第12話

 史瀬がアトリエから自分の部屋へ戻る途中、ホールからはピアノの音がした。CDではない。誰かが弾いている。激しいその旋律には聞き覚えがある。ショパンの革命のエチュードだった。

 史瀬はそっとホールの扉を開けた。弾けるように音が溢れだしてくる。

 「ハル……」

 ホールには奏者以外誰もいなかった。史瀬は無意識に後ろ手に扉を閉めた。

 叩きつけるような激しさを感じさせるのに、演奏には少しの乱れもない。彼がプロのピアニストだったとしても、史瀬は驚かなかっただろう。

 ハルは史瀬の存在に気付きながらも声をかけることはせず、続けて何曲か弾いた。どれも史瀬の知るショパンの曲だった。

 聞き惚れるほど見事な演奏だった。それでもハルは自分の演奏に酔うわけでもなく、まるで何かに強いられてでもいるかのように、機械的に弾き続けた。

 「飽きただろ?」

 不意に演奏を止めて立ち上がったハル。別れの曲を途中まで弾いたところだった。いや、と首を振る史瀬に皮肉に笑いかける。

 「ピアノくらい弾けるさ」

 ハルは鍵盤をでたらめに叩きながら呟く。

 「習ってたのか?」

 「習いたかったわけじゃない」

 「でも、すごかった」

 珍しく素直な感情を見せる史瀬にそうでもないとハル。

 「お前の妹だって弾けるだろ?」

 「ああ。父親が……昔教えてた。でも、あんたみたいに上手くない」

 言葉を選ぶように、あるいは自らの言葉に躓くように、史瀬は伏し目がちにそう言った。

 「子どもは、親のものだからな」

 単調に同じ鍵盤を叩くハルは

 「少なくとも、自分で自分を養えるようになるまで、子どもは、親の人生の一部だ」

 それが、どんな親であっても……感慨もなさそうに呟いた。

 「名前にしたってそうだ。存在は自身を名付けない。けど、親は勝手に子どもに名前をつける」

 「本当の、名前じゃないのか?」

 「本当の名前?」

 「ハル、って」

 「何故そう思う?」

 「何となく、そんな気がしただけだ」

 「戸籍に載ってるって意味では、本当の名前だな。迷惑な話だ。勝手に呼び方を決められるだけじゃなくて、それによっていろんな願いを背負わされるなんて。強くなれとか、美しくなれとか、賢くなれとか。まぁ、その程度ならましだとは思うけどな」

 「あんたの名前にも何かあるのか?」

 史瀬の問いに、ハルは口元を歪めるだけの笑みを浮かべた。

 「ハルカ」

 「はるか?」

 「伯母の名前だ」

 史瀬の顔が微かに強張る。何かを言いかけた口元が震えるように動いた。

 「伯母は春香はるかで、俺ははるだ。でも、伯母が死んでから親父は、俺をハルカって呼ぶようになった」

 史瀬が息を飲む。掠れた声が、何で、と呟いた。青ざめて見える史瀬に、ハルは皮肉な笑みを浮かべた。

 「それを俺に聞くのか?」

 「ちがう……そんなこと、聞くつもりじゃない」

 「違わないよ。それが、お前が俺に聞きたかったことだ」

 「ハル!」

 掴まれた腕を史瀬は振りほどこうとしたがハルはそれを許さなかった。

 「逃げなくていい。ほんとのことだ」

 「放せ」

 「教えてやるよ。お前にだけ」

 ハルは史瀬に顔を寄せながらそう囁いた。その瞳には何の感情もなく、ただ強い意志を持った闇が蹲っているように史瀬には見えた。

 「俺の両親は実の姉弟だ。父親は別の女と結婚してたが、あいつは家政婦みたいなもんだった。家から出られない義理の姉の面倒を見て、俺が家から出ないように監視して……あの男に金で買われたんだ。実の母親は俺が生まれる前から心を病んでた。俺が小学校に上がった頃、事故で死んだ」

 親父はと言いかけたハルを、もういいと史瀬が遮った。

 「やめてくれ……俺が、悪かった……本当にそんなこと聞くつもりじゃなかった」

 腕を掴んでいたハルの手を引き離そうと、史瀬は弱々しくハルの手首を掴む。

 「嘘つき」

 「何を」

 ハルの言葉に史瀬は震えた。

 蹲っていた闇は音もなく立ち上がり、静かに史瀬に迫る。

 「わかってて、聞いたんだろ?」

 「違う」

 「なら……確かめたかったのか?」

 「違う……」

 史瀬は呟いて小刻みに首を横に振る。ハルはその仕草を真似ながら空いていた方の手で史瀬の髪に触れた。

 「何が違う?お前は知ってたはずだ。知らなかったとしても、気付いてはいたはずだ」

 違うのか?間近に問われ、史瀬は違うと繰り返した。

 「俺とお前は同じだ」

 親父は、とどこか遠い目をしてハルは口を開いた。

 「俺の家庭教師をしていた男に刺されて死んだ」

 「え」

 驚きを隠せない史瀬にハルは微かな笑みで頷いた。

 「佐野さのっていう、二十歳の医大生だった。親父から俺を救おうとしてたんだ」

 救う、その言葉の持つ純粋な意味以上の重さがハルの声には滲んでいた。史瀬は黙ってハルを見つめることしかできなかった。

 「虐待から助けたいだけなら、自分が犯罪者になる必要なんてない。他に方法はいくらでもあるのに……佐野がそんなやり方を選んだのはどうしてか、わかるか?」

 史瀬は何も言わず首を微かに横に振る。ハルは不意に疲れたような笑みを浮かべた。

 「嫉妬だ。自分がしたいことを、他人が俺にしてる。それも実の父親が。それが許せなくなったんだろ」

 留まるのも、進むのもまた地獄。いつかハルはそんなことを言っていた。

 「見えなくても確かに、この世には地獄がある。おぞましくて、悲惨で、救いのない、惨憺たる世界が」

 そんな世界を、ハルは見てきたのだろうか。あるいはそんな世界で生きてきたのだろうか。

 「そんな所に長く居過ぎると、人間は人間じゃなくなる」

 ハルの掠れた呟きが、史瀬の胸に深く沈んでいく。

 「違うな……」

 唐突な言葉に、何がかと問うこともできず、史瀬はじっとした眼差しをハルに向けた。

 「俺は確かに佐野に救われた。それは間違いない。けど、俺が佐野を利用したのも事実だ。そうなるように、そそのかした」

 大したガキだろ?自嘲するようにハルは笑った。

 「ハル」

 「それで終わると信じてた。でもそんなの幻想だった。それから、何もかもどうでもよくなったんだ。どこに居ても、どう生きても、何も変わらない。どこに居ようが結局俺は地獄に繋がれてる。それに気づいた」

 「それは」

 気付くと、史瀬はそう言葉を発していた。ハルはいつになく優しい目をして史瀬を見た。その言葉の続きを既に知っているかのように。

 「それは、あんたのせいじゃないだろ?」

 息苦しさを覚えて、史瀬はハルから目を反らした。ハルは微笑んで、ああと呟いた。史瀬が驚いてハルを見る。今度はハルがそっと視線を外した。

 「お前の絵を、もっとずっと早く知ってれば」

 ハルは何を言おうとしているのだろう。史瀬はひとつの表情も見逃さないようにハルの顔をじっと見つめた。

 「雨が全てを消し去るなら、もしそう知ってたら、俺は」

 「ハル?」

 いや、ハルはそう呟いて首を横に振った。

 「何でもない」

 どこか疲れているようにも見えた、曖昧なハルの微笑。

 雨がもし全てを消し去るなら、ハルは何を祈ったのか。何を、消し去りたいと願ったのか。いつか、それは自分自身だったとハルは言ったけれど、今のハルならきっと、違う答えを返しただろう。史瀬には何故かそんな気がした。

 「部屋に、戻る途中だったんだろ?」

 「ああ」

 「俺も今日は仕事がある」

 行こうと無言で促し、ハルはドアを開けた。史瀬は黙ってハルに従った。



 珍しく事務所に残っていた仁は、深夜の訪問者に険しい表情を向けた。ハルはそれを意に介した様子もなく、手にしていたレポートを仁にかざした。

 「史瀬に関するレポートです。あの絵と、史瀬が抱えている精神的な葛藤について……染谷先生にご意見頂こうと思ってたんですが、先にご覧になりますか?」

 「結構だ」

 パソコンの画面に目を戻した仁は短く告げると作業を再開した。

 「ガラスケースに閉じ込めて、誰の目も触れない場所にしまっておきたい……史瀬をそんな風に思ってるんじゃないですか?」

 「どういう意味だ?」

 顔を上げた仁の怒気をはらんだ声に臆することなく、ハルは微笑した。

 「そのままですよ。自分だけのものにしておきたい。誰の手にも触れさせたくない。できれば誰の目にも」

 「いい加減にしないか」

 椅子から立ち上がった仁を、ハルはまっすぐ見返した。

 「伺ってもいいですか?どうして、史瀬たち兄妹を養子にしようと思ったのか。当時、仁さんはまだ二十代でしたよね?結婚することも、子どもを作ることも十分考えられる年齢だったのに……何故、養子を取ろうなんて考えたんですか?」

 何も言えない仁の表情は悔しげにも見える。それは、自分の考えが正しいという肯定だとハルは知っていた。

 「似てたから、じゃないんですか?初恋の人に」

 やめろと低い声で告げ、仁はハルから目を背ける。

 「否定、しないんですね」

 仁を揶揄するわけでも嘲笑するわけでもない。ハルの微かな笑みはどこか冷たく乾いていた。

 「何も、知らないんですか?」

 「何のことだ?」

 「史瀬と、素良に、何があったのか。どうして父親だけが焼死して、幼い兄妹は無傷だったのか。不思議に、思ったことはありませんか?」

 「何が言いたい?」

 仁の顔が青ざめる。ハルは口元に浮かべていた笑みを深くし、じっと仁の目を見つめた。

 「もしかして、そう思ったことが、あった。そういうことですか」

 「やめないか。私のことを何と言おうが勝手だが、史瀬と素良には何の罪もない」

 「どうして、知ろうとしないんです?だから、貴方には理解できないんだ」

 「もう十分だ。出ていけ」

 ハルを見ずに仁が命じる。

 「ええ。そうします」

 ハルはゆっくりと歩を進め、ドアを開けると僅かに仁の方を振り向いた。

 「そんなに心配しなくても、史瀬はそのうち、貴方の前からいなくなりますよ」

 嘲笑のようにも響いたハルの声。はっとしたように仁が振り向いた時、ハルはドアの向こうに消えていた。

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