第3章 強い光

第39話 穏やかな朝

 フィシュアは目を覚ました。

 白みだした空に、太陽の姿はまだ見えない。

 いつもの時間、いつものように目が覚めた。身体に染み付いてしまった習慣はいつしか習性となっていて、自分の意識とは関係なく、まるで空が明るくなりはじめるのを図ったかのように目が覚めてしまう。

 身体を起こしたフィシュアは、寝台の横にある窓の外へ視線を向けた。

 白けた空が徐々に色合いをもって染まりはじめた。街の奥に見える山の端が、その流線状をかたどるかのように黄金に輝いている。

 しばらくすれば太陽が顔を出すだろうその景色を、刻々と変わりゆく空の色を、フィシュアはぼんやりと眺めていた。

 いつもならすぐに覚醒するはずの頭が今日はどこかかすみがかかったように白くかすんでいる。

「やっぱり、全快ってわけにはいかないか」

 窓から目を離したフィシュアは苦笑しながらひとりごちた。それでも昨日に比べれば随分と身体が楽なことをありがたく思う。

 完全ではないにしろ覚醒しはじめた頭を回転させながら、今日の予定を確認する。

 まず、はじめにやるべきこと。

 テトの村に行く前にやっておかなければいけないこと。

 それは昨夜行うことの叶わなかった、ここバデュラの警備隊の詰所の視察だった。強盗団を捕まえて気づかれないうちにさっさと終えてしまおうと思っていたのに、全部ばれてしまった上に迷惑ばかりかけてしまった。ついまた情けなくなってしまう気持ちを振り払う。

 息をついたフィシュアは寝台から床へと降り立った。伸びをする。

「さて、今日こそ早いとこすませないと」

 自らを奮い立たせ、フィシュアは思いっきり息を吸い込んだ。


「きゃああああああああああああ!!」


 甲高く長い悲鳴が、夜が明けたばかりの空に響き渡った。

 詰所の屋根にとまっていた鳥たちが、バデュラの街にいるすべての鳥たちが、いっせいに飛びたちそうなその叫び声に驚いてテトは飛び起きた。

 声の主に気付き、テトは向かいの寝台にいるシェラートに目を向ける。

「シェラート!」

 焦る気持ちのまま、テトは呼びかける。

 同じく目を覚ましていたシェラートはテトの言わんとしていることに一つ頷き返すと素早く転移した。



「あれ、シェラートが来ちゃった」

 平然と立っていた悲鳴の主にシェラートは脱力した。

 誰かが押し入った跡も、部屋が荒らされた跡もない。昨夜と変わらぬ部屋の様子、昨夜よりは顔色がよい彼女は意外そうに小首を傾げた。

 月の光で琥珀に輝いていた腰まで落ちる長い髪は、今もまだいつものようには結んではおらず、登り始めた太陽に照らされ黄金に輝いている。

 脆弱だった濃い藍の瞳には強い光が戻っていた。

 昨日の今日だ。何事かと慌てて来てみれば何てことはない。

「……お前、何やってんだよ」

「ん? テスト」

「テスト?」

「そう。抜き打ちテスト」

 フィシュアはぽすっと寝台の端に腰かけた。

 扉を見つめる藍の瞳に鋭い光が走る。と、同時に勢いよく扉が開け放たれた。

「――宵姫様、ご無事ですか!?」

 早朝にもかかわらず、きっちりと警備隊隊長服に身を包んだヴェルムが剣を片手に飛び込んで来た。

 ヴェルムはフィシュアの目の前に立つシェラートの姿を捉えると、目を見開いた。

「シェラート殿!?」

 想像しなくてもわかるヴェルムの誤解にシェラートは溜息をつく。

 代わりにフィシュアは悠然と微笑んだ。

「うん、悪くない。服装も帯剣も完璧。到着も、まぁ早いほう」

「は?」

 いきなり紡がれたフィシュアの言葉が理解できず、ヴェルムは呆気にとられた。

 そのヴェルムの後ろから次々と警備隊の面々がなだれ込んでくる。

「宵姫様!」

「何事ですか!?」

「いったい何が!!」

 はじめの方にやって来た隊員たちはヴェルムと同様完璧だった。しかし、次第に寝癖のついた者、寝着姿のままやって来る者が増えてきた。それでも、それはマシな方だった。彼らはちゃんと警備隊には必須の剣を引っ掴んできていたからだ。中にはその剣すらも慌てすぎたのか忘れてきてしまった者まで出てきた。

 フィシュアは頭を抱えた。

「丸腰で来た者は、そんなに体術が秀でているのか?」

 指摘された者たちは一様に、身を縮こませる。

 なんなんだこの状況は、と、シェラートは入り乱れる部屋の様子に理解が追いつかず立ち尽くした。

 そのうち飛び込んできたのはテトだった。

「フィシュア!」

 息を切らしながら部屋に走り込んだテトは、すでに集まっていた二十人を超える男たちに目を丸くした。

 けれども、部屋の奥、寝台に腰かけた目的の人物を捉えると、彼らの間を縫って駆け寄る。

「フィシュア! 大丈夫? どうしたの?」

「何でもないのよ。テトまで起こしちゃったか、ごめんね」

 先程とは打って変わって柔らかな表情で少年の栗色の頭をなでる宵闇の姫に一堂に会していた隊員たちは皆、表情を和ませる。

 しかし、当のフィシュアは顔をあげるや、鋭い眼光を集った警備隊へと走らせた。

「扉を閉めろ」



「さて、ここに集まった面々は単純に合格、としたいところだけど……ヴェルム」

「はい」

「日頃指示している配置や担当的にはどうだ? 来るべき者は来て、来ないべき者は来ていないか?」

 フィシュアの問いかけに、ヴェルムは「そうですね」と集った隊員を見渡した。

「……お察しの通り、配置場所と仮眠室が近かったとはいえ来るべきでない者もおりますね。間にあっていない者も若干いますが」

「連絡がまわって来なかったとはいえ、偵察にこの人数は多すぎるからな」

「申し訳ありません」

 ヴェルムは頭を下げる。

 二人のやり取りを見ていたテトは、「だけど、フィシュア」と、フィシュアの服の袖を引っ張った。

「みんな、フィシュアのことが心配だったんじゃない?」

「テト……うううん、それは、ありがたいんだけどね?」

 テトの言葉に呼応するように頷いた一部の面々を、フィシュアは一睨みする。

「そういう問題じゃないのよ。気になるからって、みんなが動いたら最悪全滅する」

 だいたい、とフィシュアは語気を強めた。

「ここに剣を忘れた者は次は気をつけるように。早いのはいいけど丸腰じゃただの足手まとい! どんな時でも冷静に。非常事態でも焦りは禁物。その焦りが判断を鈍らせる」

 集まった面々は一様に神妙な面持ちでフィシュアの苦言に頷いた。

 その一種奇妙な光景にテトもシェラートも呆気にとられる。

 フィシュアはヴェルムへ視線を向ける。

「扉の外にも何人か来ているようだけど、もし駆けつける気で来たと言うのだったら、部屋が離れていたにしろ一般人の――それもまだ子どものテトより警備隊が遅れるようじゃ困る。それだと緊急事態に対応できない。どういうつもりで来たか確認をしておくように。私の声が聞こえた範囲の人員の動きと、どこまでどういう情報がまわったのかも。まだ部屋で眠りこけている者は論外」

「はい」

「それから、私たちが来たときに提示する監査対象の書類は把握しているな? 悪いが急いでいるから、朝のうちに持ってきてくれ」

「承知しました」

 身を固くしたヴェルムにフィシュアは表情を緩めた。

「何か懸念事項があったら、まとめて上にあげるから遠慮なく言え」

「いえ。おかげさまでエネロップの件は片がつきました。その他は定期報告にてあげているので問題ありません」

 そうか、とフィシュアは顎をひく。

「では、私からいくつか。ヴェルム、その後ろの三人も。お前たちは今回、ほぼ完璧だった。その様子だと夜明け前から起きていたのだろう? いつ何時何が起こるかわからないから警備が手薄な朝にもうまく対応できるよう準備しておくのは得策だ。動きも迅速だった。その態度を部下たちにもきちんと指導するように」

「はい!」

 自分たちよりもずいぶんと年若の――いっそ小娘とあざけっても差し支えないフィシュアの褒めと忠言にヴェルムたちは嫌な顔をするどころか、いっそ誇らしげな表情を浮かべた。

 成り行きを見守るテトとシェラートは互いに声を出せないまま目配せをする。

 次にフィシュアは寝癖ついた者や寝着姿の男たちの方に向きあった。

「自分がどんな状態にあっても守るべきものは守るというその心がけは変わらず大切にしてほしい。格好がなってないからといって、気にするほどのことでもない。格好を気にしすぎて間にあわなければ意味はないからな。ただ、隊服の防具はお前たち自身を守ることに繋がるから、でき得る限り完璧に身につけるように。それから、ここに来るべきでなかった者は、再度自分に与えられた担当の大切さについて考えておくこと。それでも、動いてしまった理由とその心自体は尊ぶところでもあるから、自分の役目は考えつつ、手放さないように」

「はい!」

 やはりこちらの警備隊たちも照れたような嬉しそうな笑みを零した。

 最後にフィシュアが向きあったのは剣をうっかり忘れてきた者たちだった。彼らにフィシュアが放ったのはたった一言。

「いっそ体術もあげろっ!」

 あまりに短い忠言に、彼らは一様にぽかんと呆けていたが、次の瞬間、素早く背筋を伸ばすと、いっせいに口をそろえて意気込んだ。

「はい、頑張ります!」

 各々握った拳を突き出し、前に乗り出さん勢いの彼らにフィシュアは苦笑した。まわりでは他の隊員たちも苦笑いを浮かべている。

「いや、一応、皮肉だったんだが。まぁ、他の技術をあげておくことに損はないから。その調子で励むように。以上、解散! みんな、食堂へ行ってしっかり朝食をとるように!」



 あの、とフィシュアは居心地が悪そうに声をあげた。

 警備隊の皆が退出してしまった後も、部屋に残っているテトとシェラートはいつまでも動く気配がない。

「……出ていってくれないと着替えられないんだけど」

 困惑顔のフィシュアの頬にシェラートは手の甲でひたひたと触れる。

「熱は無いな」

「おかげさまで」

「フィシュア、本当に大丈夫?」

 いつの間にか寝台へとよじ登ったテトが、フィシュアの顔を覗き込んだ。

「うん、大丈夫よ。ありがとうね、テト」

 いつものように柔らかな栗毛をフィシュアはなでた。朝早くということもあり、寝癖のついた髪はところどころぴょんぴょんと跳ねている。

 けれども、いつもとは違い俯いてしまったテトにフィシュアは顔を傾げた。

「テト? どうしたの?」

「あの、フィシュア、ごめんね、守れなくて……」

 下を向いたままぽつりと呟かれたテトの言葉にフィシュアは目を丸くした。その言葉が昨日のことを指していることは明白だった。

 テトの頭を梳くようにもう一度なでると、フィシュアはそのまま小さな体を包み込んだ。

 腕の中にすっぽりとおさまってしまった小さな身体は温かくて、とても優しい。

「いいのよ、テト。守るのは私の仕事だもの。私こそ恐い思いさせてごめんね。心配かけてごめんね。でもね、嬉しかったわ、テトが来てくれて。すっごく驚いたけど、本当にすっごく嬉しかった。だから、ありがとう」

 ぎゅっと抱き締めたフィシュアを、テトはそろそろと抱き締め返す。

 互いに腕を解き、顔を見合わせあう。フィシュアを見あげたテトは、かぶりを振って、はにかんだ。

「ううん、フィシュアこそ守ってくれてありがとう」



 テトと一緒に部屋を出ようとしたシェラートはふと立ち止まり、いまだ寝台に腰かけているフィシュアへ声をかけた。

「そうだ、フィシュア。着替えた後もここにいろよ?」

「なんで!?」

「まだ少しぼうっとするからずっと座っていたんだろ?」

 図星をつかれ、フィシュアはシェラートから逃れるように、視線を彼の横にある木目の壁へとずらした。

「食堂まで運んでやるから、ここで待ってろ」

「え、いや、それは、かなり恥ずかしい! ……というか、もう充分自分で歩けるし!」

 警備隊の皆の前であんなに偉そうなこと言った手前、そんなことになったら恥ずかしすぎていたたまれなくなるのは目に見えていた。

 あたふたと動揺しはじめたフィシュアなど、お構いなしにシェラートは続ける。

「今日は山越えだからな。飛ぶって言っても平地と山とじゃ環境も変わるし、体力はできるだけ温存しておけ。無駄な体力は使うな。テトの村まで連れていって欲しいなら諦めろ」

「え」

 食堂に降りるのは無駄な体力じゃないでしょう!? というフィシュアの無言の訴えは同じく無言によってあっさりと却下された。

 なんとか抱えられて皆の前にでるのを避ける手段はないかと考えあぐねいていたフィシュアにかかったのは、テトによる更なる追い打ちだった。

「フィシュア、また倒れちゃったら困るし、そうしよう?」

「うっ!」

 ね、と心配そうに見あげられた黒の瞳に逆らえるはずもなく、フィシュアは渋々――半ばやけっぱちで首を縦に振りおろした。



 こうして食堂まで抱きかかえられ運ばれることとなったフィシュアは恥ずかしさのあまり真っ赤になった顔を隠すくべく黒髪に埋めたまま階下へと降りてきた。

 その早朝、食堂に集まっていたバデュラの詰め所で働く面々は滅多に見られない宵闇の姫のそんな表情を微笑ましくも、どこか得した気分で眺めることとなったのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る