白い子犬
わたなべ
プロローグ~6年前・夏~
今から、6年前の夏――
「これで、終わりね」
と、お母さんの
「そうだな。後は明日の朝8時頃に引っ越し屋のトラックが来るから、荷物を積み込んで出発だ」
と、お父さんの
「しかし、真夏に引っ越しの準備は大変だな。汗だくで、疲れたよ。ビールでも飲みたい気分だ」
お父さんは、うちわで扇ぎながら、お母さんの顔色をうかがっている。
「お父さん、よく言うわよ。引っ越しの準備をしたのは、ほとんど私とお母さんなんだからね」
そうお父さんに文句を言っているのは、私のお姉ちゃんの
お姉ちゃんといっても、私よりも10歳も年上の20歳で(私の誕生日がくれば、9歳差になるけど)、10歳の私から見たらお姉ちゃんというよりも、大人の女の人という感じだ。
「仕方がないだろう、お父さんは平日は仕事があるんだから。結菜みたいに、夏休みは無いんだよ」
お姉ちゃんは現在、東京の大学に通っている。
私は、お父さんとお母さんと一緒に、とある田舎町に三人で暮らしている。
今度、お父さんが急に東京に転勤をすることになって、引っ越しの準備をしている。
お姉ちゃんが大学が夏休みに入ったので、帰ってきて引っ越しの準備を手伝っていた。
お父さんは今日からお盆休みで、明日の午前中には、東京に出発することになっている。
「お父さん、ビールは無いわよ」
「えっ? 無いの?」
お母さんの一言に、お父さんはとてもショックを受けているみたいだ。
ビールなんて、どこが美味しいんだろうか?
私はまだ10歳なので、もちろん飲んだことはないけれど、お姉ちゃんは苦いと言っていた。
大人の人って、どうして苦い物を美味しそうに飲むんだろう?
オレンジジュースやコーラの方が、甘くて美味しいと思うのに、私には理解不能だった。
私も大人になったら、ビールの味が分かる時が来るんだろうか?
まあ、そんなことどうでもいいや。
「お父さん、何を驚いているのよ。ビールどころか、冷蔵庫の中は何も無いわよ。明日はもう、ここにはいないんだから」
と、お母さんは呆れている。
「あぁ、そうだった」
「お父さん、もうぼけたの? まだ47なのに?」
と、お姉ちゃんは笑った。
「後で、ファミリーレストランで食事でもしましょう。その時まで、我慢してちょうだい」
と、お母さんは言った。
「
と、お姉ちゃんが私に聞いた。
「うん。終わったよ」
と、私は言った。
「結衣、ちゃんと確認しておいてね。忘れ物をしても、すぐに取りに帰れないわよ」
「お母さん、分かってるよ」
「まあ、永遠に東京に行くわけじゃあないさ。何年後かには、またここに戻ってくるさ」
と、お父さんは言った。
忘れ物を何年後かに、取りに帰ってもね……。
っていうか、戻ってくるんだったら、単身赴任でお父さん一人だけで行けばいいのに。
もちろんそういう話もあったんだけど、家族で話し合った結果、全員で引っ越すという結論に至った。
お父さんは、何年後かには帰ってくると言ってはいるけれど、本当に帰れるかは分からないし、それだったら全員で東京に行こうということになった。
東京では、お姉ちゃんも一緒に住むことになっている。お姉ちゃんは、自分で家賃を払わなくてすむと喜んでいるみたいだ。
私は、東京へ行くのは、正直いって不満である。後1年半で小学校を卒業するので、せめてそこまでは、こっちにいたかった。
親友の
――しかし、東京に対するあこがれのようなものがあるのも、事実だった。
「お母さん、私ちょっと出掛けてくる」
私は、突然そう思い立って、お母さんに告げた。
「今から? もうすぐ4時よ。どこへ行くの?」
「今日で最後だから、その辺をちょっと歩いてくる」
「あんまり遅くならないで、帰ってくるのよ。ご飯を食べに行くからね」
「うん。分かった」
私は、靴を履くと外へ出た。
さて、どこへ行こうか?
私は、とりあえず小学校の方へ向かって歩きだした。
私の名前は、
明日にはこの町を離れて、東京へ引っ越すのだ。
お父さんの仕事の都合で引っ越すなんていうこと、本当にあるんだ。過去には、そういって引っ越して行ったクラスメイトもいたけれど、まさか自分がその立場になるなんて考えてもみなかった。私は、そんなことを考えながら歩き続けた。
陽菜ちゃんの家に行ってみようと思ったけれど、お盆は、おじいちゃんの家に行くって言っていた。
陽菜ちゃんとは、一昨日、二人で遊んでお別れをしてきた。またいつか、陽菜ちゃんに会えるといいな。
私は15分くらい歩き続け、学校の近くまでやってきた。
この学校に通うことも、もうないんだな。私は、三階建ての校舎を見上げていた。
中に入ってみようと思ったけれど、校門は固く閉ざされていた。さすがに、お盆休みだから、先生たちもいないのかな?
校庭にも、誰の姿も確認できなかった。
私は、学校の裏に行ってみた。
学校の裏には川が流れていて、河原に下りられるようになっている。この川は、そんなに広くないし、深さも私の膝くらいまでしかない。流れも緩やかで、よく子供たちが水遊びをしている(私も子供だけど)。
私は、ゆっくりと階段を下りていった。
河原にも、人っ子一人いなかった。
真夏なら、この時間でも誰か水遊びをしているかと思ったけれど、みんなお盆で忙しいのかしら?
河原は静かだった。セミの鳴き声もなく、聞こえてくるのは、水の流れる音だけだった。
私は、どのくらいの時間、そこで立っていたのだろうか?
今、何時だろうか?
私は、時計を持ってくるのを忘れていたことに気づいた。
携帯電話は元々持っていない。お母さんが、まだ結衣には携帯電話は早すぎると言って、持たせてくれなかった。まあ、こんな田舎の小学生には、必要がない。
ポケットの中を調べてみたけれども、入っていたのは、かわいい白い子犬のキーホルダーのついた、家のカギだけだった。
私の家は、お母さんも働いていたので、私もカギを持ち歩いていた。いつも持ち歩いている癖で、今も持ってきてしまったみたいだ。
そろそろ帰ろうかな。みんな、心配しているだろう。誰にも心配されてなかったら、それはそれで悲しいけどね。
私は川の方に背を向けて、階段を上がろうとした。
――その時、キャンキャンという、何かの鳴き声のような音が聞こえたような気がした。
なんだろう? 気のせいかな?
犬の鳴き声だったような――
私は、辺りをキョロキョロと見回してみた。川の方から聞こえてきたような、気がしたけど――
気のせいだよね。川の中に、犬がいるわけがないし。
私は、再び階段を上がろうとした。
その時だった――
今度は、はっきりと聞こえた。
間違いない! 犬の鳴き声だ!
私は、川の方を振り返った。川の中央を、小さな箱のような物が流されていく。
あれだっ!
あの中に、犬が入っているんだ!
私は、無我夢中で河原を走り出した。きっと誰かが、あの箱に犬を入れて捨てたんだろう。
どうしよう……。
このままじゃあ、あの犬が死んでしまうかもしれない。
その時、箱が止まった。どこかに、引っ掛かったみたいだ。
私は、再び辺りをキョロキョロと見回した。
やっぱり、誰もいない。
――私が助けなきゃ!
犬のキーホルダーを持っていることからも分かる通り、私は犬が大好きだ。
大丈夫――この川は浅いから、溺れることなんてないだろう。
私は、川に入った。
よし、大丈夫だ。思った通り、深くない。
私は、一歩一歩ゆっくりと箱に近づいていった。
犬の鳴き声は、小さくなっているような気がする。
はぁ……はぁ……
あれ? 思ったよりも、深くなってきたような気がする。
そうか、今日の午前中に降った雨のせいで、少しだけだけど水の量が増えているんだ。それでも、これくらいなら大丈夫だろう。
私は、一歩一歩しっかりと踏ん張るように、箱に近づいていった。
もう少しだ。
後3メートル――
2メートル――
1メートル――
やった!
私は、箱をつかんだ。
「キャンキャン!」
犬の鳴き声が聞こえる。
よかった、生きてる。私は、箱の中を覗いてみた。
キーホルダーと同じ、白い子犬だ。少し怯えたような目をしているが、元気に吠えている。
私は、箱を持ったまま引き返そうと、歩き出した。
その時だった――
私はバランスを崩し、その場に倒れ込んだ。
つまり――水の中に、倒れたのである。
「きゃあっ!」
誰か――助けて!
お母さん! お姉ちゃん!
それから……、誰だっけ?
「お前、何をやってるんだ? 足、つくだろう?」
誰かの声が聞こえた。
「えっ? あっ、本当だ」
私は手を引かれて、立ち上がった。
全身ずぶ濡れになってしまった。真夏とはいえ、風邪をひきそうだ。
私の目の前には、同い年くらいの、黒い野球帽をかぶった男の子が立っていた。
「ありがとう。あなた、どこから来たの?」
「お前が入って来たのと、反対の方からだよ」
男の子のは、自分が入って来た方向を指差した。
「お前が川に入って行くのが見えたから、何をやってるんだろうと思って見てた。そうしたら、急に倒れたからな」
「あっ! ワンちゃんは?」
「こいつのことか?」
男の子が、子犬を抱え上げてみせた。
「箱は、流れてしまったけどな」
「よかったぁ」
「お前の犬か?」
「ううん。さっきの箱の中に入って、流されてきたの」
「そうか、捨て犬か――雄だな」
「えっ?」
「雄だよ。ほら」
男の子はそう言うと、子犬の股間を私の目の前に見せた。
「ちょ、ちょっと、そんなの見せなくてもいいから――」
私は、何故か顔が赤くなってきた。
「とりあえず、川から出ようぜ」
「うん」
私が子犬を抱いて、男の子が私の腕を引いて、川から上がった。
「助けてくれて、ありがとう」
私は、改めてお礼を言った。
「別に、大したことはしてねえよ」
「あなた、見かけたことないけど――誰? うちの小学校じゃないよね?」
「俺か? 俺は、川の向こうの小学校の5年生だよ」
「えっ? 5年生なの? 私は、そこの小学校の5年生だよ」
と、私は、小学校の方を指差した。
「そうか、同級生か。それじゃあ、中学校で一緒になるかもな」
「あっ私、明日、東京に引っ越すの」
「ふーん。そうか」
「だから、このワンちゃんどうしよう? 私は、飼えないよ」
連れて帰ったら、お父さんにも、お母さんにも怒られるだろう。
「そんなこと、俺に言われても……」
男の子は、ちょっと困った顔をした。
「せっかく助けたのに、また捨てていけないよ」
私が無理なんだから、この男の子に頼むしかない。
「クゥーン」
「ほらっ、ワンちゃんも捨てないでって言ってるよ」
ここは、情に訴えるしかない。
「うーん――」
「お願い!」
「――分かったよ。俺が連れて帰るよ」
男の子は渋々ながらも、そう言った。
「本当に! ありがとう! ワンちゃん、良かったね」
「キャンキャン!」
「ほらっ、ワンちゃんも喜んでる」
子犬は、私の腕の中で嬉しそうにしている。
私は、子犬を男の子に渡した。
「この子の名前を考えなきゃね」
「名前かぁ――白いんだから、シロでいいだろう」
そんな単純な――
「もっと、ちゃんと考えてよ」
「いいだろう。飼い主は、俺なんだから――まっ、気が向いたら変えるよ」
大丈夫かな、この子?
「分かったわ。それから、今日のことは、二人だけの秘密ね」
「なんでだよ?」
「うーん――なんとなく」
「まあ、いいや。分かったよ」
と、男の子はうなずいた。
「ハックション!」
私は、大きなくしゃみをしてしまった。
男の子の前で――
恥ずかしい――
「なんだ? 風邪か? 顔が赤いぞ。これでよかったら、使えよ」
と、男の子は、ポケットからハンカチを取り出した。
「えっ? あ、ありがとう」
私は、ハンカチを受け取った。
しかし、こんな小さなハンカチでは、拭くにしても限度がある。
私は、とりあえずハンカチを広げてみた。そのハンカチには、白い子犬の絵が描いてあった。
「あっ、ワンちゃん。あなたも、ワンちゃんが好きなの?」
「嫌いだなんて、一言も言ってないだろう」
確かに、言ってはいないか。
「洗って、返すね」
「お前、今日までしか、いないんじゃなかったのか?」
「あっ――」
そうだった。忘れてた。
「いいよ。そのハンカチ、お前にやるよ」
「えっ? いいの?」
「ああ、餞別にくれてやるよ」
「せんべい?」
これ、食べ物?
「せんべいじゃねぇよ。餞別だよ。せ・ん・べ・つ」
「せんべつ? せんべつって、どういう意味?」
「うーんと――引っ越ししたり、会社を辞めたりする人に贈る物を、餞別って言うんだ」
「へぇ。物知りだね。それじゃあ、ちょっと待ってね――」
私は、カギにつけていたキーホルダーを外した。
「これ、あげる」
私は、キーホルダーを差し出した。
「――いいのか?」
「うん、いいよ。どこにでも、売ってる物だし――ワンちゃんへの、せんべい――じゃなかった、せんべつだよ」
「――ありがとう」
男の子は、笑顔でキーホルダーを受け取った。
私は、その笑顔を見て、何故か胸がドキドキするような気がした。やっぱり、風邪をひいたのかな?
私は、ハンカチで顔を拭くと、ハンカチをポケットにしまった。
「あっ、今、何時か分かる?」
「さあ、俺、時計持ってないけど、そろそろ5時じゃないかな」
「私、もうそろそろ帰らないと。お母さんが心配するから」
「そうか。分かった」
私たちは、階段を上がった。
「それじゃあ、ワンちゃんをよろしくね」
「ああ」
「ワンちゃん、元気でね」
「キャンキャン!」
「俺の親に反対されて捨てることになっても、俺を恨まないでくれよ」
「えっ?」
「クゥーン?」
「冗談だよ。お母さんもお父さんも犬が好きだから、たぶん大丈夫だと思う」
「本当に、大丈夫?」
「ああ、任せとけって。早く帰らないと、本当に風邪をひくぞ」
「うん」
「じゃあな」
男の子はそう言うと、私の家とは反対の方へ帰っていった。
私も帰ろうとしたけど、聞き忘れたことがあるのを思い出した。
「ねえ! あなたの名前は?」
私は、遠ざかっていく男の子に向かって、大声で呼び掛けた。
「名乗るほどの者じゃねぇよ!」
なんだそれ?
男の子は笑顔で手を振ると、そのまま帰っていった。仕方がない。私も帰ろう。
「あっ、お姉ちゃん。ただいま」
玄関を入ったところに、お姉ちゃんがいた。
「おかえりなさい――って、結衣どうしたの? びしょ濡れじゃない」
「うん――ちょっとね」
「何があったの?」
「ちょっと、川で犬助け」
人助けならぬ、犬助けだ。
「…………」
お姉ちゃんは、無言で首をかしげている。
私の言ってる意味が、よく分かっていないみたいだ。まあ、そうだろうな。
「まあ、結衣どうしたの?」
「お母さん、ただいま」
「お風呂に入っちゃいなさい。風邪をひくわよ」
「うん。そうする」
変わった子だったな。結局、名前を聞けなかったし、私の名前も教えなかったな。せめて、連絡先だけでも交換すればよかったかな?
私ったら、あの男の子のことばかり考えてる……。
何故だろう? また、胸がドキドキしてきた。やっぱり、風邪をひきかけてるのかな?
今日は、早く寝よう。明日は、東京まで何時間も、お父さんの車に乗ってないといけない。風邪をひいた状態では、とてもつらいからね。
翌日――
トラックに、荷物を積み終わった。
「さあ、みんな出発するぞ」
と、お父さんが言った。
「しばらくは、この家ともお別れね」
そう言ったお母さんは、少し涙ぐんでいるように見えた。
「結衣、行くわよ」
「うん。お姉ちゃん」
私は、風邪をひくこともなく元気だった。あのドキドキは、なんだったんだろうか?
みんな、もう車に乗っている。私も車に乗ろうとしたとき、一台の軽自動車が私の近くに止まった。
あれ?
あの車って――
「結衣ちゃーん!」
「陽菜ちゃん?」
「結衣ちゃん!」
軽自動車から降りてきたのは、親友の如月陽菜ちゃんだった。
「陽菜ちゃん、来てくれたんだ」
「うん。最後に、もう一度会いたくて、お母さんに連れてきてもらったの。間に合ってよかったぁ」
「…………」
「結衣ちゃん? どうしたの? 結衣ちゃん、泣いてるの?」
「ぐすん……だって……」
私は、何故か涙が止まらなかった。
「もう、結衣ちゃんったら。そんなことじゃ、東京でやっていけないよ」
「――ごめん。もう、大丈夫」
「これが永遠の別れっていうわけじゃあ、ないんだから」
「うん。ありがとう」
「結衣ちゃん、いってらっしゃい。さよならは言わないよ。また帰ってくるのを、待ってるからね。手紙、書くからね」
「うん。いってきます。私も手紙、書くから」
私は最後に陽菜ちゃんと抱き合うと、車に乗り込んだ。
「結衣、もういいか? それじゃあ、行くぞ」
車が走り出すと、私は窓を開けて後ろを振り返った。
「ちょっと結衣、顔を出すと危ないわよ」
と、お姉ちゃんが言った。
「結衣ちゃーん!」
陽菜ちゃんが、いつまでもいつまでも、手を振っていた。
車は少し走ると、小学校が見えてきた。車は小学校の裏の道に入った。
「キャンキャン!」
えっ?
今、子犬の鳴き声が聞こえたような気がした。
私は、河原の方へ目をやった。一瞬だったけれど、昨日の男の子と子犬が見えたような気がした。
「結衣、どうかした?」
今のは、錯覚だったのだろうか?
「ううん。なんでもないよ、お姉ちゃん。東京、楽しみだなぁ」
「そ、そう? まあ、楽しいことばっかりでも、ないけどね」
車は東京へ向かって、走り続けた――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます