鼓動
嘉木さんの一件の後、啓介はなにも言わずにさっさと帰宅し、寿直は教室で残って宿題を終わらせるとのことで、俺は部活に行くことにした。
最近の陸上部の活動は俺にとってちょっとした楽しみだ。
4月末に新しいマネージャーが入って来て、その子がなんと言ってもかわいい。
すらっとした体躯にくりっとした猫目。
長い髪を高く結んでいるのは祥子先輩を意識してのことだろうか。
ちなみに啓介の姉である笹井祥子先輩も陸上部だ。
中距離走のエースで大会でいくつも賞を取っている。
みんな大好き笹井先輩ってやつだ。
俺がどうかっていうと話は別で、俺自身は笹井先輩に対して何の興味もない。強いて言うならすげえなあ、くらいだろうか。
あと啓介が苦労するのもわかるよな、ってくらいか。
啓介が『弟』と言われて嫌がるのにはいくつか理由がある。
まず笹井先輩ファンから勝手に嫌われたり好かれたりすること。
それによりいじめとまではいわないまでも、多少の嫌がらせやらなんやらあったこと。
次に笹井先輩の弟ということで教師からなぞの期待をかけられていたことがあること。
最後に笹井先輩自身が弟に興味がないこと。
まったく、難儀な姉弟だよな。俺には兄弟がいないからよくわからないんだけど。
寿直にも妹がいるが、そちらは年が離れているためうまくいっているらしい。
というか寿直が幼い妹を目に入れても痛くないほど可愛がっている。
それはそれで大変そうだ。妹が。
陸上部の部室で着替えていると2年10組の藤崎冬弥(ふじさきとうや)が入ってきた。
こいつも熱狂的な笹井先輩ファンだ。
しかし何故か啓介とは仲がいい。啓介のことを『笹井弟』と呼んでも啓介が怒らないくらいには。
「よう直哉。早いんだな」
「HRが早く終わったからさ。あと啓介の機嫌が悪いから逃げてきた」
「啓介? あー、廊下で女の子と揉めてたやつ」
「知ってんのかよ」
そりゃそうか。あれだけ派手に騒いでたんだからクラスの違う冬弥が知っててもおかしくないよなあ。
「冬弥は嘉木さんのこと知ってる?」
「いいや知らん。誰だそれ」
「啓介ともめた子。知らないならいいや」
まあうちの学校、生徒数多いから同じ学年に知らないやつがいてもおかしくない。
むしろ大半知らない。
それに今は嘉木さんや冬弥にかまっている場合ではないのだ。
俺は早く着替えてマネージャーと共に柔軟体操を!!
「あ、今日京子ちゃん休みだから」
「は?」
「だから、1年の相内京子マネージャー休みだって」
「なん、だと」
思わずその場にがっくりと崩れ落ちる。
俺はいったい何のためにこんなに急いで部活に来たのか。
京子ちゃんがいないだと?
誰か嘘だと言って。
「いや待て、なんでお前がそれを知ってるんだ冬弥」
「ここに来る途中で顧問に言われた。他のマネージャーに伝えとけって」
まじでか。それは信ぴょう性のある情報だな。
「帰る」
「はあ?」
「俺は帰る。止めてくれるな冬弥」
「いや止めないけどさあ」
「止めろよ! 冷たいやつだな!?」
えーー、めんどくさい、みたいな顔で冬弥が目を細めている。
少しは止めてくれないと寂しいだろうが。
それにマジで帰ると後で顧問に怒られるので帰るわけにもいかないのだ。
「直哉は京子ちゃんのこと好きすぎるだろ」
「冬弥に言われたくない。冬弥だって祥子先輩大好きだろうが」
「直哉ごときが笹井先輩のこと名前で呼ぶんじゃねえ。むしるぞ」
いやほんと、どれだけ好きなのかと。
俺が京子ちゃんのことを気に入っているのなんて比べ物にならないんだろうなと心中思う。
だってそうだろ。
俺はちょっとかわいいなとか、一緒にいたいなとか、手をつなぎたいなとか、弁当作ってくれねえかなとか思うくらいだけど、冬弥はたぶんそんなもんじゃないもんな。
部活中に祥子先輩を見つめる冬弥の眼差しはいつだって真剣で、そういうの、羨ましいと思う。
そんな風に誰か一人を思うことができるようになったら、俺も少しは成長するのだろうか。
逆にそんな風に他人から思ってもらえるだけの価値が俺にはあるのだろうか。
そういうのわっかんないよな。
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