K・A・I

秋澤景(RE/AK)

イナミ編

第1話 クレイと私

 ◆

 最初に光があった。世界は一つの光だった。

 次に闇があった。光の塊、その中に闇があった。

 光は闇を覆いつくすため散らばった。

 世界は金色に光る草原になる。

 そこに『光らない光』が一つあった。

 出来損ないの『光らない光』は草原で、他の光から教えを受ける。

 その膨大な教示のなかに言葉があった。

 いつしか他の『光』は興味をもった。言葉を上手く使い、また、様々な事柄を生み出していく『光らない光』に興味をもった。

 金色の草原に、いつしかもう一つの『光らない光』が現れた。

 それは他の『光』を壊していった。そんな力があった。


 二つの出来損ないが相見える。

 すると言葉の上手い出来損ないが言う。

「こなた そなたの意を知らませば 光に成りたもうに」

 すると光を壊す出来損ないが言う。

「こなた そなたの意にそう事 あたわず」

 そして二つの出来損ないは争いをはじめた。


 幾百の時で幾戦を重ねても決着はつかない。

 片方が言葉を操り他の『光』に助力されても、片方はその『光』を打ち消す。

 その繰り返し。争いは延々と続き、今日でも決着はつかず。


 その争いのなか、他の光が二つを『人間』と呼んだ。

 特に『光』の助力を得て戦うのを『神意カムイ使い』と――。


 ◇

 さっきから淡々とした口調で話しているが、九零クレイにとってそれはただの夢の話ではないことぐらい、私にもわかっている。

 しかし今の私に聞いている余裕はない。

「――お嬢様、聞いていますか?」

 九零がドア越しに尋ねてくる。何事にも物怖じしない九零は、ときとして厄介だ。私は苛立って、大声を上げた。

「後で聞くって言ってるだろ! ドアから離れろ、馬鹿!」

「失礼いたしました」九零の丁寧な返事のあと、ボロ床のきしむ音が一つ、二つ、三つ。そして炊事をする音。九零が聞き耳を立てている気配も消えた。もう、いいか。

 私は下着を下ろした。私がいるのは、築六十年のボロアパートのトイレ。そう、ここはトイレ。老朽化が進む壁にはカレンダーが貼ってある。その隅に大きく『紙は一回、十五センチまで!』と私の字が書いてある。達筆だと自分でも思う。

 

 九零の馬鹿。デリカシーってものを知らないのか。私を誰だと思っている? 華ざかりの二十代、土建屋のマドンナこと神宮イナミ様だぞ。男くさい現場に咲く一輪の花――金槌を振るえば百合、日の丸弁当を食べれば牡丹――私と一つ屋根の下で暮らすのを夢見るアンちゃんが何人いると思ってる? 三人だぞ、三人もいるぞ。その三人全員が妻帯者だぞ。不倫上等、目指せ多重婚! はぁ……虚勢なんて空しいだけだ。

 ガタガタと、おんぼろアパートが、小刻みに揺れる。断じて私のせいじゃない。

 また風だろう。どうなってるんだ東京の住宅事情は。

 

 思い出すのもおぞましい。あれは去年の十月だった。東京に上陸した台風二十号は猛威を振るい、この、家賃五万円のボロアパートを吹き飛ばそうとした。保険なんて入ってないから、必死で雨漏りを直して、ガラスを取り替えて……結果、被害は家計へ。私たちは首をつる寸前まで追いやられた。今年は大丈夫だろうか? 心配は尽きない。

 

 情けない。二年前、私は全財産を無くしてから、通帳の預金残高はゼロが一つ書かれているだけ……。

 一時は嫌になるくらいの数字が書いてあったのに。


 居間に戻ると、イギリス風のダークスーツ姿の華奢な美少年――九零が朝食を並べていた。私が、その格好はやめてくれ、と言っても、紳士の礼装だからゆずれないらしい。よくわからん。

 くすんだ六畳の畳の上に、丸いちゃぶ台。その上に並んでいるのは、白米と納豆。いつもの朝食だ。笑うところじゃない。平成のデフレ時代に、必死に生きている私の朝食だ。私は流し台で手を洗って、いつもの席へ。今日も一日、健康であるよう、願って手をあわせる。

「数多在る神々様! いただきます!」

「では、お嬢様、僕の話を聞いてくださいませ」

 九零は朝食抜き。だってこいつが先週、宝くじを買ったから。ただでさえ苦しい家計を道楽によって圧迫するなど言語道断。だから一週間の朝食抜き。私は納豆に醤油をたらし、かき混ぜて、ご飯の上にかける。

 でも九零の夢の話……聞いてやってもいいか。

 しばらく九零の夢の話に耳を傾ける。


 まあ、あれかな。『実家』で教えられたカムイの伝承に近い。

 夢は脳の情報整理って仮説もあるし。

「ずいぶん、幻想的ですこと……それで、何?」

「僕が涙を流す夢ですから、少々、気になったのです」

 九零の夢は、金色の草原で二人の人間が戦い、片方が消える瞬間、とある地名を言い残したとのこと。そしてそこの湖を目指せと。

 私が仕事で疲れきって爆睡する深夜、こっそり駅前のマンガ喫茶に行って、一時間の使用料金を浪費してまで調べると、その地名は実在したらしい。

 

 私は納豆ご飯を口にかきこみながら、九零の調査結果を記したメモを見る。綺麗な字で『N県・中部地方の麻隅村ついて』と書かれている。麻隅と書いて『ますみ』と読むらしい。何々――人口三千人ほどの小さな村で、四季折々の山菜が特産。また五百年以上の昔から伝承される物語について云々――ん?

「湖はどうなの?」

「わかりません。地元役場の紹介ページはそれだけです。湖については一切が不明でした」

「残念だったね……神々様! ごちそうさまでした!」

 九零が食器を片付け始める。私はメモをちゃぶ台に置いて、畳に寝そべる。天井にいくつかあるシミのうち、一際黒いシミを見ながら考えた。お金を無駄使いした九零に、どんな罰を与えようか思案する。


 ――まったく。調べものなら図書館に行けよ。夕飯も抜きにしてやろうか、いや、死なれると私は――

「ですから、お嬢様。ぜひ現地へ足を運びたいのです」

 食器を洗う九零からの発言。その言葉の意味を理解した私は、感情を抑えきれない。

 九零は背をみせている――細い体、無駄な肉のついていない、身長は百六十ぐらいの草食系男子。顔立ちはアイドルのように可愛いくせに、世間を知らないような無垢な性格――私は、食器を洗う九零の背後から、悟られぬよう、ゆっくりと近づいて、九零の華奢な首へ、両手を伸ばす。そして思いっきり絞める。

「てめぇが、そこまで馬鹿だとは……ウチにゃ、お金がねぇの! ここまで生活が苦しいのは、てめぇのせいだってのがわからんのか! ああ?」

 私はチンピラのように怒鳴り、培った武術の鍛錬、日ごろの肉体労働で鍛えた力を振り絞り、九零の首を絞める――いつだったか、私が痴漢にあったとき、私はその痴漢を病院送りにした。その後、痴漢は同性愛に目覚めたらしい――しかし九零は、もくもくと食器を洗い続ける。

「交通費! 宿泊費! 食費! 土産代に観光費! また私を破産させる気か、九零!」

 首を絞めても九零は平気そうだった。だから、両手で九零の頭を掴んで、揺さぶった。

「そんなことに費やすお金が、どこにあるって? あるなら言え! 言ってみろぉ!」

 すると突然「し、し、し」と九零が連呼する。え? こうすると死ぬの?

 私は慌てて頭から手を離す。


 九零に死なれたら……それだけは、いやだ。絶対に、いや。


「お嬢様、昨日の夕刊をご覧くださいませ」

 九零は何事もなかったように喋る。

 毎日朝と夕方、九零は新聞配達のバイトをしているので、特別価格で新聞を貰っている。玄関に置いてある新聞の山は、先日の夕刊が頂上だった。私は手にとってざっと目を通した。

「ごくフツーの新聞だけど」

「十面の隅に15・34126と書かれています。ご確認ください」

「なによ、それ」

「先週、お嬢様がご購入された宝くじの番号です。それが乗っています」

 九零は冗談を言わない。絶対に言わない。でも、今回はしっかり確認しないと。様々なところで、私の人生設計に支障がでるから。

「えっと、九零くん……あれは、一等は、前後賞あわせて、いくらだったかしら?」

「三千万円です。二等は一千五百万円、三等は六百万円……今回は、三等にご当選なされました」

 食器を洗い終えた九零に、おめでとうございます、と言われ丁寧にお辞儀されると、私は、この世の春を感じた。

 外では、ひたすらアブラゼミが鳴いている。今年の夏は、暑いぞ……なっはははは……。



 たまりにたまった欲望は大胆に、凶暴に、破裂した。

 

 宝くじを現金と交換した日の夜、私と九零はブランド洋服を詰め込んだボロアパートで、家賃より遥かに高額のワインを飲んだ。

 久しぶりのアルコール。酒というものは、なんて、すばらしいのだろう。

「九零くぅん……きみさぁ、欲しいものとかぁ、やりたいこととかぁ、ないわけぇ?」

 酔った勢いで、九零のわがままを一つだけ聞いてやろうと思った。九零が宝くじを買おうと言い出さなければこんな思いは出来なかったのだから、一つぐらい、いいや。

「僭越ながら、お嬢様、僕は麻隅に赴いてみたいのです」

「ますみぃ? あんな田舎、なぁんにもないじゃん。どうして?」

「約束をしたのです」

 九零は、ワイングラスをそっと、ちゃぶ台に置く。ワインは減っていない。付き合いの悪いやつだ。

 まぁ、今日のところは、真面目と言ってやってもいい。

「約束ぅ? 誰と、どこでぇ?」

「夢の中でございます」

 私はけらけらと笑った。九零の真面目さを笑った。だって、没落した私なんて見限ってしまえばいいのに、律儀にここまで付いてきたし、飲めないくせに酒の席にも付き合うし、挙句の果てには、夢で交わした約束まで果たそうとする……私にゃわからん。

 いやならいやと言えばいい。それは教えたはずなのになぁ。なんで、こんなに真面目なんだろう。仕事場でいじめられていないかな? まぁ、怪我の心配はしてないけどね。可愛い顔して、九零は結構強いから。

「夢なんてぇ、あんたの脳みそが作った幻覚よぅ?」

「そうでしょうか」

「……そうよ。文句ある?」

「いえ。ただ、僕の夢は……特に、泣く夢は、実現するものですから」

 私は手付かずの九零のワインを一気に飲み干す。美味い。一本四十万というのは伊達ではない。九零くんにゃ、わからんだろうが、この風味、まったりとしたコク、喉を通り抜ける名残惜しさといったら……ああ、もうなくなった。最後の一本を開けよう。

「お嬢様も、ご存知でしょう」

「存知ません。だって、九零がそう言って投資した会社、すっげぇ勢いで潰れたもん」

 顔が赤くなっているのが自分でわかる。軽く眠気が来る。飲みはじめてから、かれこれ何時間たった? 私は部屋に転がっている年季の入った、くまの置時計を見る。午後七時だった。えっと、四時から飲んでいるから……なんだ、まだ三時間しか経っていない。

 いつもより陰気な表情で九零が正座している。三時間、ずっと同じ場所で、寸分も動いた形跡がない。そういえば私がこのアパートに来て最初に命令したのは九零の席だった。あっちこっちと動きやすいよう九零は流し台を背に、窓を正面にした席。私は落ち着いて部屋を見渡せるよう壁を背に、九零の右隣の席。

 九零の正座する畳は湿気でふにゃふにゃしている。私が胡坐をかいている畳は、ところどころシミがあるものの、しっかりしている。

「僕には、お嬢様のお世話をする以外、能がありません。あの会社のことにつきましては……すべて言い訳になってしまいます」

「もう二年も昔のことだから、まぁ、その話は止めよう……とりあえず、飲みなさい」

 はい、と返事したので九零のグラスにワインを注いでやる。トクトクと音を立てて、赤い液体がグラスに溜まっていく。九零はその様子を、無表情で見ていた。子供が国営テレビニュースを見ているように、理解しがたい、と言いたげな表情。

「いただきます」

 そう言って九零はグラスを手にして、眺めるだけだった。

「……九零、感想は?」

「綺麗な真紅ですね。花園のように爽やかな香りが漂い、少しでも揺らすと、朽ちてしまうような儚い生命を連想させます。三十年というのは人間としてみるとまだ早熟――」

「ねぇ、九零。うれしそうに笑ってみて」こんな無茶苦茶な命令も、九零は素直に答える。

 九零は幼い顔をすこし右に傾けて、口を大きく開け、目を細める。うれしそうというより、何か悪行を企んでいるのではという疑惑が浮かぶ。少年のような九零のルックスからは、一番やってはいけない表情だった。

「これでよろしいでしょうか、お嬢様」

「……もういい。普通にしなさい」

 真面目な顔でも作り笑いでも、九零の声は同じ調子。感情が分からない淡々とした声。


 私は、とうとう負けた。今日買ったばかりの財布を九零に渡す。

「予算限度を決めましょう。調子に乗って使いすぎないように」

 九零はきょとんとしている。やれやれ。私は頭を掻いて、言った。

「まず、駅前のネットカフェで、交通手段を検索、安いホテルか民宿を……そうね、三泊、予約してちょうだい。十万円以内で済ませて」

 九零の顔が、みるみると赤くなっていく。瞳が潤んで、光を宿す。凍死寸前だった遭難者が、温かいスープを飲んで体温が上がり、少しずつ活気を帯びていくようだった。でも他人には判別できないだろう。それほど微妙な変化だ。

「ついでに服も買ってきなさい。今のあんたを田舎の人が見たら、私が誤解されるから」

「お嬢様……ありがとうございます。この九零は、お嬢様の元で生き、これほどまで、寛大なご好意を……」

 私は、土下座して長々とお礼の口上を述べる九零を追い払うように、手を振った。


 いつもの丁寧なお辞儀をして、九零は静かに部屋を出た……つもりだったのだろうが、足音でわかる。すごく喜んでいた。

 私は一人でワインを飲むのも味気ないので横になる。いつの間にか眠っていた。私は夢をみた。

 九零と、はじめて会った日の夢。

 ここではない、もっと大きな、暗い部屋だった。そこで私が鉄格子の奥にいる、彼に話かけている。鉄格子の中で彼は裸で椅子に座っている。

 私が九歳のころだ。九零は私の初めてできた友達だ。無刀大里流操氣術むとうおおざとりゅうそうきじゅつなどという大袈裟な看板を掲げ『カムイ使い』という人間を集めた『実家』から、一緒に家出して五年経った。九零と出会ってからは十一年経った。

 私は二十歳になったが、九零は変わらない。

 あのころの性格、ルックスのまま。

 私と彼はずっと一緒にいる。


 ◇

 よく考えれば九零と東京を出るのは三年ぶりだ。

 三年前は私と九零、そして当時の同級生五人で沖縄へ行った。終始、九零が女友達に可愛がられ、男友達が妬ましそうにそれを見ていた。

 九零は他人と接することも丁寧で上品だから、仲間よりも敵を作りやすい。男も女も最初は好意的だけれど、いつか九零に飽きる。

「九零、駅弁を二つ買ってきて。一番美味しそうなやつ」

「かしこまりました」

 都内最大の駅内だろうと、そこにどんなに大勢の人がいようと、私が命令するたび丁寧にいちいち、お辞儀する。数分後、大きな幕の内弁当を手に持って九零が帰ってきた。

「ちょっと九零、いくらだったの?」

「一つ二千五百円でした。中身は――」

「それは説明するな。何で、そんな値が張るのを買ったのかと聞いているの」

「最も美味である駅弁をご所望されたので、これが当該する品と思われます」

 こんなことが毎日おこると百年の恋も冷めるだろう。いつだったか、九零とデートした同級生が言っていた。

 九零くんって、わからない人――私から言わせればそれは、九零ではなくそっちが悪い。九零と付き合うなら、九零のことを理解しようと努力しないと、どんな感情も絶対に長続きしない。九零はただの可愛いペットではないのだ。

「返品してきなさい。その足でキヨスクに行って、おにぎり四つとお茶を買ってきて」

「かしこまりました」

 身長165センチ、黒いジーンズに白シャツの美少年をこき使う二十歳の女。

 私を見る他人の眼は冷ややかだ。それは私たちを理解していないからでもある。

 よく誤解されるが、九零は私の使用人ではない。私は九零に給料を払ったことがないし、ことあるごとに九零に言っている。他所に行ったほうがいい暮らしができるよ、と。

 それでも九零は私と一緒にいる。ボロアパートに住んで、貧しい飯を食い、薄い毛布を被って眠る。私が没落した日、九零の前で私は泣いた。わんわんと泣いた。

 彼を学校に通わせる余裕がなくなったから、私は泣いた。

 そのとき九零が、言ってくれた。

「僕は、お嬢様と一緒にいたいだけです。お嬢様のご希望を、叶えたいだけなのです。それだけの能力があれば、僕自身はどんな境遇でもかまいません。泣かないでくださいませ」

 いつもの九零の調子で、たったそれだけだが、私は救われたのだ。九零のせいで没落したことにしよう。そうすれば、九零は私を嫌いにはならない。九零は私のわがままを聞き続けるし、私も九零にわがままを言い続けて暮らせる。そうして、ずっと一緒にいられるのなら本望だ。

 声には出さないが、きっと『彼』もそう想っている。

 そう想っている……はず。


 各駅停車で関東を脱出する。本当に目的地に近づいているのだろうか。不安。最終的にスケジュールを組んだのが、他ならぬ私だから。でも電車は確実に、目的地の最寄り駅へ運んでくれるはずだ。たぶん。きっと。

 

 N県の天弦てんげんという人気のない駅で、私たちは電車を降りた。そこから麻隅村まで歩くことにした。目指す村までは山道が続く。

 道中、私たちの周りにあるのは豊かな森林、綺麗な小川……それにくわえて凄まじい声を上げる蝉ども、容赦ない日差し、殺人的な気温。都会の生活に慣れた私には、辛い。

 足を一歩踏み出すごとに響く感覚は痛覚に変わり、私の体力を奪っていく。休憩を何度もいれて駅から歩くこと二時間後、集落の影さえ見えない山の中、私は地図を広げた。

 いかんせん、私は地図の読めない女。山の地理というのは、どうしてこんなに、ややこしく、人間を拒むのだろう? ここは九零に頼ろうか。

「九零、ここはどこ? 村は?」

 地図を渡すと、しばらくの間、地図と景色を交互に眺めて、九零は今来た道を指した。

「お嬢様、いったん引き返して、駅に戻りましょう。今ならバスに間に合います」

「……はぁ?」

 今までの苦難を一蹴された私は、九零の言葉を否定するしかない。

「駅から村へのバスは一日に三本しか無いんでしょ? 歩いたほうが早いって、九零が言ったんじゃん」

「お嬢様、今からそのバスに乗ったほうが早いのです。現在の場所から麻隅村まで歩くと、およそ四時間はかかると思われます」

「何で? 地図には、東へ十キロって書いてあるでしょ? もうすぐだって」

「それが、僕たちは道を間違えてしまったようでして」

 嘘だ。そんなこと、あってたまるものか。

「一本道だったじゃない。ほら、太陽が沈む方角。こっちが東」私たちは夕日に向かって進んでいた。こうなると、地図がおかしいのだ。私は九零から地図をひったくり、懸命に現在地を確認しようとした。すると九零が、いつもの淡々とした声で、とんでもないことを言う。

「お嬢様、太陽が沈む方角は西でございます」

「……ふっ、わかってないな、九零くん」

 私は頭に手をやり、最も簡単な、方角を知る方法を伝授する。

「方角を知るには、あのアニメの主題歌のAメロを歌いなさい。はい、西から昇ったお日様が東へ沈む――」

 私は、その歌をワンフレーズ歌うと脳内で高速修正した。何か、引っかかる。真実が曲げられている。この歌に秘められた真のメッセージ――ああっ! 

 しまった、違う! この歌詞は、逆にせねば!

「お嬢様、その歌詞は作品の面白さを主張するために、あえて事実と反対の歌詞なのではございませんでしょうか」

 九零の言う通りだ。このアニメに出てくるパパは言っていた。反対の賛成なのだ、と。


 東京を出発したのが、朝九時。十二時に電車内でおにぎりを食べて、天弦駅に着いたのが午後二時。それから歩き続け、間違えた! と午後四時を過ぎて引き返し、再び天弦駅に到着したのが、午後六時だった。蝉からヒグラシへバトンタッチして、そのヒグラシの声も、せまり来る夜の闇に尽きようとしている。ちらほらと、外灯が点灯していく。

 日ごろ土建屋で働く私ですら疲労を感じた。足の筋肉が張っている。こりゃ、明日が辛いだろうな。

 暗い天弦駅で私と九零だけが麻隅村へのバスを待っていた。駅前を通る車に、相乗りさせてもらおうと考えたが、五分もするとマイクロバスが来た。

「んぎゃっ!」私の足が痙攣を起こし、悲鳴を上げたのも、そのときだった。

「お嬢様、お手を」

 九零に引っぱってもらい、ようやくバスに乗り込む。ああ、今日は疲れた……もう、お風呂に入って、ゆっくりしたい。


「痛っ! 九零、そこ、かなり、痛い!」

 バスの中で、九零が私の足を、マッサージしてくれたが、逆効果だった。自分の足と思いたくないような、激痛がはしる。

「ふとももの筋肉が、すごく張っています……」

 九零は、激しくゆれるバス内で左膝をついて、私の足を診察している。乗客は、私と九零だけだった。

「昨日今日の疲労で、こうはなりません。お嬢様、もっとお体をご自愛くださいませ」

 九零が、少し怒ったように言った。

 誰のお願いで、こんなになったのか、わかってんのか! と言い返そうと、私が口を開けると、車内にアナウンスが流れた。

「東京の人か?」

 私と九零は運転手を見る。小柄な男性だった。五十代後半だろうか。ヘッドセットをつけている。つまり、この車内アナウンスは運転手の生声だ。

「こなんとこへ、なんして?」

 田舎バスのアナウンスって、こういう使い方をするの? 九零に聞こうとすると、またアナウンスが流れる。

「なーにもなんのぁ、ここの名物っちゃ、名物か」そして笑い声。正直にいうと、気味が悪い。私にとって、運転手の言葉は訛りがつよくて聞き取れなかった。

「麻隅村まで、何分かかりますか?」九零だ。「お嬢様が、お怪我をなされたのです。途中に病院など、無いものでしょうか」

「病院かぁ、そりゃなんわ。あらええが天弦はぬけたし……ええとこのセンセならおらよ」

「村へ行く途中でしょうか?」

「あんま、なかとはなん……連絡しちゃろ。いく麻隅のバス停で、待っとき。そうな、もう、一時間ぐらいな」

「ありがとうございます……運転手さん」

 運転手にむかって九零がお辞儀をする。私には何の会話なのか、さっぱりだ。九零に聞くと、運転手さんが医者に連絡をつけてくれるらしい。だから麻隅のバス停で待っていろということだ。

「坊やはいくつなぁ? 姉弟にはみえんが?」

「こう見えても僕は十九歳です。運転手さんは、おいくつですか?」

「おれぁ、もうじじよ。きかんで、きかんで」

 車内アナウンスを使って会話する九零と運転手。これほどまで愛想のいい九零は久しぶりだった。表情も明るい。他人から見れば、いつも通りだろうが、ずっと一緒の私にはわかる。

 テンション高いな、九零くん。

「でぇもよぅ、十九になってよ、お嬢様はなんえ? そういうんがはやっとんかい?」

「いえ。僕は、お嬢様を、お嬢様とお呼びするように勅命されているのです」

「むずかしいこったぁ、分かなんが、あれか、メイドとかいう」

「ちがいます」

「ふーん。じゃあ、あれか、『ヒーコーさん』か? って、そりゃなーな。へへへ」

 また運転手が笑う。何の会話だよ。全くついていけない。私はなんとなく不快になったので、九零にたずねる。

「僕が使用人に見えるそうです。それを否定すると『ヒーコー』かと、尋ねられました」

「そこまではわかるよ。その『ヒーコー』って、何?」

「申し訳ありません。そこまでは、わかりかねます」

 私がよく言われる文句から考えると、運転手は九零をツバメかヒモと勘違いしているのだろう。もちろん、九零にそんなことは教えていないし、しつけてもいない。

 私が九零に教えることは、まぁ、一般教養とか、礼儀作法ぐらいで、私の趣味を押し付けてはいない。九零から、ああしろ、こうしろ、と言われることも滅多にない。

 私が『ヒーコー』の意味を聞こうとすると、運転手は携帯電話を取り出し、話し始めた。車内アナウンスはちゃんとオフにしてある。運転手はたぶん、医者に連絡しているのだろう。ずいぶんと楽しそうだった。

 

 でも電話しながらって……ご好意はありがたいけど、やっちゃダメでしょ。

 

 私は溜め息をついて、外の景色を見た。九零に聞いた情報では麻隅村は山奥の限界集落だ。でも、想像していた景色ではない。川とか、山とか、もっとはっきりとした風景を想像していたのに、一面の暗黒だった。しかも、バスは右へ左へ、ぐねぐね曲がってばかり。こんな道が一時間も続くの? つらいなぁ。

「九零……本気で言うけどさ、何もなかったら村において帰るよ」

 九零が返事しようとすると、バスが急停車した。慣性の法則により、私たちの体を衝撃がおそう。私はおろかにも、筋肉痛の足で体重を支えてしまい、悶絶した。

「お嬢様、しっかりなさってください」

 こればかりは九零にもどうしようもない。悪いのは運転手だ。

「ちょっと! ケータイなんか――」私の怒りは運転手へ。すると私の大声に負けず、運転手がほえる。

「このボークラ! なんしとぅ!」運転手は、バスの前方に向かって叫ぶ。携帯電話の相手ではなさそうだ。バスの前に、野生動物でも飛び出したのだろうか。

「なん? ……ほんに、しゃーなんのぅ」

 運転手が溜め息混じりに言うと、バスの扉が開く。そして、一人の女の子が乗り込んできた。

「おぅ咲! 今日はなんね? しんどか?」運転手が笑って女の子に聞くと「うっさい! 黙ってバス走らせろ、ハゲ!」と詫びもいれずに運転手にくってかかる。二人のやりとりを、私と九零は、しばらくの間、黙ってみていた。

「んないいかたねぇん……咲よぅ、毎日、ガッコもいかんとなんしとぅ?」

「ハゲに言われたくないわい! はよ出せ!」

「あんなぁ、おのれの血統、しっとうか? おのれのじじを見てみぃ、まぁ、おのれもあれになるわ」

「もうええ、話にならん。私が運転する!」

 私は九零の肩を叩く。今の彼女の言葉は、完全に理解できた。

 九零に命令する。あの子をなだめてくれ、と。

「かしこまりました」九零は立ち上がって、私にお辞儀をし、女の子に向かって歩き出す。

 女の子は、運転手の胸倉を掴んでいた。

「こら! なんすんね、咲!」

「うっさい! ハゲはおとなしく――」

 女の子が右腕を振り上げ、拳を握り、運転手にぶつけようとした。

 九零は、その手を掴み、女の子を運転手から引き離す。

「な、なん? お前! 他所モンか?」

「話し合いが無理というのであれば、実力行使に移る――それは、僕も同じです」九零の冷ややかな声。私の席から九零の表情が見えないが、いつもより冷淡であるのは確かだ。女の子は最初より、声の調子が大人しい。

「なん……なん、手ぇ、離せって!」

「僕が手を離したら、どうするのですか? 殴りかかるなら、僕は、あなたとの話し合いの余地がないとみなし、腕力であなたを取り押さえます……大人しく席に着く、というのなら、僕は邪魔しませんが」

「ああ? なんえ?」

「僕は、同じ命令を何度も実行するように、とは教えられていません。却下します」

「……なん、こいつ、なん言っとう?」女の子が、私を見た。怯えきった表情……そう、九零は可愛いペットじゃない。私は女の子にアドバイスしてやった。

「迷惑かけてごめんなさいって、謝ればいいのよ」

「え……でも……こいつが先に」

「九零は強いよ。相手を見てから決めれば?」

 最初の勢いはどこへいったのか、九零の顔を見ることが、まるで魂を抜かれるかのように怖がり、ゆっくりと首を動かす。

「申し遅れました……僕は、九零と申します」

 あらためて九零の顔をみた女の子の瞳から、生気が消えていく。顔も青白くなっていく。

「名前だけでも、顔だけでも……憶えていただければ、光栄です」

 そんな自己紹介されちゃうと、女性は絶対に忘れないって。こいうとき九零の表情は、能面のように感情がないし、声はいつもより鋭いし。なにより言い方が面倒くさい。

 私は幸せものだ。九零が味方で、本当に、よかった。

「……ごめん、なさい……」

 女の子の、消え入りそうな、か細い声。九零は女の子の手を離し、お辞儀をする。そして、私の傍に近づいて、左膝をつく。

 ……運転手さん、そろそろ出発して欲しいのだけど。安全運転で。


 麻隅村のバス停に向かう道中、運転手も女の子も、一言も言葉を出さない。私は九零に話しかける。

「この前さ、駅前のコンビニでマンガ読んでたの。冴えない男の話……旅行先で知り合った女と、くっつくまでの恋愛がメインストーリー」

 私は視線を女の子に向ける。短髪、スニーカーに白い短パン、青いフリースという服装。身長は百四十センチぐらい。大きな瞳に小さな口。日焼けした肌。可愛い女の子だ。小学六年生ぐらいだろう。ちらちらと、時折こちらを見ている。かまわずに私は話を続けた。

「九零は一目ぼれとか、したこと無いの?」

「すべての人に敬意と誠意をもって接することを、お嬢様に教えていただいて以来、順守してまいりました。しかし一目ぼれという感情を経験したことはございません」

 そればっかりは私が教えられるものではない。私に恋愛経験がないという意味ではなく、九零自身の感情に委ねられるものだから。てっとりばやく言葉で教えられるものなら、わざわざマンガにする必要も無い。多くの人は、もやもやした感情を、時間をかけて表現する。その過程で小説や、歌、芸術、周囲のアドバイスによって、理解する。九零に足りないのは何だろう? 時間だろうか。友人だろうか。

「あの子と友達になってみたら? 恋愛関係に発展するかもしれないよ」

「お嬢様、それは、ご命令でしょうか」

 命令……か。それがいけないのかもしれない。

「馬鹿らしい」と女の子が呟く。私たちの会話が聞こえたようだ。「都会モンの考えは、なん、わかん」と呟いて、それっきり女の子は、こちらを見ることはなかった。


 一時間後、バスが停車し、扉が開くと女の子は逃げるようにバスを降りた。運転手は彼女を呼び止めようともしない。無料送迎バスなのか? 九零の手を借りて、よろよろとバスを降りようとするとちゃっかり、運転手は千円を要求してきた。

「ちょっと、あの子は何なのよ。まさか、私たちが立て替えろって?」

「咲は……しゃぁれん。二人で千円。あんま、わるぅ思わんとね。咲は『ヒーコーさん』やもんね」

「だから『ヒーコー』って何よ? ブルジョアのこと?」

「……なん、まぁ、他所モンにいうこっち、なんね」

 どういう意味かはわからないが、あの女の子は、私たちとは違う立場なのだろう。腑に落ちないが、お金は払わないといけない。私は一枚の千円札と、五百円硬貨を一つ、メーターに納める。

「なん? 二人で千円やが?」

「私は、お金にルーズな人間が大っ嫌いなの」

 呆気に見つめる運転手を無視して、私と九零はバスを降りる。麻隅村のバス停には、一本の電灯で照らされた標識と、その傍にベンチがあった。ベンチは野風にさらされていた。

「ああっ! もう、ろくでもない!」文句を言って私がベンチに座ると、九零が土の上に膝をつく。

「申し訳ありません……僕が、わがままを言ったばかりに」

「それを聞いた私も悪かった。とりあえず、医者を待つ」

 ベンチから、ぐるりと周りを見回す。右遠方に民家が、一、二件ある。あとは田んぼ。そして、全てを囲むように山がある。麻隅村は、山に囲まれた何もない田舎だった――バスが一向に発車しない。運転手が私たちの前に歩いてくる。今度は何?

「他所もんに、金をめぐまれても、咲は喜ばんね」運転手は五百円硬貨を差し出した。私は手を振って、それを拒否した。

「……金ぐらぁみんかってやろうな。ほん、あかね。咲がほんにも、わるぅこになる」

「九零、通訳して」

 無銭乗車ぐらい見逃してやらないと、咲が本当の意味で悪い子供になる――九零の訳が間違っているのか、運転手の言葉の意味が理解できない。私には理解できない。

「だったら、咲ちゃんに言ってあげて。無銭乗車は犯罪ですよって」

「いや『ヒーコーさん』に、そなん、ふかすことは、あかね……」

 また『ヒーコー』か。すっげぇ差別。

 この時代によく耐えられるな。出身地や身分や性別などで人間を区別する人間も嫌い。素直に腹が立つ。

「ほん、あかね。おれぁ、かかもねねもおん。しきとうねぇ」

「……何故ですか? どうして、運転手さんが死んでしまうのですか?」

 九零が運転手に聞き返す。通訳なしの私は、同じ日本人なのに疎外感を覚えた。九零の質問に運転手は、怯えたような、震えた声をだす。

「咲にふかせると、しきとう。とっく、村のんはあかね……」

 私は、運転手の理解しがたい言葉のなかで、ここだけは理解できた。

「麻隅は『ヒーコーさん』とね……この前、咲にふかせたばかぁやかれたんよ」

 運転手がそういうと、車が一台、私たちに近づいてきた。白いセダン。バスの運転手は車に向かって手を振る、声の調子が変わった。

「センセの車よ! おれぁ、もうかえらなぁ!」

 運転手は九零に五百円硬貨を手渡し、バスに戻った。セダンから、背の高い男が出てきた。

「こんばんは! 高知こうちさん、患者さんはどちらです?」ハツラツとした声で、運転手と会話してから、若い男は私の傍へやってきた。

「どうなされました?」若い男と九零が会話をはじめる。私の足について九零が説明する。若い男は西条さいじょうという医者だった。羽振りがよさそうな、ブルジョア風の医者だ。


 筋肉を酷使し続け、ろくなマッサージもせず、これでよく断裂しなかったものだ、と西条医師は言う。私の大腿直筋は、ちぎれる寸前だったらしい。湿布というぜいたく品を惜しみなく張ってもらい、私は幸せだった。

「しばらくは安静にしてくださいね。走ったりして断裂すると、手術室へ連れて行きますから」

 あはは、と西条医師は笑う。私と九零には笑えない冗談だ。

「あれ? 笑えませんか? 村の人にはうけるのになぁ……センセんとね、手術なんで、なんとうもう……意味わかります?」

 わからん。私は九零にたずねる。

「先生の家で、手術なんて出来ないでしょう……という意味です。お嬢様」

 九零がいてくれてよかった。麻隅訛りは面倒くさい。

「おや、賢い息子さんですね」

「ちがいます」私と九零は同時に言った。西条は、また、あははと笑う。


 田舎の人は親切だ、などと言ったのは、どこの誰だ? 田舎には人がいないじゃないの。

 でも西条医師は民宿まで送ってくれた。よそ者のお願いを、西条は笑って二つ返事で快諾してくれた。

 車の中、後部座席を陣取って私はコーヒーを飲んだ。九零に命令して、自販機から買ってきてもらった、ごく普通のアイスコーヒー。

 そういえば、私の仕事場――飯野いいの大工の関西出身の頭領が、喫茶店でアイスコーヒーを注文するとき「レーコーひとつ」と言っていた。冷えたコーヒーだから、略してレーコー……すっげぇセンス。さすが大阪のオッチャン。

「西条先生は『ヒーコー』って知ってます?」

 私の問いに、西条は喜々として答えた。

「もちろん知ってますよ。麻隅に来て、最初に覚えた言葉ですから」

「バスの運転手が、九零を『ヒーコー』かと聞くんですよ。どういう意味?」

 西条はちらっと、助手席の九零を見る。そして、くすり、と笑う。

「九零くんは、たしかに『ヒーコーさん』に見えなくもない」

「咲って女の子は『ヒーコー』でしょ? 似てるかな?」

「彼女は『ヒーコーさん』ですよ。九零くんより、年下で乱暴で強いですが」

「……ぶっちゃけ、『ヒーコー』って何なの?」

 私が今日、最も気になった言葉だ。何回耳にしたのだろう。バスの運転手は、口ごもっていたが、西条はつらつらと喋った。

「火に子と書いて『火子ひこ』。それが訛って『ヒーコー』となったらしいですよ。世間一般の神童とか天才という子供に、麻隅では敬意をはらって『ヒーコーさん』と言うのです」

「ただの褒め言葉にしては、物騒だったけど? 『ふかせると死ぬ』って、どういう意味です?」

 私が真剣な声で問うと、西条は、あははと笑って答えた。

「高知さんは、僕にもそう言いましたよ。『ふかせる』というのは『吹き込む』ということで『天才には勝手な理屈を吹き込むな。自由にさせてやれ』っていう、麻隅の教訓からです。僕も、最初はびっくりしました。村人が他所ものに忠告するなんて、探偵小説みたいで……事件のひとつでも起こるかも。医者としても、楽しみやら怖いやら……なんて思い、もう三年経ちました。事件らしい事件はありません。ご高齢者が多いので事故はありますけどね、平和ですよ」

 それを聞いた私は、助手席にいる九零の頭をくしゃくしゃと撫で回した。

「九零くん。何にも無かったときは置いて帰るからね」

「お嬢様の、ご命令ならば、そういたします」

「言うわね――ん? ねぇ、西条先生、九零は天才だと思う?」

 突然、西条の笑いが止まる。そして、今度は、私が質問を受ける。

「どういう意味ですか?」

「神童とか天才に見えるの、この九零が」

 九零の顔をぐいっと西条に向ける。西条は、横目でちらっと見て、すぐに視線を戻す。

「利発そうな面持ちですよ」

「なら、咲ちゃんは? 九零より、年下で乱暴で、……ですよね?」

「……まいったな」西条は頭を掻く。

西条は、車をゆっくりと路肩に停めて、小声で私たちに言った。

「僕も麻隅村に興味を持っていた時期がありましてね。調べてみると麻隅の『ヒーコーさん』には二通りあるのですよ。天才児と、もうひとつの意味……ここからは、あくまで私見ですが」

 私たち三人は、顔を近づけて、西条の説を聞いた。

「どうやら『火子』という言葉は『火の』が由来らしいのです」

「『火の』って、火花のこと?」雰囲気に流され、自然と私も小声になる。西条は頷いてから話を続けた。

「麻隅村には電車がありませんよね。最寄り駅があるのは隣町の『天弦てんげん』……これ、じつは当て字なんですよ。昭和初期までは天井に野原と書いて……『天原てんげん』だったのです。字が変わったのは戦後からで、その理由は国の隠蔽工作らしいのです」

「何故、隠蔽をするのですか?」九零くんも、小声になっている。

「歴史的重要地を一般人に悟られないためです。ここは一般人で汚されたくない土地なのでしょう……でも昭和中期に駅を建てる話がでまして、当時の建設予定地は、麻隅村の中心……高い天井と書いて『高天こうてん』という地でした……私は、そこに注目したのです。何故なら、二つを合わせてみると、とてつもない地名が、ほら」

 頭の中で文字を思い描く。

高、天、原――高天原。

もしかして、タカアマハラ? 

はいぃ? あの、日本神話にでてくる、あの高天原ぁ?

「ここは、高天原の入り口です。『高天』は実際に、広い草原ですし、秋にはそこで祈祷祭も行われます」

「それは、ちょっと……無理っぽいよ」

 呆れて顔を遠ざける私をよそに、西条は私的見解を説明する。古事記がなんとか、新井白石がなんとか、京都朝廷がなんとか。私はコーヒーを飲み干してから、言及した。

「それで『ヒーコー』のもうひとつの意味は?」

 熱く語る西条の口が止まる。

 ゆっくりと、私をみて、恥ずかしそうに咳払いをする。

「少々、脱線しましたね……空想を趣味にしているもので、事あるごとに暴走してしまうのです」

 さびしい男だな。まぁ、それだけ村は平和ということか。

「僕も、空想にふける西条先生の気持ちはわかります」

 九零の言葉に私は、驚いた。

「こうすれば、お嬢様がこうご返事なさる、というスペキュレーションをして、日が暮れることもあります」

 それは、私も知らなかった。てか、スぺキュ? 何それ?

 同類を見つけた西条と九零は、顔を近づけて、まったりと会話する。

「九零くんは、週刊マンガの、展開を予想したことは?」

「昔、やっていました。あれは良いトレーニングになります」

「当たるとうれしいよねぇ」

「外れると、自分の発想力の乏しさを痛感し、作者に感服します」

 何の会話だよ……私はがまんできずに、変態どもにむかって叫ぶ。

「だから『ヒーコー』について聞いてんだよ! 知ってるなら、さっさと言え! 色々、気持ち悪いからさ!」

「ああ、そうでした」

 西条と九零の顔が離れる。

 これ以上、話が脱線しないよう見張るために、私は西条と九零の間に、顔を入れた。

「ここが高天原だったとします。実在したとします。なら、神様たちがいるはずですね」

 ずいぶん説明が乱暴になった……でも、少し気になる部分がある。

「神様ね……」私は呟いていた。

「ええ、アマテラスやツクヨミ。八百万やおよろずの神がここから生まれたとします。そうだとすると、はい! ここにカグツチもいたはずですね。炎の子供ですから、小さいです。その子供はもっと小さいですね。炎の子供は火です。その火の子供になると『火の粉』ですね。もう、わかるでしょう。『ヒーコーさん』とは神の血を継ぐ子供のことです。だから、麻隅の人は『ヒーコーさん』のやることには目をつぶるのです」

 機関銃のように喋る西条。簡単で、実にわかりやすい。でも、内容はとてつもなく幼稚な空想だった。その空想も穴だらけで、とても赤の他人には言えたものじゃない。

「西条先生の私見を要約すると『ヒーコー』の由来とは『火の神の子供』で、神の子孫を彷彿させるような神通力をもつ子供へ敬意をこめた名称……ということですね」

「……そうですよ。僕は説明が下手くそだから、短くまとめられずに、長々と引っぱってしまうんですよ」

 九零の淡々した口調を、西条は誤解したようだ。顔をそむけて、いじける子供のように呟く。

「僕は馬鹿ですから『変なこと言うパパなんて嫌い!』と娘に怒られますよ。そうですよ。もう、止めますよ。こんな空想は、考えても口に出しません」西条はいじいじと、ウインドウを開けたり閉めたりする。

 娘がいたのか……妄想癖の父親をもつ子供の辛さは、なんとなくわかる。でも、それよりも、九零を村において帰る可能性が減ったことの方が大事だ。


「九零を『ヒーコー』っぽいって言う人間が二人揃って、麻隅の住人。そこから考えると、麻隅に『コタン』がある可能性がすこしだけあるわけだ。咲ちゃんに『シンタ』があるとは思えなかった。でも修練で隠しているのかもしれないし、頭がいいという意味での『ヒーコー』なのかもしれない……仮定ばかりで、嫌になるけど……色々確かめるために、今日はゆっくり休んで、明日からがんばろう……九零、これでいいかな?」

「はい。お供いたします、お嬢様」

 九零が返事をすると、西条がもっともな質問をする。

「一体、何の話です?」

「早く宿で休みたいっていう皮肉ですよ。笑えませんか?」

私が笑顔をみせると、あははと笑って、西条は車を発進させた。


 民宿に到着したのは、八時を過ぎた頃だった。西条の車を降りると、冷たい風が流れる。

「名刺を渡しておきましょう。何かあったら、気軽に連絡してください」

「色々、ありがと」私が頭を下げると、命令するまでもなく九零がお辞儀をする。西城はそれをみて「いえいえ。次の診察料は存分にいただきますから」と笑って、車に乗って去った。


 民宿の玄関前で、私は立ち止まった。

夜の闇の中、私は目を閉じて、感覚を研ぎ澄ます。九零と同じ『シンタ』がある人間なら、私は感知できる。頭の中を、電流が走るような、そんな感覚があるはずだ。

 ビッ。

 頭痛がともに、すこしだけ感じた。頭の中を、か細い電流が走った。

 なんだ? やけに弱い……さらに神経を鋭敏化させる。この状態は辛い。周囲の些細な雑音、雑念を拾ってしまう。探索に集中できない。オモチャ箱に、はじめてのジグソーパズルをぶちまけて、数億あるピースの中から、たった一つだけのピースを探す作業に似ている。精神的に疲れる。心労が頭痛を惹き起こして、さらに拍車をかける。

 タスケテ――

 クレイ――

 脳内を煙に包まれた匂いがして、うめき声が響く。


 クレイタスケテクレイタスケテクレイ――


 私は目を開いて九零を見た。九零は心配そうに私を見ている。

 を発する相手と気持ちまで共有してしまったらしい。

「当たらずとも遠からじ、ね」

「お嬢様……やはり……」

 私は酒を飲みたくなった。アルコールで、もやもやした感情を消してしまいたい。

「……今回は『メノコ』。しかも『ウェンペ』」

「お嬢様、体調が優れないご様子……部屋に向かいましょう」

 私は九零の手を借りて、よろよろと、民宿に入った。


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