第81話 潮風はひそやかに

「アズー!」

 白い帆に海風を孕ませた船が沖合に向かって進んでいく。

 帆船がそこかしこに整然と停泊している港の一端。一艘の雄大な船の傍らで積荷をさばく船乗りたちの中に知った顔を見つけ、フィシュアは手を振りあげた。

「おう、フィシュア姫か!」

はやめてって、いつも言っているでしょう?」

「悪い悪い」

 アズーは作業の手を止めると、仲間と二三やりとりをして持ち場から離れた。

 駆け寄るフィシュアをアズーは真正面から受けとめ、勢いのまま軽々と抱きあげる。

 彼の弟妹たちと同じように扱われるのはいつものことで、くるりと一周まわった景色と浮遊感にフィシュアは「あはは」と笑った。

 地面に足がついた途端、今度は大きな手で乱暴に頭をかき混ぜられ、フィシュアは抗議の声をあげる。

 よく焼けた逞しい腕を押しのけると、海に似た鮮やかな青い瞳がのぞいた。日と潮風にさらされた髪はあらく茶けていて、人懐こい精悍な顔立ちをことさら明るく見せる。

 潮の香そのものの爽やかさで、アズーは破顔した。

「久しぶり、フィシュア。今帰り?」

「そう。アズーは今から出港なの?」

「いや、こっちも今、帰って来たところ」

「今回はどこに行っていたの?」

「ラマルだよ」

「東の端の小国か。ずいぶん遠いところまで行っていたのね」

「まぁな。ちゃんとお土産もある。えっと、フィシュアの分はいつ会ってもいいように確かここに入れたはず」

 アズーは足首で裾が絞られている以外はゆったりと膨らんでいる麻のズボンの左のポケットに手を入れると、がさごそと漁って、目当てのものを引っ張り出した。

 アズーが手を開くと、薄桃のまるい磨りガラスを幾つも組み繋いだ腕飾りが現れる。

「ラマルのお守りらしい。フィシュアはあっちこっちまわってるからな。いつも無事であるように」

 願いを込めながら、アズーはフィシュアの左手首へ薄桃の腕飾りを結びつけた。

 貰ったばかりの腕飾りを、フィシュアは贈り主に掲げてみせながら微笑む。

「ありがとう。でも、なんだかこの色は私には可愛すぎない?」

「そんなことないさ。ロシュにも買ってこようと思ったんだけどな。そっちにはさすがに似合わなそうだからやめておいた」

「正解ね。断りきれずに困りそうだわ」

 フィシュアはクスクスと笑いながら、自身の護衛官を思い浮かべた。常に朗らかな笑みを浮かべている分、似合わなくもないかもしれない。それでもどこから見ても武人然とした彼が愛らしい薄桃の腕飾りをつけていたら、ちぐはぐした感じも否めなかった。

「で? そのロシュはどうしたんだ? フィシュアが一人でいるのは珍しい」

「ちょっと別行動していたからね。まだ帰って来たばかりで、私もロシュとは会ってないの。今回の連れはあそこにいる二人」

 フィシュアが示した方向へとアズーは目を向ける。

 彼の目に映るのは栗色の髪の幼い少年と、黒髪の異国人らしき若い男だ。

「また、随分と変わった連れだな。黒髪ってことは母さんと同じ東の出か?」

「そう。カーマイル王国。まあ、色々あってね。途中で別れるはずだったんだけど、結局皇都まで連れてきちゃったのよ」

「そうなのか。まぁ、それも何かのめぐり合わせだろう。フィシュアにとって悪い方に働かせないならそれでいい」

「ええ。それは心配しなくても大丈夫」

 フィシュアは離れた場所で待つ二人を見つめ、請け負う。

 アズーが見ている先で、昔からよく知る藍色の双眸が、やおら穏やかな光を纏った。アズーは『へぇ』と胸中で得心し、フィシュアの背を褒めるように叩く。

 それにしても、とアズーは喜色を隠さぬまま、苦笑した。

「あの子、海に落ちそうだな」

 時折、白波がたつ真昼の海を一心不乱に見続けている少年。もっとよく見ようと港の縁に身体を乗り出すたび、連れの男が少年の服を掴み、かろうじて引き留めている。

「あぁ。テトは海を見るのが初めてらしいの。すっごく感動したみたいでなかなか動きそうになかったからアズーを見つけた時にシェラートに頼んで、ちょっとだけこっちに来たの。アズーに少し話しておきたいことがあったから。シェラートに任せておけば万が一にもテトが海に落ちることなんてないから安心して?」

「仲がいいんだな」

「ええ。あの二人ははたから見ていても、とっても仲がいいわ」

 アズーは拳を口元にあて笑いを堪える。

「あの二人がじゃなくて、、だ。すごく優しい顔してる。大切なんだな」

 顔をあげたフィシュアに向かって、アズーは青の瞳を細めて柔らかに笑む。

「それで? 話っていうのは?」

「……あ、ええ……」

 言葉を濁したフィシュアは、続きを探して視線を彷徨わせた。凪いだ海のように静かに見下ろす青の瞳に促されようやく、頭を切り替え顎をひく。

 アズーをしかと見据え直し、フィシュアは口を開いた。

「もしかしたら近いうちに訪ねるかもしれない」

「ティアたちか?」

「いいえ、サーシャ様の方」

 重々しいフィシュアの口調に、アズーは吟味するよう表情を改める。

「なんだ。何かありそうなのか? シュザネのじいちゃんには?」

老師せんせいには、これから言いに行くけど、義姉様とロシュからもう話は通っていると思う」

「そうか……。クィーナにも声かけておいた方がいい?」

「できるのならば」

「わかった。任せておけ。俺たちにもできることがあったら言ってくれよ。父さんもまだなんとか使えると思う」

「そんなこと言ったら怒られるわよ。今でこそアズーが追い抜かしちゃってるけど、アズーに剣術を教えてくれたのはガジェン様でしょう? だけど、警備隊だけで何とか手が打てないものかとは思ってる。アズーたちの手を煩わせないためにも。でも、もしもの時は手伝いを頼むかもしれないから。詳細はその時に話す」

「何もないのが一番いいんだけどな」

「善処します」

 憂いなく元通りの微笑みを浮かべたフィシュアの肩をアズーは励ますように叩く。そのまま顎をしゃくり、「呼んでる」とフィシュアの意識を少年と男が待つ方へ促した。

 フィシュアが横を向くと、テトが大きく手を振っている。

「ちゃんと伝えておくから必要になったらすぐに言うんだぞ!」

 連れの二人の方へと駆けだしたフィシュアの背中に、アズーはそう投げかけた。

 一度振り向いてみせたフィシュアは「ありがとう」と笑って、これもね、と薄桃の腕飾りを指し示す。

「本当に何もないといいんだけどなぁ……」

 嘆願の入り混じるアズーのぼやきは強い潮風に煽られる。見守る先で、二人の元に辿り着いたフィシュアに届くことはなかった。



「ありがとう。お待たせ」

 戻って来たフィシュアの顔を、テトはじっと見上げ、そのまま首を傾げた。

「え、何? どうしたのテト?」

 帰ってきて早々「うーん」と唸りながら自分を覗きこんでくるテトを前にして、フィシュアは腰を落とす。

 目線の高さが同じになったフィシュアをまじまじと見つめたテトは確信を得て、シェラートを振り仰いだ。

「うん、やっぱりちょっと違うみたい」

「何? 何の話?」

 答えを求めるべく、フィシュアはテトとずっと一緒にいたはずのシェラートを見あげた。不可解そうなフィシュアの視線を受けたシェラートは、ふと口の端をあげて笑う。

「フィシュアの瞳の色が海の色とは違ってたんだとさ」

「ああ……」

 そういえば初めて出会った時、テトがそんなことを言っていたな、とフィシュアは思い出した。懐かしく、随分と昔のように思える。けれども、実際はまだ一月ひとつき程しか経っていないのだ。

「どっちも綺麗な青だけど、フィシュアのはやっぱり首飾りの……ラピスラズリの色に似てるよね。ね、シェラートもそう思うでしょう?」

「ああ、そうだな」

「なんだかやっぱりシェラートはどうでもよさそうね」

 相変わらず興味なさげなシェラートの言いようを、フィシュアはどこかおかしく感じる。

「まあ、どうでもいいからな。瞳の色が何に似てようが人の本質には関係ないだろう」

「それはそうだけど」

「もうっ! シェラートは難しいことばっかり。僕はただフィシュアの瞳の色が綺麗って言ってるだけなのに」

 むくれるテトと一緒に、フィシュアは非難を込め「ねぇ〜」と互い違いに首を傾げてみせる。

「まあ、瞳の色は確かに綺麗だと思うけど」

「悪かったわね、顔は綺麗じゃなくて」

「誰もそこまで言ってないだろう」

 膝に手をあて立ちあがったフィシュアに、シェラートは呆れた口調で言う。

「けど、フィシュアは綺麗っていう部類には入らないだろうな。肌も白くはないし」

「仕方がないでしょう。ずっと外を歩いてるんだもの。日に当たれば焼けちゃうし、染みついちゃった荒れはいくら手入れしても、なかなか治らないんだもの」

「だけど、それがフィシュアだろう」

 シェラートは困ったように苦笑してみせると、一度だけフィシュアの頬を指の背で撫ぜて言った。

「別に日に焼けていても、そういうのが積み重なって今のフィシュアができてるんだからな。それはそれでいいんじゃないか?」

 予想もしていなかったシェラートの労いに、フィシュアは虚を突かれ押し黙った。聞き違いではないらしいと理解するにつれ、苦笑いが漏れる。

「ごめん……なんか、シェラートがそういうこと言ったりすると本当に調子狂うんだけど。ちょっと、やめてほしい」

 不審も顕わなフィシュアを前にして、シェラートはただおもしろそうに、ふっと吹き出した。フィシュアの頭を軽く小突く。

「面倒くさい奴だなあ。結局、褒めても文句言うのか。せっかく最大限に褒めてみたのに」

「最大限って、失礼ね! しかも褒めてみたって、ちっとも褒めてないじゃない!」

 憤然とするフィシュアをよそに、シェラートは「行くぞ」と告げて、テトを抱きあげる。

「ヴィエッダとの約束の品も全部買い終えて送ったし、あと寄る場所は警備隊の詰所だけなんだろう? なら、早く行こう」

 抱きあげられたテトはシェラートの肩からひょっこりと顔を出すと「大丈夫、フィシュアはちゃんと綺麗だよ!」と立ち止まったままのフィシュアに手を振ってみせた。

「うぅ……テトの言葉も今は慰めにしか聞こえない」

 フィシュアは項垂れながら、顔を歪める。

「だけど、もう、本当にやめてほしいのよ……」

 ひそやかに溜息を落として前を進む二人を見据える。手の甲で頬を拭い、フィシュアは距離の開いてしまったテトとシェラートの後を追いかけた。

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