第9話 一つの別れ【2】
「まぁまぁ、そんなに落ち込まなくても」
気落ちしているシェラートを見かねて、フィシュアは愛想よく彼の肩を叩いた。
ラピスラズリが、
しかし肩を叩かれたシェラートは、フィシュアが隣にいると知るや、慌てて元いた場所から飛びのいた。
あまりにもあからさまな
「――っ、おま、何するんだ!」
反射的にラピスラズリを払いのけ、シェラートはフィシュアに非難を向ける。「何って」と、フィシュアは平然と言い放った。
「何もないわよ。ただラピスラズリをくっつけただけじゃない。大丈夫だって言おうとしたのに、あなたが逃げるから」
動揺している
はらはらと二人のやりとりを見守っていたテトは、フィシュアが言っていることが本当なのか、と心配気にシェラートに視線を送った。
テトの無言の問いを受けて、シェラートは自分の身体を確かめてみる。言われてみれば、特に何の変化もない。憂慮していた事態が起こる気配もないことに、シェラートは一気に脱力した。
「どういうことだ」
シェラートは、理由を知っているだろう藍石の持ち主に理由を問う。
フィシュアは手をテトとシェラートの前に差し出した。開いた掌に載せられているラピスラズリは見通せないくらいに色が濃い。
いくらか不機嫌さを残した口調で、フィシュアは説明した。
「ラピスラズリと言っても全ての魔を完全に弾くわけではないのよ。ラピスラズリが力を発揮するのは持ち主が魔の力によって危険に陥りそうになった時だけだって聞いているわ。つまり、あなたが私に危害を加えない限りは安全なのよ」
「それならそうと早く言えよ」
シェラートは息を吐き出した。安心したせいか、どっと疲れが襲う。そんなところへ、テトが勢いよく背中に飛びついてきたものだから、シェラートは思いきり前のめりになった。
「テト! 危ないだろうが」
シェラートは、左肩から顔を覗かせたテトに眉をひそめる。彼の首にしがみついているテトは、にこにこと嬉しそうに口を開いた。
「よかったねぇ、シェラート」
テトの無邪気さに、シェラートは虚をつかれた。目元を緩め、「あぁ」と相槌を打つ。ぽんぽん、と彼は左手でテトの頭を撫でた。
テトは、シェラートの肩の上で、こてりと首を傾げる。
「で、どう思う? フィシュアの瞳と同じ色だと思わない?」
「あー……」
さっきの話の続きをしているのだろう。テトに促され、シェラートは驚異の去った藍色の石に意識を移した。女の掌上に置かれた硬質な石は、辺りの光を深色の中に沁み込ませる。対して、眼前の女の双眸は、周りの景色を映しこんで微細に彩りを移ろわせた。
ただ、色だけは、という話だ。
「同じなんじゃないか?」
シェラートが出した答えにテトは、「やっぱり」と顔を輝かせる。だが、話題にされているフィシュアは、
「なんだかどうでもよさそうね」
テトから視線を逸したシェラートは、ひたとフィシュアに目を留めた。
「まぁ、どうでもいいからな」
そこに嘘偽りはない。だからなんだ、と
それよりも、とシェラートは口を開く。
「俺は、石の形の方が気になる。何の形だ? 手か? でも、それなら指が一本足りないな」
「本当だ。言われてみれば変な形だね」
テトは、フィシュアの掌にあるラピスラズリを覗きこんだ。場所を動いたり、顔を傾けたりしながら、様々な角度から石の形を眺めてみる。
厚みのある石の一方は滑らかな孤を描き、他方は波打っている。その波も一定と言うわけではなく、四つの凹凸がてんでばらばらの高低で波立っていた。
フィシュアは改めて掌にある石の形を見つめ直した。
「確かに。この形が当り前すぎて今まで疑問に思ったことすらなかったわ」
フィシュアにとっては、物心ついた時にはもうすでに身近にあった首飾りだ。首飾りについているラピスラズリは初めからこの形をとっていて、それ以外の形を思い描いたことすらない。そのくらいフィシュアにはごく自然に傍にあって、身に馴染んだ形だった。
しばらくの間、ラピスラズリをつぶさに観察していたテトは、突然「あ」と声を上げた。テトは、藍色の石を斜め下から覗きこむような形で、頭の角度を止める。
「こうすると、翼にも見えるかも。ほら。その波みたいになっている方を下に向けると」
フィシュアは、指で石を摘みあげると、テトの言う通りに角度をつけてみた。
「そうね、ちょっと翼にも見えるかも」
「うーん。でも本当に翼かなぁ?」
テトはついと眉根を寄せて思案気に首を傾げた。口にしてはみたものの、断定してしまうには自信が足りないらしい。テトは、フィシュアが手にしている藍色の石から目を逸らすことなく注視し続けた。
「さぁ?」
どうかしらね、とフィシュアは微苦笑した。ひたすら目を凝らして藍石を見つめ続けても、答えは出そうにない。
フィシュアは、持っていたラピスラズリをそのまま空にかざしてみた。濃い藍色をした深淵の向こうでは、太陽が翳りはじめている。うっすらと心許なく散っている雲の切れ端が、やわらかに太陽の色をうつしとった。
だが、ラピスラズリは陽光をわずかに表面で光を弾いただけで、光を一切通そうとはしなかった。
フィシュアは、ラピスラズリを掌に包み込む。そうして、ようやく取り返した藍色の石を本来あるべき胸の位置へと下ろした。
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