫌味を言うためにシュレーに会いたがっている訳ではない。実子の政敵を叩き潰し、息の根を止めるための画策をしているのだ。

 机の端に用意されていた羽根ペンと紙を取って、シュレーは食事の招待を受けるための手紙を書こうとした。乱暴に紙束を掴んだせいで、アルミナが送ってきた手紙が床に舞い落ち、薄い絹に刺繍された、薄桃色の草花の模様が、質素な敷物の上に舞った。ふとそれを眺めると、そこにだけ花が咲いたように見える。

 遠き聖楼城の庭を思い出すためにとアルミナは考えたようだが、シュレーにとって、聖楼城は忌まわしいだけの場所だった。柱の陰からも、祭礼のため跪く時も、絶え間なく聞こえてくる嫉妬と呪いの声。世を滅ぼすと予言された者。いやしい下民と子を成した淫売の息子。大神官に取り入る不埒者。いっそ死んでしまえばいいのに。あの下民の男が、城の塔から身を投げたように。

 その城で、自分に微笑みかけたのは、あの気の弱そうな少女だけだった。アルミナ。小さな花の刺繍は、シュレーに、いつも控えめにうつむいて微笑む、彼女の姿を思い出させた。

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