第31話 宵闇の姫【5】
フィシュアが消えてしまったあと、シェラートは言われた通りにすることにした。
自分の役目は、テトを無事にエルーカ村まで届け、願いを叶えてやること。
それが最優先事項であり、
ただ、この数日間、フィシュアはあまりにも彼らの間に馴染んでいた。もしも、彼女に何かあったら、すっかりなついているテトが悲しむことになる。
だから、もしやと思い、待ち伏せしていただけにすぎない。一応止めもした。他に理由はないはずだった。
フィシュアが忠告を気にもせず行ってしまった今、シェラートはもはやどうすることもできないし、これ以上どうするつもりもない。
明日の朝に戻るとフィシュアが言うのなら、何事もなかったように合流するだけだ。
戻らないなら、予定通りテトとエルーカ村に向かうしかない。
ただ、思いのほか募った徒労感を抱え、シェラートは階段をのぼる。
部屋へと引き返し、寝台に腰をおろした時には、いつもより身体が重く感じた。
向かいの寝台で何も知らずに眠っているはずのテトを、彼は何とはなしに眺めやる。
寝返りを打つうちに、もぐりこんでしまったのか、掛け布でこんもりと山が形成されている。器用なものだな、と思ううち、おかしくなって、シェラートは少し笑った。
明日、フィシュアが戻って来なかった場合、テトにどんな言いわけをするべきか。
考えてはみるものの、ちっとも思いつかない。
「それくらい自分で考えてから行けよな」
悪態をつきながら、シェラートは寝台の上で胡坐をかいた。胡座に立て肘をつき、顔を乗せて、眠るテトの様子を眺める。
慣れない旅の疲れか、テトは寝台にのぼると、割合すぐに眠りにつく。すうすうと規則正しく、いつも隣から聞こえてくる寝息は、シェラートを不思議なほど穏やかな心地にしてくれる。
ふと、今夜はその寝息が聞こえてこないことに気づいてシェラートは、顔をあげた。
いつもなら安らかな寝息にあわせて、やわらかく上下している掛布も、動いている気配がない。
まさか、と思いつつシェラートは慌ててテトの掛布をひきはがした。
そこにテトの姿はない。
掛布から抜け出したあとだったのか、ひきはがす先から、空洞が崩れて、掛布は平らに寝台に落ちた。
辺りを見渡したが、寝ぼけてどこかで寝こけているということもない。
それどころか、テトの靴がなくなっていることに気づくのにそう時間はかからなかった。焦り出した心を落ち着けるようにシェラートは自身の黒髪をぐしゃりと、かきつぶした。
寝台の敷布を確認する。
掌に伝う温もりはまだ残っている。しかしそれは微かなもので、今にも冷たくなりそうなほどだった。
「入れ違いか」
部屋に戻ってきてから、どれほど時間がたっただろうか。
テトがいないことにも気づかず、ただ、ぼうっと無為に座っていた自分自身にシェラートは舌打ちする。
おろかしさに嫌気がさした。
もしかすると水を飲みに食堂へ降りたのではないかと期待し、急いで階下へ降りてみるが、やはりそこにも姿はなかった。
入り口の扉も開けてはみたものの、テトどころか人影すらない。
だが、こうなるともう、テトはフィシュアを追いかけていったのだとしか考えられなかった。もしかすると、さっきの会話だって聞いていたのかもしれない。
シェラートは通りを見据え、歯噛みした。
どうすればよいのか、わからなかった。
開け放したままの扉の取っ手を握りしめる。扉に嵌め込まれた暗いガラスには、いかにも狼狽しきっている自身の姿が映っていた。
暗い翡翠の双眸と目があう。シェラートはハッ、と口の端をあげた。
「そうだ、俺は
気が動転していて、そんな当たり前のことにすら気づかなかった。
テトとは契約をしている。探すまでもない。誓約の
そう思いあったった瞬間、シェラートはテトの気配を探して転移した。
***
時は少し遡る。
部屋で寝ついていたテトは部屋の外から聞こえてくる話し声で目を覚ました。
何を言っているのかまでは聞こえてこない。
けれど、聞き慣れたその声は、あきらかにシェラートとフィシュアのようだった。
テトは眠り眼をこすり、寝台の縁に足をかける。いったい外で何の話をしているのだろう。テトが寝台から降りようとしたところで、部屋の外の話し声が途切れた。
足早に階段を下っていく音、その後に扉が閉まる軽い音が聞こえた。
寝ぼけたままテトはふと、すぐ隣の窓へ目を移した。
月のない暗い道を宿から漏れる灯りだけが煌々と照らし出していた。宿の入り口から飛び出たフィシュアは、すぐに宿の右手へまわりこみ、大通りへと続くその道を駆けて行く。
「フィシュア?」
テトは驚きをもってその光景を見つめた。思わず漏れた呟きは、彼がしっかり目を覚ますのに充分だった。
夜に外に出ると危ないと、聞いたばかりだ。それなのにどうして、と疑問に思うよりも、もっと早くフィシュアが外にいるという事実に、足元から恐怖が湧きあがってきた。
このままだと、フィシュアが危ない。
テトは慌ててベッドを飛び降り、階段を駆け降りた。
シェラートの姿は見当たらない。
ただ食堂から外に出る扉が開いていた。
テトは迷わず走り出て、宿にそって右手の道へまわった。
星明かりとわずかな街灯だけが灯る心もとない夜道をフィシュアが向かった方へ、テトは早く早くと自分を急かしながら駆けた。
どれくらい走っただろうか。
テトはようやく前方に、見慣れた白い衣姿を認め、足を止めた。
フィシュアだ。
よかった無事だったんだ、とテトはほっと胸をなでおろす。
しかしすぐに、フィシュアの前方に立ちふさがる黒い影を二つ発見して、テトは息を呑んだ。
うっかり、叫びそうになった口を慌てて手で覆う。
男たちの手には光る得物が握られていた。
よくは見えないが街灯によって照らし出されたそれは鋭い刃物に違いなかった。
しばらくして、男たちがフィシュアを連れて動き出した。
脅されているのだろう。フィシュアもおとなしくそれに従っている。
テトは今日、食堂であった親父たちが話していたことを再び思い出し青ざめた。
このままだとフィシュアが攫われてしまう。
あの刃物がもしフィシュアに向けられたら、とおぞましい光景を想像してしまい、体が勝手に震えだす。
辺りには他に人影はなく、どの家も明かりを消していて、助けは求められそうにない。宿に戻ってシェラートを呼んでくるには、時間がかかりすぎるし、呼びにいっているうちに、フィシュアは行方知れずになってしまうに違いなかった。
僕が助けなきゃ、と、テトは足に力を込める。
だが今、子どもの自分がただ一人で立ち向かったところで、刃物を持つ男たちが相手では到底敵うわけがないともわかっていた。
だから、テトはじっと機会を待つことに決めた。奴らを出し抜くためには、フィシュアを助け出すことができる機会を逃さないようにし、その瞬間にかけるしかない。
そのためにも今はこっそりと、テトは息を殺して、フィシュアと男たちの後をつけていった。
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