第13話
「お帰り、ドール」
仮面越しに漏れる声は、男が顔の筋肉を上手く動かせないこともあり、ひどく不明瞭に響いた。窓のない、けれど毛足の長い絨毯の敷かれた広い部屋の壁は天井まで続く書架になっていた。部屋には中心の椅子に坐した男と、数人の子どもたちがいた。幼い少年と少女たちは、来客に気付くとすぐに部屋を出ていった。よく躾けられているのか、どこか優雅な歩き方も仕草も皆似通っていた。
「お久しぶりです」
ドールと呼ばれた人物は仮面の皇帝の前に跪くように恭しく頭を垂れた。
おいでと、玉座に似せた豪奢な椅子に身を沈めたまま仮面の男がドールを招く。ドールは主に望まれるがまま、臆することなくその膝に腰掛けた。
「重いでしょう」
ドールは微笑んで冷たい仮面の頬に指をかける。
「もう、子どもじゃない」
冷たい仮面の口づけを、ドールは人を魅了してやまない微笑みで受け止めた。
ぎこちない動きで皇帝はドールを腕に抱く。その歪な愛撫をドールは知っていた。
中世の王族を思わせる重厚な衣装は全て、仮面の男の動きをゆったりと見せる為。ぎこちない動作を誤魔化す為のものだった。
「私からのギフトはどうだ?」
皇帝はかつて、人形に命の息吹を与え、知識と魔術を授けた。
「貴方が下さったものは、全て役立ってますよ」
「それはよかった」
髪を、頭を撫でる男の手。大きくも力強くもないはずなのに、その手はいつでも支配の象徴だった。
「世界は、美しいですね」
「そう思うのか?」
ええ、とドールは頷いて皇帝の首筋に腕を絡ませる。
「特に、貴方がお創りになったものは……」
壁にかけられた一幅の絵に、ドールは目を細める。青と黄が織りなす静かで激しいその世界。誰かの心の中にしかないそんな風景さえ、仮面の男が創り出したものだったか。
「私の為に、あれは生かすよ」
「飼い殺しですか?」
「よくない言葉だ」
動かない仮面の下で男はどんな顔をしているのだろう。
「あれの本質はライオンだ。だが自分の魂が上げる咆哮を聞くまいとしている。無限の可能性をその身に秘めているというのに……嘆かわしいだろ?あいつを調教して意のままに操ることができるのは私だけだ。あれが戻ったら、お前の隣に飾ってやろう」
嬉しいだろう、そう囁いてドールの髪を撫でた皇帝。逆らうことのかなわない絶対的支配者にドールは微笑みを向ける。
「人形遊びは飽きたのでは?」
まさか、陶磁の仮面の下から漏れ聞こえる低い笑い声。
「私は遊んでいるつもりなどない。人形を使って多くの人間を導いているだけだ。ノーブリゲス・オブリージュ。これは神が私に与えた天命なんだよ。人間は全てを解釈する。良くも悪くも全て自分の都合のいいように。そして、その解釈こそが真実、この世の本質だ」
「貴方は占いを通して他人の世界に解釈を与える……」
「そうだ。だから私は他人の世界を支配できる。神になれる」
それなら、ドールは囁きながら仮面から覗く冷たい目をじっと見つめた。
「教えて下さい。ある男が眠っていると、火事が起きました。男の子どもが、家に火をつけたんです。男が泥酔して眠っていることを、その子は知ってた」
「それで?」
「男は、助かるかも知れないし、助からないかも知れない。可能性にかけただけだとしても、その子の罪を、神は裁きますか?」
仮面の下で、男が笑う気配がした。
「男が死んだとしても、死ななかったとしても、それは子どものせいじゃない。男の子どもにしても同じことだ。それが天命というものだよ」
「天命が……その子どもを追い詰めたんですか?」
ドールの問いに、仮面の支配者は否定も肯定も返さなかった。
「最初は本当に小さな種だ。本人さえ気に留めなかったような些細な言葉が、実際は潜在意識と呼ばれる心の奥深くに埋め込まれる。それが彼を生かす花になるか、殺す花になるかは、植えられた時に決まっているんだよ。絶望の咲かせる花は美しい。グロテスクなほど力強い根を張って魂を捻じ曲げる」
「そうやって、人を支配するんですね」
「ああ。一つの手法だ。運命は、人格に宿る。人格は魂から生まれる。あとは、わかるだろう」
安心していい、仮面の男はそう囁いた。
「お前には魂も心もない。その代わり類まれな頭脳と美貌に恵まれた。何も恐れなくていい。お前を脅かすものなんて、この世には何一つ存在しない」
「貴方以外には」
仮面の下で、男はどんな表情を浮かべているのか。男は膝に乗せた人形の髪をそっと撫でた。
「お前を見出した時、私がどれほど嬉しかったか……。お前はもう人間じゃない。私が作り上げた、最高のドールだ」
「それなのに、ご自身の作品を貴方は試す」
「ああ。だがそれも全て天命だ」
そうですね、ドールはその美しい声を震わせ、長く息を吐いた。そうして生命の息吹を全て出しつくしたように、皇帝の腕の中で動かなくなった。
素良の出発前夜、家族は自宅にそろって夕食を取った。いつ以来か、穏やかに流れる時間に史瀬はひどく安堵した。WAに滞在し始めてからいろいろなことがあった。素良や仁と話をするのもずいぶん久しぶりな気がした。
「今、いい?」
「ああ」
控え目なノックの音。夕食後、珍しく自分の部屋にやってきた素良を史瀬は気軽に迎え入れた。
「飲む?」
「ああ。ありがとう」
素良は持ってきたペットボトルの炭酸飲料を史瀬に手渡すと、床に座り込んで自分の分の蓋を開けた。
「フライト、何時だっけ?」
史瀬はベッドに座り、妹に顔を向ける。
「十二時半」
そうかと呟いた兄に妹は
「見送りとかしないでよ?お父さんには言ったけど」
「わかってる」
何度目になるのか、同じ言葉を繰り返した。留学のこともそうだったが、本当に言い出したら聞かない奴だと史瀬は少しだけ笑った。昔からそうだった。頑固で、一度決めたら何でも一人で最後までやらなければ気が済まない。そんな妹だった。
「絵は、全部、WA?」
ふと室内を見回し、素良は兄の顔を見上げた。ああと史瀬は頷く。
「アヤの描いた絵、もうずっと見てない気がする……子どもの頃は、ほんと、毎日見てたのに」
「そうだったな」
史瀬は懐かしそうに微笑した。素良はいつでも自分の後を追いかけてきた。絵を描いている間はじっと、飽きることなく側にいた。
「ありがとう」
「え?」
唐突な妹の言葉。史瀬は驚いて素良を見返した。少しだけ潤んでいるようにも見える大きな瞳。わたし、と素良が言った。
「いつもアヤに守ってもらってた。なのに、何もできなくて、ごめん」
「どうした?急にそんなこと」
素良はどこか苦しげにも見える微笑みで首を横に振った。
「最近、子どもの頃のこと、よく思い出すんだ。何でかわからないけど。火事の時のこととか、お父さんが死んだ時のこととか……」
いつもは父と同じ部屋で寝ていた兄に起こされた夜。あの夜は、家の中の空気が違った。史瀬は自分の手を引いて、家の外へ飛び出した。振り向けば、家が燃えている。言葉にならない恐怖に泣きだした自分を、兄はずっと抱きしめてくれていた。それから父が亡くなり、兄と二人で施設で暮らし始めた。史瀬は絵が上手くて、何でもできて、どこにいても誰に対しても自慢の兄だった。いつから、この感情は変わってしまったのだろう。
「素良?」
その視線から逃れるように顔を背けて、素良は俯いた。
「瀬奈おばさん、覚えてる?」
「……ああ」
「お父さん、いつも叔母さんの写真持ち歩いてたね。お母さん、嫌そうだったのに」
何も言わない史瀬の顔を、素良はゆっくりと見つめた。写真でしか知らない父の実妹。幼心にも美人だと思った叔母。その人に、史瀬は似ていた。自分より、ずっと。父は、自分より、母より、史瀬を大切にしていた。片時も離したくない。そういうように、いつも史瀬を見つめていた。大人になって、少しずつわかるようになった違和感。そして微かな恐怖と嫌悪感。その感情を、自分は知っている。そう気付いた時、離れることを決めた。
「碓氷には、気をつけた方がいいと思う」
「ハルを知ってるのか?」
「まぁね……」
動揺を隠しきれない兄の様子に、素良の胸が痛む。離れてしまえば、本当にもう、何もできなくなる。史瀬を守る為に、自分ができること。たぶん、これでいい。
素良はゆっくりと立ち上がった。史瀬もつられたようにベッドから立ち上がる。
「変なこと言ってごめん」
「いや……」
「元気で、お父さんと仲良くね」
「ああ」
何かを言いかけて止めてしまった素良の口元を、史瀬は見つめた。別れを告げに、素良はやってきたのだろうか。何故か、寂しさより不安が勝った。
「おやすみ」
全ての言葉をたった一言に引き換えたように、素良はそれだけを告げて兄に背を向けた。
「おやすみ」
史瀬には部屋を出ていく妹の後ろ姿が、強い決意を秘めているように見えた。
「家に帰るんだろ?」
エントランスホールには、壁にもたれたハルがいた。
「ああ。元々家から通えない距離じゃなかったから」
「妹がいなくなって、仁さんが、寂しがってるのか?」
「そんなんじゃない」
少しだけ顔を顰め、史瀬がハルを見る。
「仁さんは、今でも俺を憎んでるだろ」
「あんたを?」
何故、そう問うような史瀬の眼差しにハルは口の端を釣り上げるようにして笑った。
「何も、話してもらってないのか?」
「話?」
「俺は、仁さんの恋人を殺した」
「え……」
「殺した、って表現が正確じゃないなら、見殺しにした。そうじゃないなら、死に追いやった」
「どうして、あんたがそんなこと」
史瀬の問いに、どうしてかとハルは繰り返した。
「簡単に言えば、興味がなかったからだ。彼女がどうなろうが、俺には関係なかった」
虚勢でも言い訳でもない。ハルは真っ直ぐに史瀬を見つめたままそう応じた。
「けど、綺麗な女だった……お前に似てて。今でもたまに思い出す」
声音を落とし、囁くように告げるハル。史瀬は一瞬息を止めた。
「嘘だ」
「どうして?俺にはお前に嘘をつく理由なんかない。嘘をつく必要があるとしたら、仁さんの方じゃないか?」
「やめろ」
珍しく声を荒らげた史瀬に、ハルは憐れむような微笑を向ける。
「そんなもんだろ?人間なんて」
「俺たちは家族だ」
「ああ。その通りだ。家族なんて言葉には、何の意味も価値もない。家族だから愛し合う?家族だから許し合う?守り合う?傷つけ合う?憎み合う?騙し合う?お前が知ってる家族はどれだ?」
やめろと一度目より弱々しく史瀬が言った。蒼白な顔は何かに耐えようとするようにじっとハルを見つめる。
「お前たちはみんな、お互いを欺いてるだろ?本当の相手なんて知らないし、知ろうともしてない。その方が、穏やかでいられるからだ。もちろん、自分自身が」
まぁいい。ハルは不意にそう言うと史瀬に背を向けた。
「彼女の、
ハルの声を振り切るように史瀬はエントランスを抜けた。
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