第109話 悪の守護天使、トロイの木馬を仕掛ける

 俺もさすがに、木の陰にいた少年が兵士の暴力に逆上したときには焦った。

《あの野郎!》

 気持ちは分かるが、ここで飛び出されてはシャント…山藤もろとも一網打尽だ。だから、幼子を除いて、その場にいた全員が止めに入った時は心の底から安心した。

 シャントたちが地面に押さえ込んだ少年は、それでもなお、暴れた。

《行かせろよ》

 声を荒らげられたら、それだけでも見つかるおそれがある。そこは分かっているのか、少年の上から覆いかぶさっていた女の子が、声を低めてなだめた。

《ダメよ》

 しばらくもがいていた少年がやっと落ち着いて、その場は静かになった。だからといって、シャント…山藤にも実際、何ができる状況でもない。

 まず、村人は残らず拘束されている。連中にとってリューナは裏切者だが、彼女を助け出すには僭王の使いと戦わなくてはならない。その点で、シャント…山藤との利害は一致する。解放すれば恩も売れるし、味方につけられるかもしれない。

 ただ、全員をひとりで助け出すのは普通に考えても容易なことではない。ましてや、山藤ではどうにもならないだろう。リューナ救出は単独でやるしかない。

 その上、兵士は松明を掲げて交代で監視している。これが夜明けまで続くとなると、リューナを助けに行く前に捕まる危険性は高い。それを避けて壁の向こうへ行くような隠密行動が、山藤に取れるわけがない。

 結論として、山藤ではリューナも、村人も救出できない。僭王の使いの言い分に従えば、テヒブが現れない限り、どちらも解放されないことになる。

 シャント…山藤にそこら辺の計算ができているとは思えないが、うずくまったまま行動を起こしていないという点では、何もできないことに違いはない。

 実に、困ったことになった。それをやらせるのが、シャント…山藤の守護天使たる俺の仕事だ。

 さっき頭に血を上らせて、僭王の兵士たちの群れに突っ込んでいこうとしていた少年が、うずくまるシャント…山藤を見つめて言った。

《父ちゃんを助けて、グェイブ》

 少年の目に涙が光っているのは、CG処理された画面でも結構、胸に来るものがあった。

 正直、山藤としてはリューナが助かればいいはずである。だが、この涙を見て立ち上がらないヤツは男じゃない。俺がこの異世界に転生していたら、やはり頷いただろう。

 とはいえ、この子どもたちに共感してのことかというと、そうではない。そうするのが正しいと思うからだ。

 画面の中では子どもたちが、親兄弟を慕って泣いている。だが、俺はたぶん、こんな経験をしたことはない。

 何となく、部屋の戸を眺めてみた。

 ……俺の親は、この下の階にいる。

 台所でオフクロは韓流ドラマ見て、オヤジはたぶん晩酌の最中だ。こんな両親を、俺はありがたいとも思っていない。

 それを思うと、子どもたちの涙にはちょっと胸に詰まるものが感じられた。

 ……山藤はどうだろう?

 再びスマホの中の異世界に目を戻すと、シャントは既に立ち上がっていた。リューナも村人も救おうとしているのは、手にしたグェイブの刃を見つめていることからも分かる。

 だが、俺をギクッとさせたことがあった。こいつを見上げる女の子が、いきなり服を脱ぎ始めたのである。

 ……何だ? いきなり何だ?

 人畜無害のネトゲ廃人も、現実と妄想の区別がつかなければ、ただの犯罪者だ。

「やめろ山藤!」

 つい叫んでしまったのが、階下のオヤジオフクロの干渉を招いた。

「うるさいよ、栄!」

「スマホの契約切るぞ!」

 俺は部屋のドアを開けて、畏れ多くも両親に顔も見せずに返事した。

「悪い!」

 何にせよ、見てはいけないものを見てしまった気がする。部屋に戻っておそるおそるスマホ画面を確かめると、シャント…山藤がグェイブの刃を、子どもたちが差し出した服で覆っているところだった。

 ……そういうことかよ。

 女の子は、もう服を着ている。そこから顔を背けていたシャント…山藤は、そろそろと壁に向かって歩き出した。

 やっとのことで問題が1つ片付いたわけだが、ここで忘れてはいけないことがある。

 俺は、「悪の守護天使」なのだ。 山藤にとっては!

 一応、ミッションを達成してやらないと現実世界に戻るきっかけもつかめないので、そっちに誘導してやってはいる。

 だが、タダで助けてはやらない。

 それをやるのは「正義の守護天使」綾見沙羅のほうだ。徹底的にお膳立てしてやってこの異世界のヒーローに仕立て上げ、現実世界に帰る気をなくさせようとしているのがこの女である。

 しかし、そうはさせない。

 クラス全員が異世界転生して、魂の抜けた身代わりが品行方正な学校生活を送っている毎日は、平凡で平穏な生活を望む俺としては我慢がならない。

 もともと、山藤耕哉ががシャント・コウとして抱えていたのは、吸血鬼ヴォクス男爵からリューナを守るというミッションだった。

 それなのに、国家内乱が絡む大事件になってしまったために、俺は最近、すっかりフォローに回っている。だ

 が、本来は、二度としたくなくなるような苦労の末にミッションを解決させて、現実のほうがよほどマシだと思わせるのが俺の仕事なのだ。

 ……そんなわけで、と。

 俺は松明を持っていない、ヒマそうな兵士の頭にマーカーを設置した。壁に向かってそろそろと歩くシャント・コウに接近させる。

 シャント・コウの影が、壁に駆け寄った。俺は構わず、そっちに向かって兵士を接近させる。こうすれば、闇に紛れて逃げるしかない。

 といっても、追い込む先は、壁の向こうの光が漏れてくる明るい方向だ。当然、発見されるリスクは高い。いくら山藤でも、そのくらいは分かるはずだ。

 つまり、二者択一を迫ったわけである。

 ……さあ、どうする? ネトゲ廃人、山藤耕哉君。

 リューナを救い出すために敢えて危険を冒すか、命を惜しんで夜闇の彼方へと逃げ去るか。

 じっと見ていると、画面の上に一瞬だけ、吹き出しのウィンドウが現れた。

「そこで待て」

 誰かが話したからセリフが出たわけだが、誰から誰へのものかは分からない。

 ……他に誰かいる?

 他の兵士が現れたのなら、まずい。シャントの姿が発見されるかもしれないのだ。

 俺は画面をぐるりと回転させたが、誰もいなかった。シャントはというと、その間にグェイブを抱えて壁沿いに走りだしていた。

 向かう先は、もちろん、壁の裂け目だ。僭王の使いの命令で破壊された、全く意味のない「吸血鬼除けの」石垣である。ここの村人によって築かれた無知と徒労の結晶の傷口に、シャント…山藤は駆け込んでいった。

 だが、これは一か八かの勝負だった。なにしろ、壁の向こうがどうなっているか、山藤は全く知らないのである。

 ただ、言えることが一つある。世の中には、知らないほうが幸せなことはいくらでもあるということだ。 

 この場合も、例外ではなかった。壁の向こうには国家権力そのものが控えていて、その周辺は厳重な警戒のもとにある。それを知っていたら、物を少しでも考える人間は尻込みして行動を起こせないだろう。

 追われる恐怖があったとはいえ、事情を知らない単純なネトゲ廃人だからこそ、こんな無謀なマネができたのだ。

 では、それをやらせた俺に勝算があるかというと、はっきりしたものはなかった。むしろ、山藤のことだから捕まる危険性の方が高い。いや、それが狙いだったというほうが正しいだろう。

 そのカギは、グェイブだ。もちろん、山藤が使う以上、武器としては全く期待できない。使うのではなく、持ち主であるということが肝心なのだ。

 シャント…山藤が捕まるということは、グェイブが持ち主でない者の手に渡ることなのである。

 その結果として、何が起こるか。


 俺に追い込まれたシャント…山藤は村境を越えて、壁の向こう側へと入り込んでいった。いや、出ていったというべきだろうか。

 いずれにせよ、そこは今、敵陣の真っ只中だった。

 この壁はもともと、道を封鎖する形で作られたものである。僭王の使いは壁を前にして、自らやってきた道の真ん中に天幕を据えている。当然のことながら、護衛の兵士もいちばん多い。

 山藤がそこへ近寄れば、真っ先に奪い取られるのはグェイブだ。その瞬間、凄まじい閃光と衝撃が、触った本人と、辺りにいる者を一瞬で薙ぎ倒すはずである。

 早い話、山藤自身が特攻兵器というか人間爆弾というか、一種のトロイの木馬になるというわけだった。

 もっとも、山藤が常識で測れる行動を取るというのが最大の前提である。

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