彼の背中

初夏に入り、冷たさを残す生ぬるい風が鞠子の髪を優しく撫でた。靡く髪を手で包みながら、お天道様を見上げた。

「またこの季節がやって来る」

ゆっくりと瞳を閉じた鞠子のまぶたの裏には、あの光景が浮かぶ。


十年も前のことだった。

「鞠子。僕は行かないといけないようだ」

一緒に公園のベンチに座る彼の顔は暗かった。その右手には赤い紙が握りしめられていた。

どうして……、どうして……。

考えてもわからない。

二人の時間がかけがえのないものだったからこそ、鞠子にはわからなかった。

彼が私よりも戦争を選んだことが、手を引いて一緒に逃げようと言ってくれるだけでよかったのに。

彼の出向を祝うようにむすうの日の丸旗がバタバタと振られる。彼の両親さえも旗を両手に笑顔で彼を見送る。

喉まで出かかった思いを呑み込みながら、鞠子は影のない笑顔で、彼の手を握りしめて、いってらっしゃい、と送りだした。

彼はなにか言いたそうに微笑して、いってきますと返事をした。

遠ざかっていく彼の大きな背中を眺めながら、私の頬に一滴の涙が伝った。



終わりを告げるラジオ放送とともに、箱に包まれて、彼は帰って来た。

彼の両親は墓前でみっともなく泣いていた。

悲しみか、怒りか、それでも、そこにあるのは無価値な感情だった。

今更遅い。失ってから初めてそれに気づいても、彼はもう帰ってこない。もう、彼はどこにもいないのだから。

鞠子は、葬式には参列しなかった。

既に変わり果てた彼を見て、なんになるだろうか。

地面を這う蟻を眺めながら、鞠子は微笑んだ。こんな気分になるのはいつ以来だろうか。

お国のため、とただ時間を空費した日々を思えば、まだ積み重なる瓦礫を運ぶことはなんの苦にもならなかった。


空には不規則な形の雲が流れている。

鞠子は、お天道様に手をかざした。

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とても短いお話 みとゆひや @torini36

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