〈60〉おトイレのなんとかさん

 感情を押し殺しながら微妙な表情で歩く霞は、曲がり角で四人の気配を感じた。


「そんな気を使わなくていいわよ」


 自分から声をかけ、そのまま誰とも目を合わせずにトイレに直行する、そして、洗面台で手を洗いながら玲の言葉を思い出した。


 ――あの一言で俺がどれだけ助けられていることか


(あの顔、ちょっと気持ち悪かったんだけど、どう解釈したらいいのかしら? 天才の考えることって、全然わからない……)


 鏡に映る自分の姿に問いかける。


(自分にナイフ刺すとか、なぐられたいとか、やっぱりあの子、変態だったのかな? わたしができるのって、それ? 本当にあの場でなぐってあげたほうが良かった? あれだけ何回も言うって、そういうこと? ――いや、やはり危険ね。まだ変態と決まったわけじゃない。それとなく聞いてみる? 『電気あんまって知ってる?』とか言ってみて反応を試してみるのが正解かも……なわけないわよね)


 白衣の下に穿いているハイソックスで玲をぐりぐりするイメージを首をふって振り払いつつ、


(そんな、まさかね。考えすぎよね)


 混乱する頭を整理するように、ため息をついたそのとき、


「何やら面白そうなこと、やってるらしいじゃない?」


「えっ! 誰?」


 ――ガチャ


 霞が振り向くと同時にトイレのドアが開き、出てきたのは翔子だった。


「そんなに驚かなくても……」


「いきなりその恰好で出てこられたら誰だってびっくりするわよ! というか何してるの? こんなところで」


「誰かが工学部で爆破事故起こしたみたい。そんな中で誰もいない構内をうろついてたら、怪しまれるでしょ?」


「何それ? ミサイル落とされても大丈夫なんじゃなかったの?」


「内部から破壊されたらひとたまりもないわよ」


「あ、そんなもんなんだ。けどあなた、セキュリティチームとか組織してなかったっけ?」


「昔の話よ。今は誰もいないもの。あなたたちも用がないなら、早く帰った方がいいわ」


「そ、そうね」


「それはそうと、あなたの周りの子、いい子たちじゃない?」


「え?」


「若くてかっこよくて」


「あなた男だったら年とか関係ないんですかっ!」


「そんな現代の尺度で測られても――」


「いくら時代を行き来できるっていったって、ストライクゾーン広すぎない?」


「冗談、冗談よ。半分」


「冗談に聞こえないんですが。そういえば今日、あの中の男の子が二人、大学病院に行ったんだけど、大丈夫……だよね?」


「大丈夫よ。あなたなんかと違って、まともな精神の持ち主みたいだしね」


「どうだか。あ、それとわたしたち、やっぱりお昼に研究室使わせてもらうから」


「そう。じゃあ私はトイレで一人悲しく――」


「ダンディなおじさまはどうなったのよ?」


「だから警察に見つかったら大変じゃない。わかるでしょ?」


「それもそうね」


「あなたたちがこれ見よがしに楽しそうなことしてるのを見ると、私の方が情緒不安定になるわ。思い余って私が演算室を消し飛ばさないよう、祈っておいてね」


「いやいや、やめてよ、そんなこと!」



 ◆◇◆



 その日の夜、玲がろくに食事もとらずに帰宅した後で、真奈美の部屋に泊った霞は、布団に入りながら切り出した。


「わたし、彼の負担を軽くしたいと思っただけなのよ。だけど空回りというか、ぜんぜん頼ってくれないし」


「そんなことないと思うけどなぁ」


「あんな玲、見たくなかった」


「まぁでも、気にしたってしょうがないじゃない?」


(あなたに言われると少し腹が立つわね)


「カフェテリアでいったいなにを話したのよ?」


「……まなみん、玲のこと、振ったって本当?」


「うん、ほんと」


「そうだったんだ……」


「本人が言ってた?」


「うん」


「なんでそんな話になったの?」


「いやー実は、前に玲にお願いしていたのよ。『まなみんから離れないで』って」


「えっ?」


「状況が状況だけに守ってあげてって意味で言ったんだけど、わたし、そんな事情知らずに頼んじゃってて、悪いことしたなーって」


「あー、そう言えばあいつ、優しかったな」


「玲のこと、嫌いだったの?」


「そんなわけないじゃない! あの玲さまよ? まさか告られるなんて思わなかったから、飛び上がるほどうれしかったもん」


「…………」


「だけど、その時はもう、雅也のことが気にかかってたから……」


「そっか」


「あいつに『雅也のこと頼む』って言われたの。雅也が一人で突っ走ってた時だったんだけどさ」


「…………」


「だからあたし言ったんだ。あいつに」


「なんて?」


「『もし、雅也が暴走したら、あたしが止めるから』って」


「えっ?」


「あいつなら一人でも大丈夫だけど、雅也は違うから。常識ないし、誰かがついてないと危なっかしいから、だから、いざとなったら、あたしが止めるって、あいつに言ったの」



「そうだったんだ」


「けどさ……今にして思えば、あいつもきっと、誰かに頼りたかったんだと思う。自分のエンジンを制御できる、精神面のブレーキが欲しかったんだろうなって。周りからすれば、あいつのバランス感覚って安定感あるじゃない? だからあたしたち完全にあいつに頼りきってたけど、でも、本人は自信なかったんだろうなって。今みたいなカオスな状況ならなおさら。だから、疲れて自分でエンジン止めちゃったのかもね」



「……わたし……またひどいことしたかも」


「ん?」



「たぶんまなみんのその言葉のすぐ後なんだけど、わたしも言ったの。もし理性を失っても、わたしが止めるから大丈夫よって。ぶんなぐってでも止めてあげるわって」


「……そりゃえぐいな……いろいろな意味で」


「玲くん……今どんな気持ちなのかしら……」


「うーん、相当傷心モードだと思うよ。地獄から天国、天国から地獄で、心折られて砕かれて涙に溶けてゲル化のゲル状で、原形を留めていないと思う。よくわかんないけどさ」


「……なんか……死にたくなってきた……」


「死なないで」


「え?」


「死なないで……かすみん」


「…………」


「zzz……」

 


 ◆◇◆



 翌日、真奈美の家に来た玲が呼び鈴を鳴らすと、ドアを開けたのは霞だった。


「おはよう……って、霞……さん?」


「あの……わたしが悪かった。ごめんなさい」


「え?」


 霞にいきなり頭を下げられて、びっくりする玲。


「知らなかったの。あなたが全部抱え込んじゃってたなんて……。足手まといになってたなんて……。だって、わたしのことも責めないし」


「じゃあ、行こうか」


 玲が明るく言った。


「……どこに?」


「大学だよ。おつき合いしますよ。お邪魔でなければ、だけどね?」


 笑って、嫌味なく答える玲。


「……もう」


 あまりに気恥ずかしく、霞はうつむいてそう言うしかなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る