第38話 宵闇の姫【12】

 上空の風が強いらしい。影を孕んだ薄雲が星空を巻き込んで勢いよく流れていく。

 腕に抱えている人物があまりにも動かないので、シェラートはもう一度、傍にあった髪の束を軽く引っ張った。

「どうした? 疲れたか?」

「うん、そうみたい。風、気持ちいけど、今ちょっと辛いかも」

 体勢を変えないまま呟かれた申告にシェラートは溜息をつく。

「だから寝ろと言っただろう」

「うん、ごめん」

 シェラートはフィシュアの部屋の前へと転移し、今度はためらいなく扉を開けて抱えていたフィシュアを寝台へとおろした。

 フィシュアも今度こそ文句を言わずにごそごそと掛布の中へと入る。気だるさに任せ目を閉じようとした時、シェラートが寝台の脇へ椅子を持ってきているのが目に入った。

 シェラートはその椅子の上へ腰を下ろすと腕を組む。

「え? 何?」

「寝るまでここで見張る。抜け出されたら困るからな。またへたり込んでいるのを拾いに行くのはごめんだ」

「そんな、子どもじゃあるまいし」

「俺から見たらフィシュアもテトとあまり変わらないくらいには子どもだ」

「あ、そっか。シェラートって二百年以上生きているのよね。見た目は若いのに中身はその辺のおじいさんよりもずっとおじいさんだもんね」

 うるさい、と言いながら見た目だけは二十代のシェラートは、笑い出したフィシュアの額をぺちんと叩いた。

 シェラートの手をどかしながら、痛いじゃないか、と文句を言おうと、フィシュアは見あげる。だが相手の翡翠の双眸に、思いのほか労りの色が滲んでいて、フィシュアは言葉をのみ込んだ。

「なぁ、どうしてわざわざ辛い道を選んだ。宵闇の姫なんて元々はなかったんだろう? 宵の歌姫だけでも充分大変な思いはしていたんだろう? なぜ他の責任まで背負った」

 それは、と呟いた後、フィシュアはためらうように一度口を閉じた。寸の間、思いを巡らせてフィシュアは微笑む。

「ねぇ、カルレシアの花って見たことある?」

 いったいどういう趣旨でそんな話になるのかと、戸惑いつつもシェラートは頷いた。

「小さな黄色い花だろう?」

「そう。はじめて見た時は驚いちゃった。だってすっごく可愛いし、どこか儚げなの。こんな可憐な花の下に猛毒を持つ根があるなんて信じられなかった。でも、毒があるのにはちゃんと理由があるのよ。もし、地上に出ている花の部分を食べられても毒のある根が食べられることはない。根絶やしにされることはない。根さえ残ればまた芽を出すこともできるでしょう? 毒はカルレシアの小さな花が生き残るために考えだした手段なのよ、きっと」

 私も同じ、とフィシュアは息をつく。時折、休みながら彼女は話した。

「生存率をあげるため。物心ついた時にはもう宵の歌姫になることは決まっていたし、暗殺を避けるために毒に耐性をつけなくちゃいけなかった。でも、それだけじゃ足りなかった。

 十歳くらいの頃にね、襲われたの。不意打ちだったのもあって、逃げるのも避けるのも間にあわなかった。私を庇って、護衛官が切られた。その後も必死に逃がしてくれたんだけど、彼は瀕死の状態だった。その時思ったのよ。あぁ、このままじゃだめだって。このままだと二人とも死んでしまう。少なくとも私を庇おうとした人は死んでしまうって。

 だから強くなろうと思った。他の誰かを庇いながら一人で戦うよりも、二人で相手をした方が生き延びる可能性は確実にあがるでしょう? どうせやらなければならない仕事だもの。一人でするよりも、二人でした方が絶対に早く片付くでしょう? 例えそれがどんなに小さな力でも、やっぱりないよりかはあった方が助かるわ。

 だから私はこの道を選んだ。宵闇の姫をね、わざわざつくったわけではないの。そう呼ばれるようになったのはついでみたいなものでしかないのよ」

 シェラートは何も言わなかった。ただ、静かに翡翠の双眸がフィシュアを見下ろしていた。

 フィシュアはそんなシェラートを見ながら苦笑し、また語り出した。

「シェラートも見ていたでしょう? 急所しか狙えないのよ、私。それは、時間がなかったから。早く強くなりたかったから。確実に相手を倒す技術のほうが必要だったから。だから手の抜き方がわからないって言った方が正しいの。だってそんなこと学んでる暇なんてなかったのよ。

 確実に相手を殺せる箇所を習ったの。だけどむやみに殺したいわけじゃないから、あの宝剣を使っている。相手を殺してしまうよりも、牢に入れて苦役をさせた方が罪の深さを知らしめることができるし、牢でさせられる労役はいくらか人々の生活のためにも役立つと思うから。

 でもそんなきれいごとばっかりじゃない。人を殺したことだってもちろんある。それは、私にとってすべきことでもあったけど、でもそんなのは言い訳にはならないってこともわかってる。人の命を奪うという点では私も牢に入ってる人殺したちと変わらない。ロシュは――私の護衛官はそんなことはないって言ってくれるけど、やっぱり同じなのよ。私の手は血に濡れている。それは私が負わねばならない責、負うべき責。

 私はこの道を選んだことを後悔してない。だって、私が選んだんだもの。後悔したら選んだ自分を否定することになるもの。

 だけどね……さっきも言ったけどそれでも、やっぱりね、テトとシェラートには見られたくなかったな。知られたくなかったなぁ。ずるいけど、さ。あなた達の前ではただのフィシュアで、宵の歌姫としてのきれいな部分だけしか見せたくなかったのよ。たぶん。どこかでそう思っていたのよ、今思えば」

「だから一人で行ったのか?」

「うん。信用していないわけではなかったのよ。私が人を信頼するのが少し苦手なだけで」

「まぁ、俺の場合はテトに危害を与えないって面ではフィシュアを信頼していたけど、素性がわからなかったから信用はしてなかった」

「ふふっ、何それ?」

「お互い様ってことだ」

 シェラートは肩を竦めると、フィシュアの前髪をなでた。

 テトの髪よりも少し硬い茶の髪には、けれども、やはりテトとは違う柔らかさがあり、光沢があり、滑らかだった。

 フィシュアは初め驚いたように目を丸くしたが、別段文句も言わず、顔をほころばせた。

「なんだか、ほんとに子どもになったみたい」

「……やっぱりまだ熱があるな。何か冷やすものとってくるか?」

「いい。手、冷たくて気持ちいい」

「ちゃんと休んでおけよ」

「うん、明日は早いものね」

 ふややん、といくらか緩んだ笑みを浮かべて当たり前のように零れた言葉にシェラートは髪をなでていた手を止めた。

「フィシュア、お前、明日一緒に出発する気だったのか?」

「当り前でしょう。何? まさか置いてく気だったの?」

「無理だろう」

「大丈夫よ。シェラートが作ってくれた解毒剤、一体何入れたのってくらいすっごく不味かったけど、おかげですごく効果抜群だもの。この調子だと寝ればほとんど治るわ……って、でも本当にあれすごい味だったのよ? カルレシアの解毒剤っていったらヒュスとソウラの葉を混ぜ合わせて作ったものでしょう? 前に飲んだ時も苦いとは思ったけど、あそこまで酷くはなかったわ」

「その二つの他にカゼリアの葉も入れた。たぶんそれが酷い味になった原因だろう。だが、カゼリアを入れた方が早く効く。早くなりすぎた呼吸を落ち着かせる効果もあるしな」

「へぇ、知らなかった。それって人の間では出回ってないわよね。魔人ジンってそういうの詳しいの?」

「さぁ、いろいろじゃないか? ただ、俺が薬草とか医療系に強いだけだ」

「そうなの?」

 皇都に行ったら広めなきゃ、とフィシュアは感心したように頷く。

 シェラートはその様子を見ながら、目の端にフィシュアの額の上に置かれたままになっていた自分の手を捉えた。

 同時に自分の手がなぜ止まってしまったのかという理由も思い出す。

「――って、そうじゃないだろう。ちゃんと明日もここで休んでおけ。ラルーで俺たちを怒ったのはどこのどいつだ? さっきから言ってることとやってることが違うぞ?」

「だからさっきも言ったでしょう? 私は慣れてるからいいの」

「だから、そんなことに慣れるなと言っているだろうが」

 本格的に怒り始めたシェラートを尻目に、フィシュアは口をまげて、彼の視線から逃れるように顔をそらした。

「置いていきたきゃ、置いていけばいいわ。その代わり私は這ってでも追いかけるから。いいのよ、別に。抱えられて飛んでくほうが楽だけど、仕方ないから馬で山を登るわ。またへたり込んじゃうかもしれないけど、それをあなたのせいにしたりはしないから安心して?」

「お前は……」

 減らず口ばっかり叩くフィシュアに観念したようにシェラートは溜息をついた。

「知っているでしょう、私の役目。できるだけ早くエルーカ村の病気の現状を把握しないと。それが未知の病気なら、なおさらよ。ラルーでシェラート達のことが心配だからついていくって言ったけど、本当はそれだけが理由じゃなかったのよ。流行病のことがなかったら心配でもきっとシェラート達とは別れて予定通りアエルナ地方に向かっていたもの。いったいどんな病なのか、被害状況やどの地域まで広がっているのか、現状を調べて一刻も早く皇都へ知らせないと。だから、私は歩けるなら行く。それがたとえ万全の状態じゃなくてもね」

「わかった。ちゃんと一緒に連れていくから今度は……」

「無茶するな?」

 にやりと笑ってみせるフィシュアの額をシェラートは溜息と共に指先でとんと叩いた。

「そうだ。一人で無茶するのはなしだ。少しくらいなら協力してやるから」

「ありがとう」

「だから、もう寝ろ」

「うん」

 満足そうに頷きつつも、フィシュアは一向に目を閉じようとはしなかった。むしろ物珍しそうにフィシュアは、シェラートのことを見あげてくる。

「シェラートの瞳って、サーシャ様のエメラルドとはまた違ってきれいだよね。少し暗い緑。東の国の人はみんなそんなにきれいな緑の瞳をしてるの?」

「そうだな、黒髪緑眼が一般的だ。けど、あっちの大陸からしたらフィシュアみたいな青い瞳やテトみたいな黒い瞳がきっとうらやましがられる」

「そうなの?」

「そういうもんだ。ないものねだりなんだろう」

「そういうもんかぁ」

 ふうん、とおかしそうに呟いてくすくすと笑うフィシュアはいつまでも寝ようとしない。テトならすぐ寝るのに、とシェラートは秘かに思った。

 らちがあかないな、と嘆息したシェラートはあることを思いだした。

 今まで額に乗せていた手をずらして、フィシュアの額にそっと口を触れさせる。

 フィシュアははじめきょとんとして何か柔らかいものの触れた場所へ自分の手を伸ばしていたが、しばらくしてやっと何をされたのか理解すると、もともとほてった頬をさらに赤くさせ動揺しはじめた。

「え? ……えぇ!? 何、今の?」

「おやすみの、なんだろう? いいからもうこれで寝ろよ」

「ええっ!?」

「お前、テトのこと笑えないじゃないか。同じ顔している」

 フィシュアは変な声を出しながら慌てて自分の頬を抑えた。

 予想外の反応にシェラートは噴き出す。

「お前、散々人にしておいて自分はされ慣れてないのか?」

「いや、慣れてる、慣れてるけどさ、不意打ちはびっくりする。というか、した。シェラートとか絶対にしそうにないからよけい」

「だろう? 驚くだろ? こないだの仕返しだ。さっさと寝ないお前が悪い」

「何それ。仕返しなの」

「まぁ、そんなとこだ。いい加減早く寝ろ」

 睨もうとしたフィシュアの目は、シェラートの手によって覆われた。強制的に瞼を閉じさせられる。

 フィシュアは不服もあらわに呻いたものの、手が取り払われることはなかった。

 熱の残るフィシュアではまどろんでいた目を一度閉じられると、その重さを押しのけてまで開くことはできなかった。あたたかな暗闇が降ってくる。

 再び頭をなではじめた優しい手の動きとともに徐々に身体の力が抜けていった。眠りの中へと吸い込まれていく。

 もう少しで夢の中へ落ちそうになった時、ふわりふわりと動いていた手が額の上で止まった。

「フィシュア。宵の歌姫も闇宵の姫もフィシュアはフィシュアだろう? 俺とテトは心配することはあってもそれを知ったからってフィシュアを嫌いになることはないから安心しろ」

 落ちてきた低い声に、フィシュアはわずか微笑んだ。

 ありがとうの代わりに。

 ありがとう、と伝えたくて。

 そして今度こそ夢の中へと滑り落ちていったのだ。

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