第21話伝統と龍

 西ヶ崎とのやり取りから数日後の冬休み。僕は部屋の中で鬱々と過ごしていた。日を遮る黒い雲が連日のように雨を降らし、洗濯物が溜まる一方である。ニュースではこの連日の雨を異常気象と騒ぎ立てた。

 テレビは誇張して表現するのがマナーだと思っていたせいで、事態をそれほど真剣に考えてはいなかった。

 溜まる洗濯物ともう一つ心配なのはぺんぎんの様子だ。雨が降り出してから何かとそわそわして落ち着きがない。溢れんばかりの水を見て本能が疼いているのだろうか。

「異常だ」と外の雨を見てぺんぎんが呟くまでは気にも留めなかった。

「この季節にこの地方だけに連日雨が降るなんて確かに異常気象ですね」

「そうではない。龍が目覚めるのが早すぎる」

 ぺんぎんは出会ってから初めて狼狽して見せた。くるくるとその場を歩き回り何やら思案している。そこでようやくこれはただ事ではないぞと気づき始めた。

「龍なんているわけないじゃないですか。種の存続には最低でも二百頭ほどの個体数が必要なはずですし、それに科学の発展した現代で空を覆うほどの生き物が見つからないことなんて考えられませんよ」

 ぺんぎんは僕に向き直り呆れた素振りを見せる。

「ならしゃべるぺんぎんはどう説明する」

 それを言われると何も言い返すことができなかった。

「常識を過信し過ぎるなよ。目に見えない真実なんてものはいくらでも存在しうるぞ」

 思いがけない含蓄のある言葉に龍の存在をうっすら認めてしまいそうになる。ぺんぎんは空へ視線を向ける、それにつられて僕も空を見た。

 黒い雲は時折ピカッと光る。

「このまま放っておくとどうなるんですか」

 窓を閉めていてもゴロゴロと不穏な音が聞こえる。

「全てが水の中に沈むだろうな」抑揚もなく淡々とぺんぎんは告げた。

 荒唐無稽、とても信じられる話ではない

「ずっと昔、一度封印に失敗して大きな湖できたことがあったな。確か今は浜名湖とか呼ばれているか」

 耳慣れた固有名詞が出てきたことで、もしかしたらなどと頭の片隅で考えてしまう。

 しかし龍のせいで地形が変わるという話は壮大な法螺話としかとらえられない。ぺんぎんも僕の様子から察したらしい。

「放っておくのも選択肢の一つだぞ。私は構わん。この体なら泳ぎには困らないだろうしな」

 不安からかキリキリとお腹が痛む。季節外れの梅雨前線に違いない。自分を安心させるために無理矢理な理由付けを行った。

 次の日、その次の日と様子を見てみたけれど一向に雨が止む気配はない。いよいよ緊迫してきたのかテレビをつけても各局こぞって雨について情報を発信していた。かじりつく様にテレビを確認していたけれど連日の豪雨の原因は未だに判明していない。

「人間の世界なんぞどうでもよい。街がひとつ水の中へ消えようと長い歴史で見れば些細なことだろう。それに人間は増えすぎている。これもある意味では自然の調整の一部だな」

 僕の隣で一緒にテレビを見ていたぺんぎんが言う。龍の話を聞いてからお腹の調子が非常に悪い。なぜ僕がこんな目に合っているのだろうか。

「ならどうして僕の元へやってきたんですか」

「伝統だよ」予想だにしない答えにたじろぐ。

「昔から続いて来たことを突然やめるというのも中々勇気のいることだ。それは人間にとっても神にとっても同じことだ。しかしこれも千年ほど前の人間に頼まれたこと、ここらが潮時なのかもしれん」

 遠い昔を懐かしんでいるのか、ぺんぎんが遠くを見るように目を細めた。

 止む気配のない雨を見て、ぺんぎんを見て、それからお腹と相談し覚悟を決める。これ以上は不安で下痢が止まらなくなってしまう。

「その龍を止めるにはどうするんですか」

 待ってましたと言わんばかりにぺんぎんは両羽をぱたぱたと動かす。

「その言葉を待っていた」そして実際に言った。

 いいかよく聞け、まずはこの状況から説明してやる。そう言って近くにあったペンを持ち、咳払いして講釈を始める。

「まずは龍の生態についての説明から始めよう。龍と言われて八幡はどんな姿を思い浮かべる?」

 ぺんぎんは偉そうにこちらにペンを向ける。

「日本画や掛け軸に描かれているような蛇みたいな体に厳つい顔をしたものですかね」

「ほぼ正解だ。そして、あの暗雲の中にそれがいる」

 僕はもう一度窓の外へ視線を向けた。空全てを覆い尽くすあの雲の中に本当にいるのだろうか。俄かに信じがたい話だ。

「昔は日本にも多くの龍が住んでいた。ヤマタノオロチや九頭竜、五頭竜なんかが有名だな。今はお伽噺の中にしか存在しない龍たちも、昔は確かに存在していたのだ」

「でも今はお伽噺の中にしかいない」

 それは一体どうしてですか、僕が聞く前にぺんぎんが話を紡ぐ。

「龍は非常に強い力を持つ生き物だ。移動するだけで大地が揺らぎ、大きく息を吐けば火山が噴火した。それゆえに人間とは相容れなかった。大地が揺らげば家屋が倒れ、噴火が起これば溶岩流に町が呑み込まれた」

 そこまで聞くと僕にも話の流れが読めた。そこからヤマタノオロチの昔話に繋がるのだ。

「退治されたんですね」

「その通り。人間たちは生きるために龍を殺すことを決意した」

「懲悪ですよ、懲悪。人を殺してしまうのだから仕方がない」

 何の感情も籠っていない目でぺんぎんは僕を見る。黒い瞳を見続けられず僕は目を逸らした。

「八幡は蟻を知っているか」

「もちろん知っていますよ」

「なら蟻の感情を考えたことがあるか、八幡が歩く時に踏みつけた蟻について考えたことがあるか、住処を無慈悲に埋められる気持ちを知っているか」

 返す言葉もない。蟻の事をそこまで考えたことはなかった。そして以前もどこかで蟻の例え話を聞いたなと頭の片隅で考えた。

「龍にとっての人間とはそういうものだ」

 ぺんぎんの言葉は僕の心に重くのしかかった。

「ただ人間は蟻とは違う。物事を理解し反抗する力を持っている。そこからは伝承やお伽噺にもあるように多くの龍が人間によって殺された。今の世の中なら絶滅危惧種に指定されていたかもな」

 ぺんぎんが皮肉る。

「しかしそんな時代にも心優しい人間はいるものだ。そいつは私に向かって祈ったのだよ、どうか龍も人間も死なないようにして下さいとな。そこで私が立ち上がったというわけだ」

 先ほどまでの重苦しい雰囲気とは打って変わってどうだと自慢げに胸を張った。

「人間の世界で怠惰の代名詞がナマケモノであるように、神の世界では惰眠を貪る者を龍と呼ぶ。それほどまでに龍とは眠ってばかりいる生き物だ。数年に一度だけ寝床を移動するために起き、移動してまた数年眠る。その移動だけに注意すれば人間界にも龍にも影響がないという話だ。そしてその寝床の移動が今というわけだ」

 話が壮大すぎるせいかやはり法螺話にしか聞こえない。ぺんぎんが語らななければ嘘だと切り捨てていただろう。

「それで龍を移動させるために僕は一体何をしたらいいんでしょう。話を聞く限りでは全く力になれないと思うのですが」

「八幡の役割は千年以上前から決まっている。私を海まで連れて行くことだ。海に着いたら私が通力を使って龍を引き寄せる」

 なんだそんなことでいいのか。長い前置きで脅しておきながら内容は大したことないじゃないか、その時は楽観視していた。

「さっそく今から行きますか」意気揚々と問いかける。

「今日はもう遅いから明日にしよう」

 窓の外を見ても何時頃か判然としない。龍のいる黒い雲が太陽の光を遮り朝なのか昼なのかはたまた夜なのか天気では読み取れなかった。ヘッドボードに置かれた目覚まし時計は午後の八時近くを示していた。

「一日遅れても大丈夫なんですよね」

 自分のせいで街が水の底に沈むことはなんとしても避けたい。

「この天気ならまだ大丈夫だろう。あせってはいけない。ただ、ぺんぎんのようにゆっくり図々しく進んでいくのが大事なのだ」

 ぺんぎんの言葉にほっと胸を撫で下ろす。

「決戦前夜と決まればきちんと身を清めなくはならない。いざ風呂場へ」

 床を勢いよく蹴る。勢いを殺さずに体を前に倒しトボガンの体勢に移行する。部屋を滑り出しそのまま廊下へ飛び出る。ぐんぐんと速度を上げてあわや玄関という所で風呂場へ綺麗に曲がって行った。ドアに思い切りぶつかった初日が嘘のような身のこなしだ。

「ほうら八幡も早く来い」姿は見えずともうきうきと仁王立ちするぺんぎんが容易に想像できた。

 ぺんぎんと共に風呂に入るのもすっかり慣れたものだ。初めて一緒に入った後は一週間病気にびくびくとしていたのも今となっては良い思い出だ。

 風呂に入って晩飯を食べてテレビのチャンネル争いをして寝床に入る。人間は慣れる生き物であると聞いたことはあったけれど、喋るぺんぎんというびっくり動物にも情が湧くほどに慣れるとは驚きだ。

 灯りを消しベッドに横になると下からぺんぎんの声が聞こえる。

「どんな出会いにも必ず意味があると思えてならないのだ」

 それは常の声色とは違う優しい声だった。

「そういうものですかね。僕は出会いは全て偶然の産物でしかないと考えてますよ」

 天井を見上げて返事をした。

「偶然とは神の別称だろう」小さな笑声が静かな部屋に響く。

「私と八幡の出会いには龍を止めるという意味しかないのだろうか」

 暗い部屋のせいだろうかぺんぎんの声が儚く悲しいものに聞こえた。

「神らしからぬ発言ですね。全てを見通す力こそが神でしょうに」

 確かにその通りだ。ふむふむとぺんぎんは納得した。

「今日はいつもと違いますね」常ならない態度のぺんぎんに違和感を感じていた。僕の問いかけは暗闇の中へ消える。数分の静寂の後この問いの返事が返ってこないことを悟った。

「以前の龍はどこで寝ていたんですか」静寂を切り裂く様に時折鳴る雷のせいで、嫌でも明日のことを考えてしまう。

「天竜川だな」ぺんぎんは東にある大きな川の名前を告げた。そして芝本さんとの雑談が脳裏をよぎった。

 天竜川は過去に何度も氾濫が起こっている暴れ川なんだよ。ほら、曲がりくねった川が龍にも見えるだろうと。

 地図を広げる芝本さんは笑顔だった。僕の状況を聞いてからでも彼は笑顔を崩さずにいられるだろうか。

「天竜川で眠りから覚めた龍は途中山で仮眠を取ってからまた移動する。龍が仮眠した跡には大き目の水たまりができたはずだ」

 身に覚えのある話が次から次へと発せられる。その水たまりは幻の池と呼ばれているのではないですか、そう聞きたかったが怖くて聞けなかった。

「もし明日移動に失敗したら」震える声でぺんぎんに問う。

「龍をおびき寄せるなんて大きな力そう何度も使えるものではない。それに龍も長距離移動することになるからな。引き寄せた場所が龍の次の寝床になるだろう。脅すわけではないが、龍が仮眠をするだけでそこそこの水たまりができた。完全な眠りについた場合ここは一年も持たずに湖となるだろうな」

 完全に脅しているじゃないか。抑えようとしても体の震えが止まらない。

「ベッドがキシキシ揺れているのだが、怖いのか」珍しくぺんぎんが僕を心配する。

「これは武者震いですよ」自己暗示の意味も込めて強がって見せた。

「神である私がいるから万事問題ない。明日に備えて今日はゆっくり寝るのが一番だ」

 もそもそと動く音がすると思ったらいつの間にかぺんぎんが布団の中に潜り込んでいた。ぺんぎんの温かな体を感じた途端不思議と震えが収まった。ようやく僕は眠ることができた。

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