完璧な恋人 -Lies,Lise-

西條寺 サイ

第1話

 別れの言葉は何だったのか。

 今となってはもう思い出せないし、そもそもはっきりと何かを告げられたのかも定かではない。

 終わりは突然に。

 ただ、そこにいるはずのない人物がやってきた。

 彼を待っていた自分の元へ。

 江島えじまの驚いた顔が忘れられない。

 「どうして、お前がここにいる?」

 何かを確かめるようにそう尋ねた声は、オフィスで聞くものより柔らかくどこか悲しげだった。

 何も言えない自分に、江島は一度大きく息をついた。

 「隆生たかおを、待ってたのか?」

 どうして、江島の口からその名が出るのか。戸惑いながらも頷く自分を認め、江島は少しだけ目を伏せた。

 「あいつは、来ない」

 「何か、あったんですか?それに、どうして江島さんが?」

 千秋ちあき、と江島は労るように自分を見つめた。

 「隆生は俺の弟だ。母親は違うが」

 「弟……」

 ああ、と江島は頷いた。

 沈痛な江島の表情に、隆生に何かあったのかと千秋の胸が冷たくなる。

 「隆生さんは?」

 江島の沈黙。答えることを躊躇しているというより、答えを探しているような長い時間だった。少なくとも千秋にはそう感じられた。

 「隆生とお前のことは、何も聞いてない。ただ、隆生はもう、お前には会わないと、決めたんだ」

 「え?」

 耳を疑うような言葉に思わず江島を見つめる。

 「酷なことは言いたくないが、あいつには珍しいことじゃないんだ」

 それはどういう意味なのか、千秋がそう問う前に江島は続けた。

 「ただ、お前にとっては、急なことだったんだろ?……すまない」

 何に対してか、江島はそう言って頭を下げた。言われていることが理解できない。それ以前に何故という思いが激しく千秋を苛んだ。

 「どうして……」

 「千秋……ルール違反をしたのは、あいつの方だ。でも、家族がいるあいつには許されないことだっていうのは、お前も気づいてたんじゃないのか?」

 「家族って、江島さんたちのこと、ですか?」

 その言葉に、何かがわかりかけた。しかし、信じられない、信じたくないと言う思いが勝った。

 江島は驚いて顔を上げた。

 「隆生には自分の家庭がある。女房も子どももいる。お前、知らなかったのか?」

 頷く以外に何ができたのか。

 俯くと、低く押し殺した江島の声が聞こえた。

 「そうか……すまなかった」

 「そんな……江島さんは何も悪くないですよ。俺が、何も知らなかっただけで……隆生さんは、何か言ってましたか?」

 江島はゆっくりと千秋の傍らに腰掛けた。何を話すべきか、話さざるべきか、思い悩んでいるようにも見える。その横顔に少しでも隆生の面影を探そうとしている自分に気がついて千秋はまた顔を背ける。江島はその気配を感じたように、大丈夫かと声をかけた。

 「俺も、お前がここにいるなんて、思ってもいなかったんだ。ただ、この部屋に行ってくれと言われただけだ。そうすれば全部わかるからと」

 「そうですか」

 他人事のような言葉しか、浮かんでこなかった。他に何が言えたのだろう。隆生のことを何も知らなかった。そして何もわかっていなかった。千秋にはそれが何よりショックだった。

 隆生の何が本当で、何が嘘だったのだろう。

 「千秋?」

 心配そうな江島の目に大丈夫だと千秋は曖昧に笑う。

 何が嘘で、何が本当でも、それでも実際には、今と何も変わることはなかったのかも知れないと不意に思う。

 隆生の鮮烈な眩しさは、彼の私生活を知ったところで損なわれることはなかっただろう。

 違うとすれば、後ろめたさや罪悪感を覚えたかどうか。その重さの中に、いつくるかわからない別れに対する覚悟のようなものが持てたとしても、それがどうしたというのか。

 隆生を拒絶することなど、きっと、どんな理由からでもできはしなかった。

 そう自分を慰めて、少し安堵する。いつか終わりがくる。それが今日来ただけで、それは時間だけの問題で、わかっていたことだった。

 「すまない」

 再びそう告げた江島の腕に抱き寄せられた時、千秋はようやく自分が泣いていたことに気がついた。

 「それでも、よかった」

 「千秋……」

 労わるように優しく、江島が背中を撫でた。

 それでも何があっても、嘘であっても、どんな形でも、隆生の傍にいたかった。

 千秋の心はひとつ、それだけだった。


 「嘘はどこまでいってもただの嘘ですが、たくさんの嘘の中にはほんのちょっとだけ真実が混ざってることもあるんです」

 店のうす暗い照明の下、どう見ても女性にしか見えないドレス姿のけいはそう言いながら修一しゅういちにグラスを差し出した。

 「何の話だ?」

 店の黒服が女装し客をもてなす日を、クラブ・ライズではブラックドレスナイトと呼んでいる。付け爪なのか、昨日はまでは短く切りそろえられていた慶の爪には今や店のホステスと同じくらい派手なデコレーションが施されている。普段から美少年として知られている慶のアゲ嬢姿は修一の目から見ても美しかった。本人もそれを意識しているのか、化粧で跳ね上げた目元に小悪魔的な雰囲気を漂わせている。

 いつもとは違う、女性的な表情で慶は笑った。

 「そんなこと、考えたりしませんか?」

 「しないな」

 素っ気なく首を傾げ修一はグラスを受け取った。

 「嘘は嘘だろ。善意からついたものでも悪意でついたものでも、同じ嘘だ」

 「ビジネス上の嘘は、善意ですか?それとも悪意ですか?」

 「お前のことか?」

 慶は微笑んで修一にしなだれかかる。一応、胸の谷間らしきものも見えるが、実際慶に胸はないはずだった。

 ゴージャスなダイヤモンドらしきものをあしらったネックレスが輝く首筋から胸元へ指先を滑らせながら、修一は慶の目を覗き込んだ。

 「嘘っていうより、イミテーションだな」

 「偽物だって言いたいんですか?」

 唇を尖らせる慶の頬に手のひらを押し当て怒るなよと修一は囁く。

 「本物と見分けがつかないイミテーションは、ある意味本物だ」

 慶は笑いながら修一のキスを受け入れた。

 自分より年上ではあるが、やんちゃでどこか憎めないこの青年実業家が慶は好きだった。遊び方も派手だがスマートで嫌味がない。

 修一に入れ上げるのはやめたはずだったのに、こうして触れられるのはそれでも嬉しかった。ご法度とも言えるような仕事をこなしているのも修一への好意からだと言えないこともない。

 慶は微かに目を開けて純粋でも野心的でもある若き社長を見た。 

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