第2章 宵の歌姫
第11話 謎の首飾り【1】
通りに並ぶ街灯に火が入った。
街灯は明々と火を燃やして、夜の気配を帯び始めた薄暗い路地を賑やかに照らし出す。すっかり陽が落ちてしまった空は、しらんだ淡青から濃藍へと次第に色を変えていった。
完全に夜になってしまうには少し早い時間帯。街を覆う空には、まだかすかに明るさが残る。ラピスラズリの色をした夜空には、鋭い三日月が一つ。その周りで無数の星が細やかに瞬きはじめていた。
「シェラート、お腹すいた」
暗い路地にぼやきは落ちる。表通りから外れた道をテトはとぼとぼ歩いていた。少年の傍らに寄り添うシェラートは、力なく歩くテトを横目で見やる。
「もう取り寄せるか? 何か食べるもの」
「それは駄目」
シェラートの提案を、テトは即座につっぱねた。お腹はすいた。だがシェラートに食料を取り寄せてもらったら、その分この街のどこかで食料がそっくり消えることになる。テトはそんなことはしたくなかった。
テトは空腹を耐え忍んで、口を引き結ぶ。少年の表情には、その手段だけは使わないという決意がありありと浮んでいた。
しかし、少年の口がきゅっと結ばれていたのも、結局はほんのわずかな合間だけだった。
腹はすっかり凹んでいる。さっきまで空腹を訴えていた腹の虫も力尽きたのかもう唸ろうとすらしなかった。どうしたって意志だけでは腹は膨れてくれそうにない。
つまるところ、このままでは、どうしようもなかった。
テトとシェラートは互いに顔を見合わせる。シェラートも、テトと同じ思いだったのだろう。二人はまるで図ったかのように、大きな溜息を宵初めの街に響かせた。
***
フィシュアと別れた二人は、早速、街の中に足を踏み入れた。
ちょうど夕飯時だったこともあり、市場のそこかしこに食欲を誘うおいしそうな匂いが漂っている。どちらともなく腹の虫がぐぅと鳴いた。思えば今日は、ほとんど休む間もなく一日動きっぱなしだ。食事は、朝に平パンを一枚食べたきり。迷うまでもなく、テトとシェラートの二人は、今夜の宿を決めるよりも先に夕飯を取ることにした。
砂漠の終わりの街であり、始まりの街でもあるラルーは、昔から砂漠を渡る行商の中継地として重宝されてきた。特に、これから砂漠を渡る者にとって、ラルーは経路や旅具の最終確認を行う重要地点である。
この国――ダランズール帝国では、砂漠が帝国の南西部一帯を占めているだけでなく、砂漠の南側外周が直接国境としての機能も果たしている。そのため、砂漠に面した近隣諸国の商人たちの中には、砂漠を経由して入国する者も少なくない。
国内外を問わず多種多様な人が集まるラルーの市場では、自然と日用雑貨から貴重な異国の珍品まで、あらゆるものが取り揃うようになった。今では、広大な交易都市ラルーの市場で買えないものなどないとすら言われている。
夕飯を決める傍ら、テトは通りすがりの露店で、自分の故郷であるミシュマール地方の織物を見つけて懐かしがったり、故郷ではあまり見る機会のなかった色とりどりのガラス細工が所狭しと並んでいるのを発見して感激し、手にとって光に透かしてはガラス細工の美しさにはしゃいだ。
露店に並ぶ料理の種類も、やはり露店の数だけ種類があった。テトはあっちへ行ったり、こっちへ行ったりしては、どの料理が一番おいしいのだろう、と見比べ続けた。なかなか決められそうにないテトのようすに見かねたシェラートは、数種類の料理を少しずつ買って食べることを提案したのだ。
問題は、ここで起こった。
いざ料理を買おうと荷物から財布を取り出そうとしたシェラートは、その荷物自体がないことに気付いた。と言うよりも、砂漠で水を盗られた際に、荷物ごと一緒に盗られたことをようやく思い出したのだ。
よって、当然夕飯を買うことなどできず、二人はとぼとぼと市場を離れ、宿が立ち並ぶ通りに向かったのだった。
「シェラート、あそこで最後だよ」
行く先に、ぽつんと建っている石造りの小さな宿屋のを見つけて、テトは言った。宿屋が立ち並ぶ通りから外れたこの場所には人影がない。ともすれば、つぶれてるのではないかと疑いたくなる宿屋の窓から、辛うじてほのかに明かりが洩れているのを確認し、二人はひとまず安堵した。どうやら営業はしているらしい。
ここに来るまで、既に通りにある宿屋を一軒一軒、くまなく訪ねてまわっていた二人にもう後はなかった。一夜の宿と交換に働かせてくれないか、と交渉したのだが、なにせ行商の中継地として名を馳せている交易都市である。すっかり陽が暮れた後に宿屋を探しはじめても、どこの宿屋も満員で泊まれる場所はなかった。部屋が空いている宿も少なからずあったのだが、宿賃のない二人を歓迎する者などいない。働き手は足りているから、とすげなく断られてしまった。
残ったのは、通りの宿屋とは比べものにならないほど粗末な宿屋一軒。賑やかな表通りから取り残されたようにひっそりと建つ目の前の宿屋に、二人は最後の希望をかけることにした。
「……また断られたらどうしようか」
「……野宿するしかないな」
テトとシェラートは顔を見合わせて、疲れ切った笑みを浮かべる。
不吉な予感が当たらないことをひたすら願いつつ、シェラートは今にも壊れそうな木戸を叩いた。
すぐに中から顔を出した男は、どうやら宿屋の主人らしい。見るからに人のよさそうな彼は、愛嬌のある髭を顎にちょこんと蓄えていた。
「はいはい。いらっしゃいませ。二名様ですか?」
宿屋の主人は二人の姿を確認するなり、嬉しそうに表情を和らげた。両の手をこすりあわせながら主人はシェラートからテトへ視線を移し、目元を綻ばせる。
「いや……。一晩の宿のかわりに、ここで働かせて欲しいんだが」
ラルーに来てからもう幾度となく繰り返した言葉を、シェラートは今回も口にした。
途端、主人の明るかった表情はみるみるしぼんでいく。「そうですか」と落胆を零した主人は、眉を下げ悲しそうに微笑んだ。
「私共も泊めて差し上げたいのはやまやまなのですが、働いてもらおうにもここには客がおりませんので」
主人は申し訳なさそうに頭を下げると、木戸を押し開き、宿の内部へ二人の目線を促した。
部屋の中は、外観に反していくらか広く、十台ほど長テーブルが並べてある。けれども、主人の示唆した通り、テーブルを取り囲んでいる椅子には誰一人として座っていなかった。中央のテーブル上に小さなランプが一つ鎮座しているだけで、他には主人の妻であるのだろう女が、こちらも申し訳なさそうな顔をして、明かりの灯ったランプの傍に寄り添うように立っているだけだ。
「この通りですので……すみませんが、お引き取り下さい」
主人は、二人に対して深々と頭を下げる。
テトとシェラートが揃って肩を落としかけた時、二人の背後から女がひょっこりと顔を出した。
「ご主人。この二人、私の連れなの。一緒に泊めてもらえないかしら。部屋は空いているのでしょう?」
女はあっけからんとした口調で、沈みきった面々の間に割って入った。
テトは、聞き覚えのある声に振り返る。思った通り、そこにはつい先程別れたはずのフィシュアが立っていた。
「フィシュア!」
「おまっ、なんでここにいるんだよ!」
ぱっと喜色を顕わにしたテトに、フィシュアは嬉しそうに目を細める。少年の栗色の髪を撫でながら、フィシュアは驚いた顔をしているシェラートを呆れの混じりに見やった。
「どうせこんなことだろうと思ったのよね。荷物も持ってなかったし、どうせ財布も取られたんでしょう? 追いかけて来て正解。感謝してよね」
フィシュアは悠然とした態度で微笑んだ。
室内から届くランプの明かりが、彼女の薄茶の髪を琥珀色に溶かしている。一瞬にして場の空気を覆した女を、返す言葉もないシェラートは唖然と見返すしかなかった。
「あのう。失礼ですが、お二人のお知り合いの方でしょうか?」
一人、会話に置き去りにされていた宿屋の主人は、説明を求めるようにシェラートへ目を泳がせ、次いで、二人の後ろに佇むフィシュアに焦点を定めた。途端、主人はごくりと息を呑む。
「――っその石!! そそそそそれじゃあ、あ、あなた様は!!!」
わなわなと震えだした手で、主人はフィシュアの胸元に下がる藍石の首飾りを指差し、完全に顔色を失くしてしまった。
首飾りを凝視したまま固まっている主人を前に、ふわり、フィシュアは微笑みかける。
「明日の夕方で、どうかしら?」
「ほほほ本当に本当の本物!?」
ますます動揺しはじめた主人を取り残し、フィシュアは宿の内部へざっと視線を巡らせた。
「もしよろしければ、宿代もきちんと払うけど」
「そそそそんな、めっっっっそうもございません! 充分過ぎるほどに充分でございますっ!」
「そう? ありがとう」
宿の中から主人へ目線を戻したフィシュアは、愛想よく表情を和らげた。
冷や汗をかきながら、いえいえと主人は首を振り返したが、肝心の声は出てこない。思わぬ事態に今にも倒れそうになる身体を堪えるので主人は精一杯だった。
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