3.2 わたしはだぁれ?

 部屋の掃除もだいぶ手慣れたものになってきた。一部屋にかかる時間も、ハンナ程じゃないけどそこそこに良いタイムだ。サンドラやナディーンに迷惑をかけることもほとんどなくなったし、いよいよ僕も一人前になりつつある。

 ぴしっ、とシーツをかけ終えたところで、僕はぼんやりとハンナのことを考えた。今はこんな、週に一度入れ替わるだけの生活だけど。この前みたいな嫌なことが起きるのだったら。

 ハンナには申し訳ないが、僕はこの仕事をハンナには続けてもらいたくない。

 ガラの悪い連中や、酔っ払いの中にいて、ハンナにもしものことがあったらどうするんだ。仕事だから仕方がないっていうなら、この仕事自体をやるべきじゃない。僕はあの日も、メラニーさんにそうやって食って掛かってしまった。

「今日のことはごめんよ。ハンナのことは、人一倍気を付けているから安心しておくれ」

 まさか、メラニーさんにそんな風に言われるとは思ってもいなかった。そうだ、メラニーさんも親方さんも、ハンナのことをとても可愛がって、大事にしている。そのことは僕だって判っていたはずだ。メラニーさんに強い口調で迫ってしまったことを、僕はすごく恥ずかしいことだと思った。そしてそのまま、メラニーさんに謝罪した。

 僕は、何もできない自分が悔しかった。ハンナのために、僕にできることって、なんだろう。こうやって、僕がハンナの代わりに働いて、それでハンナが嫌な思いをしなくて済むなら、もうずっとこのままでも良いと思う。でも、ハンナはきっとそれを嫌がる。ハンナにとって、この仕事はハンナの世界そのものだからだ。

 胸の中がもやもやする。もどかしい。僕は、ハンナをどうしたいんだろう。

 コンコン。

 開けたままのドアがノックされた。慌てて振り返ると、何処かで見たようなひょろっとした男が立っていた。

「部屋の掃除、終わったかな?」

 ああ、ステイの部屋だったっけ。長期滞在のお客様だ。この前酒場で僕を助けに来て、そのまま何もせずぶん殴られて気絶した挙句、名前まで聞いてきたよく判らない奴だ。なんだっけ? シフォーとかいったか。

「はい、今終わりました」

 そう応えて頭を下げる。この辺りの所作しょさももうばっちりだ。そそくさとシフォーの脇を通って部屋の外に出る。こいつはどうも胡散臭い。僕、というかハンナに興味がありそうっていうのが更に気に食わない。

「ハンナちゃん、この前はありがとな」

「いえ、こちらこそ助けていただいて」

 いや、何もする前にやられて伸びてたけど。

「はは、カッコ悪くてごめんな」

 ホントに。正義の味方みたいに飛び出してきて、勝手にやられて。

 ・・・でも、僕だって人のことは何も言えない。ハンナのためにって、こうやって入れ替わって。それで、何ができてるっていうんだろう。

 僕に比べたら、このシフォーの方がマシかもしれない。やられるって、負けるって判っていても、「助けたかった」という理由だけで飛び出していける。それは正直、すごいことだって思う。

「シフォーさんはカッコ悪くなんてないですよ」

 僕は野菜が嫌いだ。野菜が食べたくないから、ハンナと入れ替わってる。ハンナが喜ぶのをいいことに、僕は自分の嫌なことをハンナに押し付けている。

 それでいて、今度はハンナの仕事にケチをつけている。ハンナのためなんて理由をつけて、無理にハンナの仕事をやっておきながら。僕は、ハンナにこんな仕事は辞めてほしいって思っている。

 僕は、カッコ悪い。

 僕は、わがままだ。

 僕は。

 どうしようもなく、子供だ。

「ハンナちゃん、大丈夫かい?」

 気が付いたら、その場で涙ぐんでいた。いけない。ハンナはこんなこと絶対にしない。今の僕はハンナなんだ。

「大丈夫です。失礼いたしました。それではごゆっくりおくつろぎください」

 一礼して、その場を離れる。シフォーの顔を見ていたくない。僕が、こんな奴よりもカッコ悪いだなんて思いたくない。

 僕は、ハンナのために何かがしたい。ハンナに、必要とされたいんだ。



 勝手口から出て、僕はぼんやりと空を眺めていた。休憩室は賑やか過ぎて、どうも苦手だ。あまり勝手なことをして、ハンナのイメージが変わってしまうのもうまくない。そもそも僕は、あんなに沢山の人がいるところだと、どう振る舞って良いのか判らなくなってしまう。

 隣の建物がすぐ近くに迫っているので、ここから見る空は細い谷みたいだった。青い一本の線が続いている。そこに落っこちてしまいそうで、ほんのちょっと怖くなる。不思議だ。屋敷の中では、こんな空は知らなかった。

 そして、こんな気持ちも、きっと知らなった。

「ハンナちゃん」

 むぎゅ。

 どうわぁあ。

 ナディーンだ。どうして毎回毎回こうやって後ろから抱き着いてくるんだ。しかも今日はハンナと僕が入れ替わってるって知っているだろうに。

「今日はフランシスだって」

「知ってる。でもハンナちゃんなんでしょ?」

 そうだけどさ。その横で、サンドラが腰に手を当てて仁王立ちしている。見てないで助けてくれよ。

「ハンナなんだから、普通にしてなさいって」

 無茶言うな。

 まったく、人がセンチメンタルな気分に浸っていたというのに。この二人は、どうも僕に興味があるらしい。フェブレ公爵家の御曹司ということは秘密にしてあるけど、それ以外については割と何でも話している。ハンナの友達だし、僕がこの二人と気まずくなってしまっては、今後の入れ替わり生活に支障をきたすからだ。

「お悩み?」

「まあね」

 サンドラとナディーンは、ハンナの友達。仕事仲間。ハンナがこの仕事をしていなければ、出会わなかった二人だ。ハンナからこの仕事を取り上げてしまえば、この二人との関係も断ち切ってしまうことになる。そんなことを言い出す権利は、僕にはない。

 この二人は、僕相手にでもこうして話しかけてくれる。二人は良い人だ。ハンナの周りには素晴らしい人間関係がある。本当に、うらやましいくらい。

 それを、僕のわがままで辞めさせるだなんて、絶対にダメだ。

「この前のこと、まだ気にしてるんだね」

 ナディーンが僕の頭を優しく撫でた。お母様、というよりも、姉上か。もし僕に姉上がいたなら、こんな感じだったのだろうか。

「ま、気持ちは判るよ。ハンナがあんな目に遭うなんて、考えたくはないよね」

 僕ははっとして顔を上げた。サンドラが、腕を組んで僕の方を見ている。今までにないくらい、優しい眼差しだ。

「あたしたちも気を付けてあげるからさ。あんたがへこんでてもしょうがないじゃない。ハンナも気にしてたよ」

「そりゃ、そうだけど」


「しっかりしなさい。好きなんでしょ?」


 な。

 ななな。

 何を言い出すんだ。

 僕は反論しようとして、口をパクパクさせた。いやしかし、何を言えばいい? 色々な言葉が脳裏をよぎったが、何一つとしてまともな内容になっていない。

 そんな僕の様子を見て、サンドラはバカにしたような笑みを浮かべた。

「野菜が好きとか嫌いとか、そんな理由だけで普通こんなことしないでしょ。バレバレだっつーの」

 ・・・ですよねー。

 じゃなくって。

「そのこと、ハンナは――」

「あの子、そういうの鈍いから。まず間違いなく気付いてないわ」

 そ、そうか。

 それは良かった、のか?

 ハンナは、確かにそういうのにはうとそうだ。毎日一生懸命仕事をして、野菜料理を食べて喜んで。それで全部って感じがする。

 でも、それでいい。それがいい。僕は、そんなハンナが好きなんだ。

「あんたが真剣にハンナのことが好きなのは判ったからさ」

 サンドラとナディーンは目を合わせて、ふふっと笑った。女の子の笑顔は、可愛い。ハンナの格好をして、鏡の前で練習してみたりしたけれど、どうにも上手く真似することができない。あの、ハンナのまぶしい笑顔。あれは、ハンナだけのものだ。

「あたしたちにも任せて、信じて頂戴。みんな、ハンナのことが大好きなんだから」

 とても心強いサンドラの言葉に。

「ありがとう」

 僕は、思わずぽろりと涙をこぼしてしまっていた。ちくしょう、情けない。僕は男なのに。




 ぱり、ぽり。

 今かじっているのは、ニンジンのスティック。オリビエさんがお土産にって持たせてくれた。流石にこの温室の畑からニンジンを掘り出して、その場で食べるわけにはいかないからね。根菜のたぐいをいただけるのは嬉しいよ。

 うん、ニンジン美味しい。美味しいな。美味しいんだってば。

 もうちょっとしたら、フランシスが帰ってくる。そうしたら、ええっと、服を着替えて、今日はオシマイ。

 この服、フランシスの服を脱いで、フランシスに返して、フランシスが着る。私が着てたこれを、フランシスが。

 う、うわぁ。

 いやいや、そうじゃない。なんだっけ? そうだニンジン美味しいなぁ。オリビエさん気を利かせてくれて嬉しいなぁ。

 あはははは、あは、あはは。

「ただいま、ハンナ」

「うひゃああ」

 飛び上がって驚いてしまった。フランシスが怪訝な顔をしている。ごごご、ごめん。

「やあ、フランシス、早かったねぇ」

「そうか? いつもより遅くなっちゃったと思うんだけど」

 え? ああ、そういえばそうだね。

「フランシス、遅かったねぇ」

「別に言い直さなくてもいいだろう」

 そ、そうだね。何やってんだろう、私。落ち着け。ええっと、何するんだっけ。そうだ、着替えるのか。

「じゃあ、早速着替えちゃおうか」

 がばっと上着を持ち上げる。って、あれ? あわわ。

「ハンナ、物置で良いから」

 フランシスが顔を真っ赤にして目を背けた。わぁー、ごめん。私、ホントにどうしちゃったんだろう。慌てて服を戻して、物置の方に駆けていく。ううう、ダメだ。やっぱりダメだ。オリビエさん、ごめんなさい。

 聞くべきじゃなかった。聞いちゃいけなかった。



「フランシス坊ちゃんは、ハンナ様のことを好いておられるのです」


 は?

 へ?

 ほ?

「えーっと、それはどういうことでしょうか?」

「恐らく、フランシス坊ちゃんの初恋ではないかと思われます。フランシス坊ちゃんは、ハンナ様に恋をしておいでのようです」

 こ?

 い?

 ・・・はぁ?

 ちょちょちょ待って?

 えーといやなんだ、そのなんだ、何言ってんだ。そりゃどういうこっちゃ。え? いやいやいやいや。

 フランシスが、私に?

 恋?

「オリビエさん、何言ってるんですか」

 冗談がきつい。フランシスが、私のことを好き? 恋している?

 そんなわけがない。

 だって、フランシスはこのフェブレ公爵家の御曹司、一人息子なんでしょう?

 貴族で、このセレステの街の領主様のお子さんですよ?

 片や私は、セレステでは別に珍しくもなんともない規模の宿屋『至高の蹄鉄』亭の住み込みお手伝い。下女です、下女。

 そりゃまあ、神様の手抜きだか何だか知らないけど、顔だけはそっくりですよ?

 でも、それだけじゃないですか。わぁー、面白いって。ちょうどいいから、入れ替わって面倒な野菜料理とか食べてもらって。こいつは便利だって。

 そういう話なんじゃないんですかね?

 オリビエさんは、ふるふると首を横に振った。

「ハンナ様、フランシス坊ちゃんのお気持ちは、ご迷惑でしょうか?」

 えっ。

 迷惑、かと言われれば。

 うーん、私の代わりに『至高の蹄鉄』亭でお仕事をするって言い出した時は、正直どうしようかとも思った。ただ、フランシスは真剣だったし、メラニーさんも、サンドラやナディーンも協力してくれたし。結果的には、まあいいかなって。

 元を正せば、私が野菜泥棒に入ったところを、フランシスに見逃してもらったところから始まったえんだ。私には偉そうなことは何も言えない。それが、お仕事を代わってもらって、大好きな野菜料理も食べさせてもらって。

 そう考えると、迷惑なことなんて、何もない。

「いえ、むしろとてもいい思いをさせていただいてます」

「でしたら」

 オリビエさんは気を付けして、私に向かって頭を下げた。え、ちょっと、やめてくださいって。

「ハンナ様の気持ちは、ハンナ様の気持ちで構いません。どうか、坊ちゃんのなさりたいようにさせてはいただけませんでしょうか。何か不都合や、受け入れられないことがあれば、その時は改めて申し上げていただければ構いませんので」

 フランシスの気持ち。私の気持ち。

 フランシスが私に恋をしていて。

 私のために、私の仕事を代わってくれて。

 私のために、一日休んで、野菜料理を食べてのんびりしろって言ってくれて。

 私のために、仕事について怒ってくれていた。

 ・・・そういうことなの?

 え? どうしよう、よく判らない。

 私、ただフランシスが野菜料理を食べるのが嫌だから、身代わりになってここにいるんだと思ってた。いや、間違いなくそういう側面もあるんだろうけど。

 でも、それだけじゃないの?

 フランシス。

 私。

 ダメだ、ごちゃごちゃしている。全然、何にもわかんないよ。



 フランシスが何か言っている。

「で、あのシフォーが話しかけてきてさ。あいつ小児性愛者じゃないだろうな。ハンナも気をつけろよ?」

「え、あ、うん」

 そうか、今日『至高の蹄鉄』亭であったことを話しているのか。フランシスのことをぼーっと見てて、全然聞いていなかった。

 フランシスは、いつも通り、フランシスだ。私と同じ顔で、ちょっと生意気で。早口でしゃべって、にかって笑う。そうそう、笑顔だけ、ほんの少し違うよね。不思議。

「ハンナは、今日はちゃんと休んだのか? また部屋の掃除とかしてたのか?」

「え、あ、うん」

 最近は、野菜料理のことより、私が休んでいたのかどうかって、そこばかり話していた気がする。部屋をいじられたくないのかなーって、そう思ってた。でも、そうならそうと、はっきり言うよね。フランシスなら。

「ハンナ、どうかした?」

 ずい、とフランシスが身を乗り出してきた。私の顔を覗き込む。うわ、ちょっと、待って。

 思わず視線を逸らしてしまう。今はダメだ。まだ頭の中がぐるぐるしている。フランシスの目なんか見たら、おかしくなってしまうに違いない。

 だって、フランシスが、私のことを、好きだなんて。


 ・・・そんなの、ダメだよ。


 私は。

 私なんか。

「ねぇ、フランシス?」

 素敵な野菜料理を食べさせてくれて、ありがとう。とても美味しかった。

「フランシスは、フェブレ公爵家の御曹司、跡取り息子なんだよ?」

 お仕事、代わってくれてありがとう。とても嬉しかった。

「私は宿屋の下働き。いやしい下女なんだよ?」

 野菜泥棒して、ごめんね。もうしない。フェブレ公爵邸の人は、みんな優しかったから。


「だから、こんな子を好きになっちゃ、ダメなんだよ?」


「ハンナ?」

 フランシスの顔を見れない。そんなことをしたら、また頭の中がいっぱいになっちゃう。

 ダメなんだ。フランシス、私は。


 あなたといちゃ、いけないんだ。


 私は立ち上がって、走り出した。後ろで、フランシスの呼んでる声がする。ごめんね。ごめんね、フランシス。

「さようなら!」

 それだけ、大声で伝える。暗い森の中に入って、駆け抜ける。ここを出れば、もういつもの私。『至高の蹄鉄』亭の住み込み従業員。客室清掃のベテラン、ハンナ。

 街の灯りを身体中に浴びながら。

 私は、知らない間に泣いていた。

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