第2話 私とイド
ひどい頭痛がする。気持ち悪い。玄関に入ると、私は座り込んだ。今回のやつは、やっかいそうだ。
「こんばんは。予約した神宮でございます」
九零が言うと、若い女性がやってきて、まず、私の心配をした。
「お嬢様は、お怪我をされていまして――」
「じゃあ、西条センセに連絡して――」
九零と女性の会話が、頭の中でがあんがあんと、鈍く反響する。静かにしてほしい。
私は持てる力を振り絞って、笑顔をつくった。
「へーき。とりあえず部屋で休ませて……酔っぱらって眠れば、へーきだから」
朝昼晩、三食つきで二人部屋が一泊七千円だった。その価格に惹かれて決めた宿だから、どんなボロ宿とかは気にしていなかった。東京の住処があれだもん。大抵の逆境には慣れている。
「お布団、敷きぃまな。夕食は、ここに持ってきます」
そう言って、女性が布団を用意してくれる。想像より奇麗な部屋だった。六畳一間に座卓と座布団、薄型TVにクーラー――やっぱり私と九零の普段の生活は、貧乏なんだなぁ。そもそもウチにクーラーは無いもん。
さっそく私は布団に寝そべる。ふかふかしていて、お日様の匂いがする。
「ええっと、なん読むんで? じんぐう、きゅうれいさん?」
「クレイと申します。クレイアニメのクレイと覚えていただきませ。お嬢様のお名前は、神宮イナミ様でございます」
普段なら、こんなやりとりなんて気にもならない。でも、女将が次に発した言葉に、私は猛烈に、不快感と、九零に対しての憎しみを持った。
「はぁあ。委ねる海と書いて『
私は九零を睨みつけた。九零が、翳のある表情を浮かべる。
馬鹿九零……てめぇ……。
「申し訳ありません。女将様、正しくは、伊吹に波と書いて『
九零が畳に正座して両手を置き、深く頭を下げる。女将は慌てて、同じように頭を下げる。夕食を取りに、部屋を出る女将の顔は、いぶかしげだった。
「このような時に、本当に、申し訳ございません。愚かな僕に、このたびの不始末をどうすればよいか、ご指導願います」
九零が土下座するのを見ても、不快感は消えない。私にとって本名というのは、それほどまで重荷だった。
たとえ結婚しても改名を許されないという面倒くさい家訓。武術、カムイ、跡取り――その話ばかりの家庭。嫌なうわさしか聞かない家業。
私はそんな大里家から、少しでも離れようと家出して、九零に『話すときにお嬢様と呼ぶように。苗字を変えるように。どうしても記入しなければならないときは、当て字で記入するように』と厳命していたのに。
その命令を、九零は無視しやがった。
「お嬢様、僕は――」
「一生黙ってろ! それが無理なら、ブルジョアの他所様に拾ってもらえ!」
私は布団を被った。
布団の中、感情にまかせてとんでもないことを言ったと後悔した。でもおそい。仕方がない。もう九零に嫌われてもいい。それほど、本名が辛い。全部どうでもいい。今は眠りたい。眠って、そのまま、目覚めなくなってしまえばいい。
九零が、私の傍に来て、座るのがわかった。でも、もう、知らない。九零が悪い。あいつが悪い、全部。
夕食が運ばれてきた。女将があーだこーだ説明する。でも、私は布団にくるまっているし、九零は声を出さない。女将は早々に部屋から出ていった。
時計の針が進む音だけが聞こえる。頭痛と吐き気は緩和された。でも、胸を押し殺すような、どす黒いものが、体に深く滞在している。それは本名を聞いて出てきたものだ。息がつまる。苦しい。苦しくて、死んでしまう。
眠れない。眠気はあるのに眠れない……苦しい……これだけ苦しんだなら、もう、いいのかもしれない。そう。十分、苦しんだもん。楽になりたい。九零に命令しようかな。どこかの恋愛小説みたいに「私を殺して」って。
最初からそうすればよかった。そうだ。全部、九零に押し付けちゃえ。私の人生を全部――駄目!
そんな考えだから、私は、駄目なんだ!
起きよう。起きて九零と夕食を食べて、お笑い番組でも見よう。そして一言、言っておこう。
でも、何て言うの……?
布団から覗くように、顔を出すと、九零は静かに、私のそばで正座していた。私と目があっても、九零は声を出さない。いつもの九零……だよね?
「九零……あ、あの、さっきの命令なんだけど……ムカついた、よね?」
九零は声をださない。私は布団をどけて、顔を晒し、喋っていいよと促す。
「いえ。僕が声を発しなければ、お嬢様の傍にいてもいいと解釈しました。違いましたでしょうか……やはり、僕は……」
私は、慌てて体を起こして、九零の手を握った。
「さっきの命令は撤回する。完全に私が悪い。ごめん」
九零の顔が、高揚していく。でも、他人には、分からないけどね。
「お嬢様、僕は、僕の身を案じてくださるお心遣いだけで、光栄でございます」
「ゆ、夕食、一緒に食べよう! 九零、ビール注いでよ」
「かしこまりました」
「それから――」
「はい。何でございましょう、お嬢様」
「……いい。何でもない」
私は心配をした。内心、はらわたが煮えくり返っているのではないか、と。
◇
夜中に突然、目が覚めるのは、よくあること。私の義務だ。彼が上にいるから私は身動きが取れない。でも、慌てることはない。無理に動かそうとすると、彼が傷つく。
「どうした?」私は目を閉じたまま、彼に聞いた。彼は荒々しく何度も、何度も、息を吸って吐き、私の首に、手をかけている。
「……悪い夢でもみたの?」
「一日目、女の子を殴った」彼の声は震えている。私の首に触れた彼の手から、極度の緊張と恐怖が伝わってくる。小刻みに震える冷たい手。
「二日目、女の子を蹴った。三日目、女の子を投げ飛ばした。四日目、女の子は泣いた」
彼は早口だった。荒々しく息を吸って、吐いて、彼は喋る。
悪夢をみると、彼はやってくる。でも、怖くはない。少しだけ、うれしい。少しだけ。
「五日目、女の子に謝った。六日目、女の子と仲直りをした。七日目、僕が女の子を泣かせたから、僕は罰を受けた。八日目、僕は考えた。九日目、僕はもっと考えた――」
彼のみた悪夢は、歪曲した彼の過去だ。でも彼が泣かせた女の子とは、私のこと。
時々、彼は、こうやって復讐しようとしているのだ。彼は心の底から憎んでいるから。
昼間、私のわがままに誠意をもって対応し、叶えてくれるけれど、彼だって、人間だもの。うっぷんもたまる。そしてこうやって破裂するのだ。
「十四日目、僕は罰の代わりに頭首様と約束した。十五日目、僕は女の子と再会した。十六日目、女の子が僕に新しい名前をくれた。今日、約束をはたす。僕は女の子を殺す」
私は薄く目を開けた。彼が、どんな顔で、私を殺すのか、最後に見ておきたいと思った。
暗い部屋に、ぼんやりと見える彼の顔は、鬼のようだった。この世の全てが、私に敵意をもって、彼を通して現れているようだ。でも怨まれてもしかたない。私は彼に毎日、命令しているのだから。傍から見ると奴隷のようにこきつかい、私は女王様気分なのだから。
「最後に、その女の子が、あなたに言いたいことがあるの」
私は遺言を残す。何度も言った遺言。
これで、最後にしよう。もう、終わりにしよう。
「闘え! あなたに、罰を与えた者を、絶対に許すな! 闘うの……ぐっつ!」
「お前が言えたことか!」
首を絞める彼の手は、やっぱり冷たい。彼が、どんなに力をこめても、体温が伝わってこない。
「頭首様の力! 気迫! 威圧感! あの方に、勝てるものなどいない! 事実、お前は逃げだした! この卑怯者! 臆病で間抜けな能無しの役立たず!」
「だから……だから……もっと、あなっ、ぐぅ!」
「死んでしまえ! お前が死ねば! 僕は――」
彼の手が、私の命を摘む。意識が遠くなって……息ができない。苦しい。できるだけじっとしていよう。でも、苦しい。喉に彼の指が食い込んでいる。じたばたしたい。我慢しろ。もうすぐ、もうすぐ、私は――。
死、ぬ。
バシッッ!
青白い電流が彼の両手に走る。彼は痙攣を起こし、激痛に悶え苦しむ。
「止め……『イズナ』……あんたを呼んだ憶えはないよ……」電流に文句を言って、私はゆっくりと苦しむ彼を抱きしめた。
彼は痛みを口で表現できない。そういう訓練をうけている。彼は歯を食いしばって、目を大きく開き、両腕を股の間にいれ、痛みが引くまでの孤独を耐えていた。
私の体から出てきたイズナは、彼と私を輪になって取り囲んでいる。
「イズナ……今度、彼を傷つけると容赦しないからな……失せろ」
バチッ! バチチッ!
青白い電流が、輪から飛び散って、部屋を縦横無尽に駆け巡る。
バシィッ!
薄型TVの液晶画面に電流がぶつかり、大きな閃光を放つと、それっきり、現れる気配はなくなった。
私は彼を抱きしめながら、話しかけた。
「大丈夫?」
「……」
彼の声は小さいが、ちゃんと言葉を喋っている。
「寒いの?」私は一枚の布団を引っぱってきて、私の体と、彼の小さな体を包んだ。
彼はまだ、痛みに耐えている。私は、彼の華奢な体を、つよく抱きしめた。
「……」
「嫌?」
「……」
「そんなこと、気にするな……全部、私が悪い」
私は未熟だから、彼を傷つけてしまう。
ずっと一緒にいるから、傷つける。
これからも一緒にいたいから、慰める。
私が殺されれば、彼は満たされるだろう。
私が殺されれば、彼はどうなるのだろう?
矛盾の中で私は、もう一人の『彼』について考える。あいつは、どうしているだろう。
「私に、今できることはない? 何か飲む?」
「……」
「わかった……笑うなよ?」
私は歌を歌った。題名は――忘れた。歌詞も忘れた。そんなもの、どうでもいい。
私はメロディを口ずさむだけ。彼は黙って聞いている。そして私たちは深い、眠りの中へ――こうやって彼と抱き合えるのが、私にとっての、本当の安らぎだ。でも、時間は限られている。
夜が明けると彼は、このことから逃げるように、九零になる。
◇
目覚めると九零の姿はなく、私は一人で、二人分の布団をたたんだ。九零は帰ってこない。空虚な時間が過ぎる。
もう、トイレに行っていた、と言い訳できないぐらい、時間が過ぎた。
やれやれ。探してやるか。
「ああ、神宮さん。おはよう」
スズメが鳴いている外界へ出ると、のんびりとした声で話しかけられた。民宿の女将さんだった。竹ぼうきで玄関先を掃除している。
「おはようございます。昨日はどうも……迷惑かけてしまって」
「ええよぅ。なん気ぃなん。さぁけ、ばんになんとぅか、おんがしんえ?」
――しまったぁ! 私は九零がいないと、村人と会話が出来ない!
「あっ! ごめんなぁ。麻隅の訛り、きついからねぇ……夜に、変な音が聞こえなかったかねぇ?」言いなおした女将の言葉は、標準語とはいえないまでも、私にも理解できるから、ほっとした。
「いいえ。夕飯のあと、お風呂をいただいて、すぐイビキかいたから……あ、もしかして、私のイビキだったのかな……なっははは」
私は笑った。本当のことは言いたくない。女将さんも笑ってくれた。
女将さんは口に手をやり、大人の雰囲気を漂わせる笑い方だった。
「やぁなん、面白い人ねぇ……でも、それなら九零くんもピリピリするわぁ。さっき、あいさつしたけど、すごい目つきで睨まれてぇ」
「九零が、睨んだ?」
私は違和感とともに、妙な興奮を覚えた。もしかすると、今日の九零は、九零ではないのかもしれない。
「本当に九零が女将さんを睨みつけたの?」
「ええ。何だか、すごく不機嫌な顔して、あいさつもなし『この近くに湖はないか』って聞くんよぉ……喧嘩する子供みたいな声でねぇ……こんな村、やっぱり嫌いなのかねぇ。何ぁんにもない村だから」
そう言って女将さんは、指を指す。
朝霧に包まれた麻隅村。物音といえば鳥の声と、どこかで走る軽トラックのエンジン音だけ。静か過ぎて太陽が昇る音が聞こえそうだった。
民宿を横切るアスファルトの道から枝分かれした農道があった。左右を田んぼに挟まれた農道は一直線に続き、その道の行く末は、静かに漂う朝霧によってかき消されていた。
「この農道を歩いていくと、神社があるの。『湖なんてないから、地元の子と神社でラジオ体操やってきなぁ』てぇ冗談言ったら、ほんとに歩いて行ったわ」
「まだ帰ってないの?」
「ああ……そろそろ、終わってもええ時間ねぇ。心配なら散歩がてら、行ってみるかい? 山道でもない、ただの田舎道だわ」
女将さんの言う通り、昨日の山道より、ずっと平坦な道だった。私の足も、痛みは引いている。
行ってみよう。確かめてみよう。
「……うん。朝食までには、二人で帰ってくる。美味しいご飯、期待してるよ」
「昨日より元気でよぅね。いってらっしゃい」
私は、朝霧の中、早足で歩いていく。心を映し出すように足取りが軽い。
道が終わる。私は神社で西条に話しかけた。
西条は子供たちのラジオ体操カードにスタンプを押している。麻隅村の小学生は五人だけだった。男の子が二人、女の子が三人。みんな真っ黒に日焼けしている。
「九零くんなら、お堂を見学していますよ……彼と、何かあったんですか?」
「何かって、どういうこと?」
私は質問に質問で返す。西条は、困惑した表情だった。
「いえ、九零くんがすごく不機嫌そうにしていたので……あ、僕は何も、詮索をするつもりはありませんが」
「私は怒ってないし、聞いただけだって。九零と何か会話をした?」
「声をかけたのですが、無視されちゃいました。神主さんとは会話をしていますが」
西条が、指を指す。階段の上で、体格のいい男性が、何か喋っている。
私は西条に一礼をして、階段を上った。
「確かに『ヒーコー』という言葉は『火子』と書きますな」
しゃがれた声だ。九零ではない。神主だろう。私の心臓が、大きく脈打つ。
「しかし、それとカグツチを繋げることは無茶ですなぁ。そもそもウチは、高天原は天上の世界という信仰です。高天原に入り口も何も……ここに祭られている神さまはね、いわゆる『ひょっとこ』です。まあ火に男と書いて『火男』。それが鈍ったんですがね……しかしこんなこと、西条先生ぐらいにしか話したことありませんなあ」
がはははと大きな笑い声がする。
私は神主の後ろに立った。神主が振り返る。
「やあ、おはようございます。朝の神社に、美人さんと美少年がお参りとは、何かのドラマですかな。がっはは」
神主に軽く会釈して、私は九零を見た。
カーゴパンツにTシャツ。九零の趣味ではない。私は神主を通り過ぎて、彼の傍に寄った。
「何か、わかった?」
私は出来るだけ、平静を装った。彼はゆっくりと私を見る。
顔は九零の顔だが、怒りが垣間見える、きついまなざしだった。しばらくの沈黙のあと、彼は、ふっと息をついて重い声をだした。
「九零から頼まれている。だからあえて、お嬢様と呼んでやる」
「私は、あなたのことを何て呼べばいい? 『アイヌ』でいいの?」
「……『イド』」
イドはそう言うと、神主に再び声をかけた。私も混じって、色々話した。麻隅の伝説やおとぎ話、風習――でも、私の心の中はイドという名前で埋め尽くされていた。
民宿に戻って、イドと私は朝食を食べた。白米に味噌汁、おひたし、煮物、鯵の開き――私にとって、豪華極まる朝食――数多の神々よ! 女将さんよ! いただきます!
でも、イドはさっさと食事を済ました。
私はしっかり食事をいただき、女将さんにお礼を言った。そしてイドを探す。
イドは、旅館の庭で体を動かしていた。
両手を胸の前で合わせて一礼する。頭を下げるとき、鼻からゆっくりと息を吐き、上げるときは、口から空気をゆっくり吸う。この一連の動作に一分を費やす。そして身体の隅々を流れる氣を感じ、その氣が、より大きく波打つまでその動作を繰り返す――
そしてイドは、軽くストレッチをして筋肉をほぐすと、走った。ただひたすら、村中を馬のように走り回った。
朝から昼になって、炎天下の元、麻隅村のすべての草を、踏み潰すように山も農道も走った。内氣はバリエーションのとんだ鍛錬が多い。でも、
それほどまで鍛えなければカムイは扱えないから。
「……九零のやつ、鍛錬を抜いたな。だいぶ外氣が減ってやがる」
息をきらしぼやきながらイドが最初の休憩をいれるころ、すでに太陽は西へ傾いていた。それでも蝉はうるさく叫んでいて、気温も三十度を越えている。時間は午後三時を過ぎた。太陽の日差しは痛いほど強い。
イドは上半身裸になって、滝のように汗を流し、民宿の縁側で寝転んでいた。
「よくやるね。こんなに暑いのに」私は、ジュースとアイスクリームをイドに差し出した。
「いらん。内氣が腐る」
「じゃ、いただきます」縁側に座り私は、喜々としてアイスを食べた。神々よ――ふと、感謝の口上を中断し、私は指を折って計算してみた。
朝食が七時半ごろだったから、八時ごろから走り出したとして……うわっ、五時間以上、走りっぱなしかよ。私には、イドの鍛錬についていけるほどの体力はないや。足が壊れるもん。
「よく生きているね」
「これぐらいで、くたばってたまるか……お嬢様だって、その気になりゃできる。それだけの基礎は積んだはずだ」
「そんなことない。『女は技』って教えられたもん」
「
「……もう、あの人とは縁切ったよ」
馬鹿姉の名前を久しぶりに聞いて、私はとてつもなく不快になった。約半年振りのアイスも不味く感じる。なんだかジュースより酒が飲みたい。イドはそんな私を見透かすように言う。
「逃げるのか? 酒や九零に逃げるのか? 逃げて逃げて、いつか『アイヌ』に殺されるまで」
「逃げてねぇよ」
私が眉間にしわを寄せると、イドは上半身を起こして、麻隅村を囲む山々の一角を指差した。
「じゃあ、あの山の中腹まで行ってこい。面白いものがある」
「今、ここで言えよ」
はんっ、とイドは鼻で笑った。九零の顔だから、すごく違和感がある。
「イド、あんた喧嘩売ってるの?」
「九零に止められている。お嬢様に拳をむけるな、手伝ってやれと……九零の発見したものがあそこにある。さっさと行ってこい」
何なんだ、コイツ。腹立つ。
私は何も言わずアイスをかきこんで立ち上がり、ジュースを片手に民宿をあとにした。
道中、夏の日差しに負けず劣らず、元気な中学生たちが三人、騒いでいる川があった。水着なのか下着なのか、よくわからない薄着だ。助走をつけ、勢いよく橋から川に飛び込む。三人とも女の子だ。私が眺めていると、一人が私に気づいて、慌てて体を隠した……こう見えても同姓なんだけどなぁ。
しばらく歩くと、さびれた学校があった。木造一階建てで、ペンキのはげかけた校舎だった。廃校だろうか? でも、ここでも子供たちが遊んでいる。
校舎を使って、かくれんぼか、鬼ごっこをしているのだろう。今朝、ラジオ体操に来ていた五人だった。そのうち一人が私を指差し、言った。
「なん陽くん! あれ、誰ん?」
「ああ、きっとあれ、さっきの兄ぃの人やん? ほら、すっげ足した」
「ああ、都会モンな。速かったな」
たぶん、イドが走っているところを見て、私をイドの家族だと思っているだろう。だいたい正解だ。
「でも、ほなぁ、陽くん。咲ちゃんがいう『ヒーコーさん』って、なん、どっち?」
「ああ……あれは、わかんえ」
私は麻隅訛りがわからない。
子供たちが、私に向かって叫ぶ。
「他所がふかせんな! ふかせんな!」
それだけ言って、校舎のなかに入っていった。
嫌な感じ。学校のグラウンドにゴミ箱があった。そこにジュースの空き缶を捨てた。
山に近づくにつれて、私の心はぐちゃぐちゃと、乱れていく。
何故、こんなに足が痛い?
何故、子供に文句を言われる?
何故、イドに命令されなければならない?
それは全部、私が悪い。自業自得か――そう割り切ろうとしたとき、聞き憶えのある声が聞こえた。
山への入り口――高い木々に囲まれた登山道から、女の子が走ってきて、今来た道に向かって叫ぶ。
「もう、ええかげんせぇ!」
昨日、無賃乗車をした女の子、咲ちゃんだ。彼女が叫ぶ方向、登山道から身長二メートルはある大男が出てくる。いかつい顔をして、ヤクザみたいな風貌だった。
「お嬢、ええ加減にせなん」
大男は犬猫のように咲ちゃんの後ろ首を掴んで、引っぱった。
「放せ、グータラ! ハゲこらぁ!」
咲ちゃんは、じたばたするが、大男は、ずるずると、確実に登山道へ彼女を連れて行く。事情が分からない私は、ただ見ていた。それが普通だ。
私には関係がない。大体、彼女は『ヒーコー』なんだから、多少のことには目をつぶってもらえるんでしょ?
だったら、それに見合った制約のなかで生活しないと、周りが損するばかり。それでイーブン。
でも、そんな咲ちゃんの一声が、私を動かせた。
「ええやろ! 遊びにいく! 友達と遊んで、なん悪い? 『ヒーコー』とか、しったこっちゃなん! ガッコ行くん、なんが悪いえ!」
身体が動いた。足は痛むが、いうことをきいてくれた。
「え? あ、あれ?」
咲ちゃんは私の背中にいる。おんぶされて驚いているようだ。
大男は、姿を消した咲ちゃんを探している。
「なん……どこね? お嬢!」
私は大男の腕から、咲ちゃんを連れて元の場所へ戻っただけだ。
あまり使いたくないけれど、こんな場面じゃ、仕方がない。
ああ、氣が減った……氣力が減る辛さというのは、貧血にちかい不快感。一度にたくさん減ると気絶することもある。
「ね、姉ちゃん……なん?」咲ちゃんが私に気がつくと、大男も気づいた。睨みをきかせて近づいてくる。
私と大男の距離は、三十メートルくらいか。
このぐらいの距離、すぐ気づけよ、ウスノロ。
「あん? なんえ? お嬢さらってなんしとう?」
大男は、言葉にも凄みをきかせて近づいてくる。
来るならこいよ。いい憂さ晴らしだ。
「……なん、言葉、知らんのこ?」
大男は私を見下ろす。もう、私の間合いに入った。
「他所モンが、なんえ? お嬢をどうすんえ?」
私は咲ちゃんを地面に下ろし、鼻から息をゆっくり吸った。そしてゆっくり口から吐く。時間をかけて、ゆっくり、何度も繰り返す。
「……なんえ、こいつ」
大男は動かない。私も動かない。咲ちゃんも動かない――でも、その間で、ありとあらゆる物は動く。物思え。そしてそれが熟すまで待て――『実家』の教えが頭を巡る。
内氣とは身体を動かせるもの。原動力。それ無しで存在するもの無し。外氣を重んじるあまりに内氣を減らすな。欲求、不満、希望、それらを小さくするな。願え、欲しがれ、叶えてゆけ。そのためには己を知れ。知ったなら超えろ。超えたなら落ちろ。落ちて再び己を知れ。きり無く動け。動いて生きろ。死ぬまで、ずっと。
私は大男のどてっぱらに右拳を叩き込んだ。大男は今来た登山道を文字通り、吹っ飛んでいった。ゴウ、と、風が、あとから吹いて、草木を揺らす。
大男が大木の幹にぶち当たって力なく前のめりに倒れる。失神したようだ。どっさりと葉っぱが降って、大男に降りかかる。
全くの無防備だった大男に回避も防御も出来るわけがない。この場合、受け手は足をふんばって耐えるしかない。
私の、鍛錬不足の腕で手加減したとはいえ、内氣を練りに練った一撃を繰り出したから素人に耐えられる訳がない。
「ふぅぅぅ……」私は呼吸をゆっくり整える。大氣を取り込み内氣にかえないと、気絶する。久しぶりに使った
礼もしとこう。ちょっとすっきりした。ありがと。
……しかしまぁ、久しぶりだけど、けっこう飛んだ。
咲ちゃんに笑いかけるが、彼女は、呆然としていた。これはもう、しかたがないこと。私は感謝されたくてやったんじゃない。ただの憂さ晴らしだもん。
「今度からは、こっそりと抜け出しなよ。それと、バスの料金は払いなさい」
「……姉ちゃん『ヒーコーさん』え?」
「違う。昔、ちょっと鍛えただけ」
「じゃあ、『カムイ使い』え?」
夕立が近づいてくる。空が、ゴロゴロと唸るころ、私は民宿に戻った。
咲ちゃんを連れて。
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