第52話 テトラン【1】

 蝶によってもたらされた病は、エルーカ村に大きな爪痕を残した。

 原因である蝶——キックリーレを駆除することはできない。

 なぜなら、キックリーレは本来エルーカ村が属するミシュマール地方とは他地域の——ガンジアル地方にしか生息しない希少な蝶だったからである。

 フィシュアは山間の小さな村で起こった奇病と原因、その対処薬の作り方についてまとめた報告書をホークに託して皇都へと送った。

 まもなくこの国の誰もがエルーカ村の奇病のことを知るだろう。

 そしてその時、奇病は奇病でなくなる。

 解決法のある新しい病として認知されるのだ。

 だが、そうではなかった村人たちはどこかやりきれない気持ちを残しながらも、元通りとは言えない元の生活を再開した。



 テトとフィシュアは村からのびる小道を二人並んで歩いていた。

 二人の後ろからは、シェラートがゆっくりとついてくる。

 丘へ続く道の脇では、白い小さな花々は、まるで自分はここにいるよ、と呼ぶように咲き誇っていた。

 細やかな木漏れ日の元、テトとフィシュアは白い花を一つ摘み、また一つ摘みながら束ねていく。

 テトの母の墓へと向かうその日の朝、「近くの街まできれいな花を買いに行きましょう」と誘ったフィシュアに、テトはかぶりを振った。

「お母さんは、野に咲く花が一番好きだったんだ」

 寂しそうに、幸せそうに、大好きな母を思って、テトは笑う。

「だから、一緒に花束をつくってくれない?」

 テトの提案に、フィシュアは「もちろん」と頷いた。

 だから、花束をつくるため、二人は時折、足を止める。そよ風が、花を揺らしながら、テトの前髪もさすっていく。

 道端に咲く花を摘みながら、三人は丘の上に建てられた墓地へと歩を進めた。



「テト。私、明日ここを発つわ」

 もう少しで丘の上に着くというところ。唐突に告げられた別れに、テトは隣を歩くフィシュアを見あげた。

「エルーカ村の病もだいぶん落ち着いてきたし、私がいなくても警備隊のみんなに任せれば問題ないと思う。彼らも、あと少し村の立て直しに目処がたてば引きあげることになると思うけど、定期的に様子を見に来てくれるわ。その分、私は早く皇都へ戻ってこの病の対策をもっと練らなくちゃいけないから。他の仕事もあるしね」

「そう、なんだ……」

 わかってはいたが、やはり寂しくて、テトは誤魔化すように足元に転がっていた石ころをこつん、と蹴った。

 小さな石は前をころころと転がり、やがて、また歩くテトの足元へやって来る。

「テトはこれからどうするの?」

「どうしよっか」

 これから先のことなど、テトにはまだ思いもつかなかった。

 母が亡くなり、シェラートとの契約も切れ、フィシュアもいなくなるという。

 もちろん村の皆は手助けしてくれると思うが、自分のことで手一杯なのは、皆も同じだ。

 これから先、一人でどのように暮らしていくんだろう、という漠然とした不安はテトの中にずっとあった。

 ただ、本当に想像ができているかというと、母のいないたった一人の生活なんて、まだ想像することすら難しいというのが正直なところだ。

 地面ばかりを見ていたテトに、「ね」とフィシュアが声をかけた。

「テトさえよければ、私と一緒に皇都へ来ない?」

「え?」

 戸惑いを隠せず隣を見れば、フィシュアは慌てたように続けた。

「――あ、無理に、とは言わないわ。テトがここで暮らしたいって言うなら、もちろんそうしていいし。テトがこの村のことを大切にしているのもちゃんとわかっているから。ただ、皇都には皇立学校もあるし、テトはなかなか筋がいいから、きっといろいろなことが学べると思うの。もちろん、衣食住は心配しなくていいわ。私がきちんと手配するし。それに、テトが見たがっていた海もあるわ。他にも……」

「一緒について行ってもいいの? 一緒に……いてもいいの?」

 自分に都合のよすぎる提案がうまく信じられなくて、テトは聞き返す。それでも、じわじわと込みあげてきた嬉しさは、ごまかしようがなかった。

 フィシュアは破顔する。いつものように髪をなでてくる。

「当り前じゃない」

 返された答えに、テトは迷うことなく頷いた。



 フィシュアは、振り返ると後ろを歩くシェラートに声をかけた。

「シェラートはどうする? 別に急ぎの用がないなら、テトもいるし、ついて来てもらえると助かるんだけど」

「そうだな、俺もついていくか」

「本当!?」

 すぐに返ってきた同意に、テトは嬉しそうに声をあげた。

 走り寄って抱きついてきたテトを、シェラートが慣れた仕草で抱えあげる。

「別に元いた街に用もないし、フィシュア一人じゃテトが心配だからな」

「なんなら、今度は私が契約者になってあげてもいいわよ?」

「断る。そんなことになったらこき使われるのが目に見えてる」

「あら、残念」

 すげない答えに、フィシュアは肩を竦めてみせる。

 初めて会った時と変わらない少年と魔人ジンという奇妙な組み合わせと向きあってフィシュアは口元を綻ばせた。

「それじゃあ、二人とも。皇都までよろしくね」


***


 小高い丘の上。この辺りで一番見晴らしのよい場所にエルーカ村の墓地はあった。

 背の高い木々に囲まれた道を抜けた先で、ぽっかりと切り開かれた空間は陽に照らされ光に満ちている。ひとたび丘の上に立てば、そこから見えるのは、緑溢れる山々と、青く澄み渡る空、そして、エルーカ村だった。

 今は亡き村人たちが、丘の下に広がる小さな村をいつも見守っている。

 

 掘り返されたばかりで、まだ草に覆われていない明るい色をした盛り土が目立つ。

 建てられたばかりの真新しい木の墓標に彫り飾りはほとんどなく、申し訳程度に横線が一本添えられていた。

 それが見渡す限り、墓地いっぱいに広がっている。

 その全てが今回の病で亡くなった人の多さを表していた。


 テトは形が崩れて古くなった墓の横にある小さな新しい墓の前に立った。

 ここがエリアールに教えてもらったテトの母が眠る場所である。

 テトは摘んできた小さな花束を古い墓と新しい墓の両方の盛り土の上にそっと置いた。

「こっちはお父さんのお墓なの」

 そう言いながら背丈の低い草で覆われた墓を指差すテトの横にフィシュアは腰をおろした。

「僕がまだ二歳の時に死んじゃったから、あんまり覚えてないんだけどね。お母さんがいっぱいお父さんの話してくれたんだ。すごく優しくて、強い人だったって、だから僕もお父さんみたいに優しくて、強い人になるんだよって。強いっていうのはただ力が強いのとは違うんだよ、説明するのは難しいけど、いつかテトが自然とわかって、そうなってくれたら嬉しいなって、お母さんよく言ってた」

「そう」

「お母さんはお父さんがいなくなってから、ずっと一人で僕を育ててくれたの」

 テトはまだ新しい小さな墓を見つめる。

 土と墓標だけの質素な墓。

 そこにかつての母の面影など一つも見つけられない。

「お母さん……、僕、頑張ったよね?」

 返ってくる言葉はなかった。

 ただ、風がそよそよと吹き、供えられたばかりの小さな白い花が音もなく揺れる。

 フィシュアは、テトの頭を胸に引き寄せる。

 同時に、テトの黒い瞳からぽとりと雫が落ちた。

「お母さんっ……!」

 エルーカ村に着いてからテトが初めて流した涙は、次々とこぼれ、まだ新しい土の色を焦げ茶へと変えていく。

 一度、あふれてしまうと止まらなかった。

 嗚咽が混じり、しゃくりあげる。本格的に泣き出したテトをフィシュアとシェラートは黙って見守った。

 辺りには、葉の木擦れと鳥のさえずりが、まるでテトを慰めるかのように優しく響いていく。

 だが、そのどちらもがテトの心を癒すにはいくらも足りなくて、苦しいほどの悲しみに打ち消されてしまった。


「テト、母さんに会いたいか?」


 ようやくテトの涙が治まりはじめた頃、二人の後ろに無言で立っていたシェラートが不意に問いかけた。

「会いたい」

 テトは答える。

「会いたい」

 シェラートと向きなおったテトは絞りだすように繰り返した。

 小さくも、迷いのないはっきりとした答えだった。

 誰もがその願いが叶わないことを知っている。

 だからこそ、フィシュアは不思議に思ったのだ。

 なぜ、シェラートがそんなことを聞くのかを。

 ただでさえ、悲しみに沈んでいるテトに、誰よりもテトのことを大切に思っているシェラートがそう尋ねたことに違和感を覚えた。

 テトに寄り添ったまま、フィシュアは目の前に立つ魔人ジンを見あげる。

「テト、母さんに会わせてやる」

「――!?」

 驚愕を通り越し目を見開く二人の前で、魔人ジンは無言で魔法を使い、瞬く間に転移したそれを宙から引き掴んだ。

 魔神ジンの手の中にしっかりと握り込まれたものに、フィシュアは息をのむ。とっさに片手を伸ばし、隣にいるテトをかばった。

「シェラート。……あなた、何を考えているの?」

 彼の手の中に納まっているのはフィシュアには見慣れた——村に置いてきたはずの宝剣だ。

 太陽の光を受け、鞘にあしらわれた色とりどりの宝石が場違いにまばゆく輝く。

 宝剣の鞘をゆっくりと外したシェラートは、姿を現し鋭く光る短剣の切っ先をテトのほうへまっすぐ向けた。

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