第184話 雪の中で守護天使を救う者
山藤からの連絡を受けてから、俺はあれやこれやと自宅からの脱出をどう推敲するか考えていたが、計画がまとまらないのと疲れたのとで、いつの間にか眠ってしまった。
目を覚ましたのは、オフクロの罵声である。
「いつまで寝てんの! 父さんと母さんの大切な日に!」
俺にはどうだっていい。別にキリスト教徒ではないんだから、今日だって平常運転でいいはずだ。
実際、オヤジは仕事に行っている。
「お父さん、今日は7時半くらいに帰るって」
おまけに、朝食は白飯と納豆と海苔に味噌汁だった。大切な日が聞いて呆れる。
だが、食事が終わった途端、俺は古代ローマの奴隷のごとく、掃除に駆り立てられた。それでも、というかその強行軍の甲斐あって、家の中の掃除はどうにかケリがついた。
オフクロは、夕食を昼食前から準備しているが、それができるまでには、充分な間がある。
俺は昼食を済ませると、2階の自室に戻って脱出の機会を練ることにした。
だが、部屋に入ったところで再び、暴君のお召しが掛かる。
「家の周りの蜘蛛の巣取っといて!」
人使いが荒いにも程がある。立ってるものは親でも使うというから、親が息子をコキ使うのは当然のことなのだろう。
俺は仕方なく、玄関から外に出た。
そこで初めて気がついて、驚いた。
「何だよ、この雪!」
視界が真っ白になるほどの大雪だった。雨のように降りしきる雪に背を向けて、家の中に駆け戻る。
俺の抗議に、オフクロはしれっと答えた。
「じゃあ、雪かきしといて」
肚に一物ある俺は逆らうこともなく、部屋に戻って厚着をする。
「めんどくさいな、もう……」
そうぶつくさ言いながら、トレーナーの上に、雪かき用に買い与えられたドカジャンを着る。
使い捨てカイロをあちこちゅのポケットに突っ込めば、雪の中でも3時間は持ちそうなくらいの防寒対策になった。
「さて……」
腹を括って部屋を出ようとしたが、そこで、はたと気がついたことがあった。
「しまった……」
俺は超高速で雪かきをした家の外のバス停で、降りしきる大粒の雪を頭のてっぺんに受けながら、呆然として立ち尽くしていた。
路線バスが休日シフトに入ってしまい、バスが2時間に1本ぐらいしかやってこないのだった。
オフクロは夕食の準備に忙しい。だいたい、そのために俺をコキ使って街中まで買い出しをさせたのだ。今さら、家の外に出ることは考えられなかった。
その隙を突いて、俺は街中への脱出を敢行するつもりだったのだ。
最初の計算では、なんとか午後6時半になる前にカラオケ「ひまわり」で沙羅を待ち伏せるつもりだった。
沙羅があんな思わせぶりなメッセージをよこしたのには、理由がある。
たぶん、酒に酔わせた上での狼藉を予感して、未然に救い出してほしいと言っていたのだ。
「ちゃんと断れよ、ヤバイと思ったら……」
妙なところで意地を張られて大迷惑であるが、それでもバスのアクセスがいつも通りだったら、オヤジの帰る直前に家の中で何食わぬ顔をしていられる計算であだった。
だが、その前提が完全に崩れたのである。
「まずい……」
次のバスに乗ったら、絶対に間に合わない。もう、俺には沙羅を救い出す方法がない。いや、沙羅なら何とかするんじゃないかという気もする。だが、それでも俺は沙羅の顔を正面から見られなくなる。
担任に緊急メールを送って情報を流す手もあるが、万が一、沙羅が取り越し苦労をしていた場合、生徒と教員両方から総スカンを食らい、年明けから引っ越しまで苦難の日々を送ることになる。
すると、頼みの綱は山藤しかないが、いくら異世界でもグェイブなしではやっぱりただの人だったこいつは、どこへ行こうとたかがネトゲ廃人に過ぎない。
つまり、俺の手で、沙羅を田舎者の饗宴から救い出す方法はないということだ。
視界を真っ白にして降りしきる雪の中で、俺は絶望の淵に立たされた。
だが……そのときだった。
どこまでも続く白い闇を切り裂いて、2本の光条が伸びてきた。やがて、その奥に、獣の姿がぼんやりと現れる。
「え……?」
それは次第に大きな影となって、俺の前に現れた。
ずんぐりとした体に、光る2つの目。
「猫……」
いや、それに似た形のバスだった。
雪のせいか、割とゆっくりと通り過ぎる。俺はとっさに、そのドアへと飛びつかんばかりに追いすがった。
「すみませーん、待ってくださーい!」
かなり望み薄ではあったが、猫みたいな形の幼稚園バスは止まってくれた。ドアが開いて、中から雪の降りしきる中へと顔を出したのは、あのエプロンのお姉さんだった。
「あら、この間のボク!」
そういう呼び方は嫌だったが、この場合、そんなことも言っていられない。
「あの……乗せてください、お願いします!」
「ん~……」
お姉さんは眉根を寄せて考えていたが、急にそっぽを向いた。
やっぱりダメか、と思ったとき、ドスの利いた声が運転席へと飛んだ。
「訳アリだってよ、しりとりの兄ちゃん!」
その、しり取りのお兄ちゃんが小さな小さな椅子に屈みこんで座ると、エプロン先生は腹を抱えて笑った。
「ちょっと、窓際詰めて」
言われるなりに尻をずらすと、空いた席にお姉さんがとん、と座った。
シートが小さいので、身体がやたら密着する。
その肌の温かさと柔らかさに加えて、沙羅からは感じない香りが、コロンの匂いに混じって感じられた。
「あ、あの……」
「出発進行!」
離れてくれという俺の哀願は言葉にならず、お姉さんはバスを発車させた。これで、道路交通法上、もう立ってはもらえない。
「ふふ、高校生男子だ」
流し目なんか送られて、俺は窓の外へと目を逸らす。
昼間だというのに、もう日が沈むんじゃないかと思うくらい、暗い。その中を、横殴りの雪が飛び過ぎていく。
その様子をぼうっと眺めていると、しなやかな指が頬をつついた。
沙羅やリューナを思い出してドキッとすると、お姉さんが微笑みながらこっちを見ている。
「冗談よ、冗談……こないだは、ありがと」
「いえ……」
助けてもらったのはこっちのほうだ。大雪で路線バスが動けなくなったとき、町役場が緊急で幼稚園バスを回してくれたおかげで、なんとか自宅まで帰り着くことができたのだ。
沙羅には笑われたが。
「しりとり、好評だったよ、園児たちに」
その口調も、どちらかというと子どもをおだてているかのようだった。俺は一応、照れてみせる。
「いやあ……」
さらにお姉さんは、にやにや笑いながら迫ってきた。
「デートの待ち合わせかな? クリスマスだし」
「いや、何というか……」
図星といえば、いえなくもない。つい、口ごもったところで、お姉さんは急に切り出した。
「しりとりやらない?」
「何で……」
わけが分からず、しどろもどろになって答えると、お姉さんは僕に断りもなくゲームを開始した。
「カノジョ!」
「ジョ……ジョシコウセイ」
思いついた言葉が悪かった。
「イ……
ダメだ。なぜかデートの方向に思考がロックされていた。お姉さんは調子に乗って、その色恋縛りを続ける。
「
人の好みは様々という意味だが、お姉さんのじっと見つめてくる視線は熱かった。意味ありげに首を傾げるのにまた、ドキッとする。
だが、お姉さんはまた、にやっと笑った。
「冗~談!」
「……やめてください」
ついムッとしたところでお姉さんは僕を肘でつついた。
「で、相手はどんな子?」
俺がまた言葉に詰まったところで、ポケットのスマホが振動した。
沙羅かと思って取り出してみると、オフクロからだ。
「まだ終わらないの?」
「あと……1時間くらい」
そう、の一言で電話は切れた。
血も涙もないオフクロである。だが、お姉さんは誤解した。
「もうすぐ着くよ……せっかちな彼女だね」
そこで、バスは止まった。運転手席から、ぼそっと尋ねる声がした。
「バスターミナルだけど……どうする?」
「降ります!」
俺はお姉さんの膝に乗るような格好で、横ばいにバスの通路へと出た。
開いたドアから、降りしきる雪の中に飛び降りる。後ろで走り去るバスから、お姉さんの声が呼んでいた。
「頑張ってね~!」
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