ここは何処だ?
この雨なのに黒い革靴に汚れはない。腕時計はセイコー。黒いズボンはきちっと折り目がついている。丈の長い、黒いダウンコートから見えるシャツの襟はその硬さを保っている。ネクタイは外している。
四月になった。昨日も今日も雨。気温が高い日が続かず、桜はまだ七分咲き。新しい年度が始まった。
朝、八時三十分、都心へと向かう電車は土曜日のため混雑もなく、立っている人はまばら。そんな車両に乗り込んだとたん、目に飛び込んで来たのが、三人がけの席を二人分使って寝ている男性。横たわっているわけではないけれど、身体は斜めにずれて、投げ出された両足は車両の真ん中あたりまで伸びて、床には黒い鞄と発泡酒の缶、透明なビニール傘が倒れている。
夜勤明けかな。そして今日はお休みなのかな。警備会社かな。いや、葬儀会社かも。アルコールで赤くなった顔に、薄っすらと無精髭。両手はポケットに入っているから結婚しているかどうか判断する材料はない。
都心に近づくにつれ、人が増える。周りのざわつきが次第に大きくなり耳に届いたのか、斜めになっていた身体を、背もたれにしっかりつけて真っ直ぐになった。案外、大柄の男性だ。
この電車で、一番大きく空気が動く駅に到着。目を覚ました男は、咄嗟に足元の鞄と傘を抱えて電車を降りた。今すぐ確認したい時にこそ、なかなか見つからない駅名の看板。
その時、聞こえた。
「ここは何処だ?」
いつもの時間に、いつもの電車に乗る人は寝ていても降りなければいけない駅に到着したり、近づいたりすると目が覚める。きっと、この男性にとって、この朝の時間はいつもの朝ではなかったのだろう。
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