栗戸詩紘

第1話:鏡

「君は何を求める」

 私の前に現れた男はそういった。髪は長く湿っており、服は乾いている。貼り付けたような笑顔だと思えば、その瞳は有機的な無邪気さを感じさせる。私は不気味に思った。あなたも不気味に思うだろう。なぜなら、私とこの男が遭遇したのは、なんの用事もない昼間のことなのだから。ちょっと自由な時間ができて、ちょっと外で一服しようという、変哲のかけらも、影すらも見せない状況。私は男に対して返事をしなかった。

「君はどうやらシャイなようだ」

 男はどうやら物分かりが悪い人種のようだった。私は決してシャイなどではない。怪しい人間とは関わらないに越したこと無し。性格云々以前の判断だろう。

「君はタバコを吸っている。本当は禁煙したいんだけどね」

あぁ、そうだな。そういう鋭さは、己の不審さに向けて欲しいと心底思う。しかしどうだろう、私は途端に口にくわえたマルボロがまずく感じられてきた。なぜロングを買ってしまった? この中途半端な長さを残す汚物を早く焼き切ってしまいたい。私は灰皿にタバコを擦り付けた。それでも気持ちは落ち着かなかったので、中途半端なタバコの長さをとことん短くしてから捨てた。

「君は何を求める」

 あぁ、君はなんだというのだ。私に何をもたらさんとするのか。禁煙などという、たわいもなく、難しい結果を私に押し付けた君は私に何をしたい。何を見せたい。何を叶えたい。

「君は何を見たい」

 そうだ、私は君に対してそれが知りたい。なぜ君は私の前に現れ、なぜ、どうでも良いような奇跡を見せた。私は君のそれを見ない限り、君に応えることはしない。

「君は何を思い残す」

 もともと無いものを残しようがない。私の君の出会いは本来ないはずだ。奇跡をもたらさんとするものと、平凡な私との偶然の出会いなどありえない。つまり、もともとなかった結果。つまり、この超越した出会いに思い残すことなどあるはずがない。

「君は何を聞きたい」

 私には聞きたいことがごまんとあるぞ。なぜお前はここにいる。なぜお前は私にマルボロを潰させた。なぜお前は私の自由を排除した。喫煙は私の自由だ。たとえ私が望んでいたとしても、それは唯一無二の私の意志によってなされるべきだ。何者かが私の意志に介入するなど許されない。

「君は何を話したい」

 そうだ。言いたいことがあるからここにいるんだろう。そうなんだろう。そうであってくれるのだろう。未知なる力を持つ人間が、私に話したいことがあるんだろう。さぁ、早く話せ。

「私は君だ」

 私が言った。お前が言った。君が言った。あれ、誰が言ったんだ。私がお前でお前が私で君が私でお前で君で。なんだと言うのだ。私が私足らしめる要因とはなんなのだ。私の言葉はお前の言葉で、お前の言葉は君の言葉で、君の言葉が私の言葉だというのか。お前は誰だ。私だ。私は誰だ。君だ。君は誰だ。私だ。

「死ねよ」

 私は君を殴った。君が私を殴った。お前が君を殴った。君にヒビが入った。私にヒビが入った。お前にヒビが入った。だけど笑ってる。どの私もどの君もどのお前も、ニヤニヤつらつらと、食パンのように笑う。眼球は深海に落ち、口の中は砂漠と化した。髪は気づいたら乾いている。一体なんなんだ、どうなってるんだ。

「私は何を見ている」

 私の拳には血がべっとりと付着している。そして、ガラス片と思わしきものが刺さっている。私は振り向いた。君が、お前が、私が嘲笑っていた。

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