スラム街の交差点にて。
床崎比些志
第1話
わたしはその日、空港から出迎えの車で市街地のホテルに向かっていた。
ムンバイは雨だった。スラム街が近いせいか空港周辺の街並みはただでさえ気分的にも見た目にも暗い印象だが、雨に濡れると一層モノトーンの様相を帯びる。
インドの商都ムンバイは細い半島の突端にある港町だが、空港は内陸にあるため両地点を結ぶ道路はいつも混雑している。道路事情や交通マナーも悪いうえに雨が降るとさらに交通量が増し、三輪のオートリキシャや定員オーバーのスクーターやけたたましいクラクションの音もなども入り乱れた交通渋滞がそこかしこに発生する。
その日の渋滞はそれまではさほどでもなかったものの、目的地のホテルへ続く交差点にさしかかり、右折車線に入ったところで、立ち往生した。右折車線の列は信号が青に変わっても一向に前に進まない。見ると右折した先の道路も渋滞で糞づまっている。そこへ、トントンと窓ガラスを叩く音がした―――。
インドに来て二年。妻と幼い子供たちを日本においたままの単身赴任の日々。最初は孤独と仕事のプレッシャーと多くのとまどいから感情が不安定になり、想定外の反応や事態にでくわすたびに、感情の針がマックスまで振り切れることがよくあった。
そういえば、初めてインドに来たころは、交差点で車が止まると危険を顧みずに狭い車の間を縫うようにドッと押し寄せる売り子の一団にも呆気にとられた。本音をいえば、その厚かましさとあざとさに不快感さえ抱いていたようにおもう。
水売りの少年、花売りの少女、窓拭きの若者、ココナッツ売りのおじさん、曲芸師の親子など、どれもにわかには受け止められない光景だった。今ではむしろそうした物売りがインド政府の対外政策の一環により強制的に排除されようとしている現実に一抹の寂しさをおぼえるほど自分の中の日常風景となっている。
そして半年ほど前から、わたしも多くの比較的裕福なインド人が日常的におこなう喜捨の行為を見習い、そうした貧しい人々から乞われればできるかぎり小銭を渡すようにした。五ルピーやせいぜい十ルピー程度の施しだが、それだけでも心の矛盾がいくばくかほどけてゆくようであり、ほんの少しだけ気分も軽くなる。なかにはサンキューと両手を合わせて丁寧にお礼をいう物乞いもいる。そんなときは、むしろ自分が救われたような気分にさえなってしまう。
その日はあまり機嫌が良くなかった。デリー発の飛行機の出発が遅れたうえに出迎えの車がなかなか現れなかったためだ。よくあることなのだが、あいにくの日本の梅雨を思わせるようなシトシト雨のせいか、その日にかぎっていつまでも気分が晴れず、一刻も早くホテルに直行し、部屋にこもりたい気分だった。
―――そこへ物乞いがあらわれた。見ると背の高い黒髪の少女が雨の中を傘もささず裸足に半袖のブラウス姿で立っている。赤いスカートをはいているが色は汚れでくすんでいた。三つ編みの髪はほつれて、色もほこりのせいで茶色に変色している。そして物乞いであればだれでもそうするように、おでこを窓ガラスにくっつけんばかりに近よせ、じっと黒い大きな瞳で中をのぞき込みながら、片手で食べ物を買うためのお金をくれ、というジェスチャーをしきりにおこなう。
わたしはおしりのポケットから小銭入れを取り出すと、中身をよく確認せぬまま数枚の硬貨をつかんだ。そして少女の垢まみれの手には直接触れないように、半開きにしたガラス窓越しにその硬貨をやせ細った手のひらに落とした。いつもより多めに渡したようにおもったが、硬貨を受け取っても少女は礼をいうわけでもなく、無表情のまま黙って立ち去った。
しばらくして車はようやく右折した。しかし、予想どおり曲がった先ですぐに渋滞にまきこまれ、再び立ち往生。―――すると、また窓ガラスをこずく音がする。窓の向こうにはさっきの少女が立っていた。
少女は手のひらに置いた一枚の鈍色の硬貨を見せながら、黒い大きな瞳を見開いてなにかをしきりにいっている。てっきり催促にきたのだとおもったわたしは、ムッとした表情で右手で追い払うジェスチャーをした。
しかし、少女はいよいよ黒い瞳を窓ガラスに近づけ、そのまま立ち去ろうとしない。わたしはかなり不機嫌になって窓ガラスをふたたび半分開けた。すると、少女が硬貨を握ったまま手を差し入れた。よくみると少女の手には百円硬貨がのっている。どうやらまちがって日本のお金を渡したらしい。
少女はなにかを伝えようとするものの、ヒンズー語なので正確にはわからなかったが、それでもなんとなく、これはこの国のお金ではない、という意味のことをいっていると理解した。
わたしは少女の手から百円を受け取ると、十ルピーなんかよりもっと価値があるのに、と苦笑いをしつつ、小銭入れから十ルピーを取り出して、少女に手渡そうと顔を上げた。
しかし、少女は、こちらが手前勝手に推し量った見返りなどには目もくれず、すでに背中をむけて、細くて長い両足で水を跳ね上げながら交差点の反対側へ走り去っていた。
わたしは、一瞬でも彼女を疑ったことにはずかしさを感じた。同時に名も知らぬ少女のなにげなくも凛としたふるまいにすがすがしさをおぼえていた―――。
その様子はあたかも、自分は生きるために物乞いはしても泥棒ではないから、あなたが使う分のお金まで受け取るつもりはない、といっているようだった。
………わたしは百円玉を手の中で転がしながら灰色の街並みに消えた少女の陰を車窓からぼんやりと追っていた。了
スラム街の交差点にて。 床崎比些志 @ikazack
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